第28話 隣にはたった一人がいてくれたから
午後は稜月ちゃんに浅瀬で泳ぎ方を教えたり、シートの上でお喋りしたりして過ごした。
稜月ちゃんは海に戻るよりここでベタベタしていたい……的なことを言っていたけれど、わたしはどうしても身体を動かしたい気分だった。
「でも、水、怖い」
「うん、わかってる。だけど、怖いことだからこそ、ちょっとでも慣れておいたほうがいいと思うんだよね。腰より深いところには行かないようにするからさ、それなら我慢できない?」
「嫌……って言ったら?」
「ひとりで泳いでよっかなあ、夢中になってお喋りの時間減っちゃうかも」
「あっ、ずるーい、そういうやり方するんだ」
「へへっ、稜月ちゃんも得意でしょ。ほら、おいで」
「うぅ、仕方ないなあ、優しくしてね……」
そうして稜月ちゃんがギブアップするまで、泳ぎというか、水に慣れる練習をした。最初は顔をつけるのすら嫌がっていたけど、最終的にはわたしの手を持ってバタ足くらいならできるようになっていた。
あまりにも苦手なものだから、プールの授業はどうしていたのか、他の友達や家族と水場に行った時はどうしていたのかと、砂浜での休憩中に聞いてみた。
「出たことないもん、プール授業」
そう言われて苦笑するしかなく。
「行ったことないもん、川も海も。この間、下調べで来たのが初めて」
こう言われて、気持ちが沈むのと上がるのが、同時にやってきた。
膝を抱えて、稜月ちゃんは海を見つめていた。ぷっくらした横顔、その奥にはどんな人生が刻まれてるんだろう。聞いても、詳しく教えてくれない。ちょうどわたしが、特定の話題を避けているように。
それがよくないのかなと、思った。
また海に戻って、軽く練習をして、あっという間に日は暮れた。
後片付けを済ませ、手を繋いで燃え残る夕日を眺めた。
肺の奥まで空気を吸って、たっぷり時間をかけて吐いた。
「んーいい風、やっぱり来れて良かったなぁ」
「そうだね」
西日のせいもあるけど、稜月ちゃんの表情は暗かった。返事もどこか気が抜けていた。
「あのー、稜月ちゃん、わたしの教え方……下手だった?」
「手も足も疲れた、いたぁい、抱っこしてほしい」
「ごめんなさい、ちょっと調子乗ったかも」
ぽりぽりと頬をかいた。上達してくれるのが嬉しくて、後半スパルタ気味だった。
「許しません。でも、私が落ち込んでるように見えたのなら、そのせいじゃないよ」
こちらを向いた顔に、夕陽と影の赤と黒がくっきり別れた。
「帰り、また辛いよね。人が減るまで、どこかで時間つぶしてく?」
「あ、ありがとう、それでか」
胸に日があたって、中があったかくなった。
「でも、稜月ちゃんがいるから、きっと大丈夫だよ。遅くなると心配されるし、今から帰ろう」
「光、いつの間にか、ちょっと変わった。無理しても、いいことないよ?」
「それもありがと。けど、無理なんてしてないよ、頑張ってはいるけどね」
口を閉じて、上下に合わさった唇の感覚を確かめる。胸をノックして、足に尋ねて、頭に聞いてみる。ねえわたし、今なら大丈夫だよね?
力が入って、緩んで、繋がった左手が、大丈夫だよ、と答えてくれた。
「それでね、稜月ちゃんにだけ、聞いてほしいことがあるの。わたしの、一番苦しいところ、今じゃなきゃ、言えないこと」
一瞬、身体がすくんで、でも稜月ちゃんの瞳を見ると、心と一緒にほぐれた。
「わたしのこれまでのこと。おかしくなっちゃう、本当の理由」
あまり多くのことは思い出さないようにして、ただこのわたしに起きたことを話した。
嫌なことがあった、家族がいなくなった、街が壊れるのを見た。人がいっぱいいる場所に行くと、すべてが壊れた日のことを思い出してしまって、自分がどこにいるのかわからなくなってしまう。何度も何度も大丈夫だよと自分に言い聞かせて、本当のわたしを伝えた。
稜月ちゃんは、目を見張って、口を少し開けていた。わたしを見つめるその瞳は、小刻みに揺れている。驚いている、無理もないか、いきなりこんな重い話をしちゃって。
「ずっと自分が自分じゃない気がして、今どこにいるのかすら、わからなかったんだ。たまにちゃんと眠れる日があっても、嫌な……夢を見ちゃって、またわからなくなる」
「光っ、それ以上は」
心配しないで、と首を振った。
「けどね、稜月ちゃんと仲良くなってから、そういう夢をあんまり……ううん、最近は全く見なくなったんだ。それでね、それで、少しは、たまにだけど、ほんとたまにだけど考えられるようになって、わたしは思ったんだ」
繋いだ手をぎゅと握りしめる。強く、強く、負けない。
「お父さん、お母さん、それから妹――灯里のためにも、ちゃんと生きなきゃって」
「ちゃんと……」
「頑張れるのは、いつも灯里と、稜月ちゃんが側にいてくれるから。そうだ、最初は嘘ついちゃってごめんなさい」
「ぁ、いいの、いいの、事情がありそうなのはわかってたから、そっか光はちゃんと自分の過去を見つめてちゃ……見つめてるんだね、えらいね」
「えらくなんてないよ。逃げてばっかりだし、よわっちいし、お弁当も上手く作れないしね」
頭の中の重りが形を変えて、ほっぺの笑顔になった。
不安そうな表情の稜月ちゃんを見ていると、抱きつきたい気持ちになってくる。胸がぽかぽかして、心地いい。辛いより、ちょっぴり上。
茜色の空を、見上げた。
お父さん、お母さん、灯里、まだちゃんとは生きられてないけど、わたしね、好きな人が出来たよ。
たまたま女の子だったけど、許して、くれるよね。
夜に変わろうとするまだら模様の空に、海鳥が鳴いていた。
帰り道は、平気でもなかったけど、平気だった。
手のひらの感触が、世界の全部よりもおっきかったから。
どれだけ多くの人がいても、隣にはたった一人がいてくれたから。
俯かないで、歩けた。




