第26話 たのしい日
ガクンっと視界が落ちた。つま先が、ぼやけて見えた。二の腕に爪が食い込んでいて、閃光のように痛みが弾けた。
食道を逆流して、なにかがこみあげてくる。でも顎を上げて、それを無理やり押し戻す。違う違う違う違う違うここは違うなにも怖くないなにも壊れないなにもいなくならない稜月ちゃんは帰って来る絶対帰ってきてくれる。耐える、耐えなきゃ。
「へいき、わたしは平気」
下唇を噛み締めて、鼻で息をした。下腹部に両手を当てて、押し込んだ。椅子から、背中が離れた。足にうまく力が入らなくて、膝が地面に触れた。
周囲の視線を感じる。人が引いて、小さな輪になっている。なにか言っているが、なにも聞こえない。
立たなきゃ、立って稜月ちゃんを迎えなきゃ。一生このままでいるつもりか、このまま楽しいことを全部台無しにする気か、そんなの、そんなの嫌だ、灯里にだって申し訳ない。
「光っ!」
稜月ちゃんの悲鳴が聞こえて、遅れてどすっとペットボトルが落ちる音がした。全力疾走で、人を突き飛ばしながらこっちにやってくるその姿が見えた。
しゃがみ込んで、稜月ちゃんはわたしの二の腕に手をおいた。
「なんでそんなになって、休んでて言ったのに」
「ごめん、立とうとしたらバランス崩しちゃった」
「そんなわけない、もういい、もういいの、一緒に村に帰ろう。無理やり連れ出しちゃって、ごめんなさい」
稜月ちゃんは顔を伏せた。表情が動いたのだけはわかったけど、影で暗くなっていて読み取れなかった。
村に帰れる。辛くない、あの場所に。考えるだけで、少し胸が楽になった。
でも、でも。
「だめだよ、絶対に帰らないって言った、今日は、ちゃんとやるって約束した」
稜月ちゃんは勢いよく顔を上げた。
「ダメじゃない、無理してるのわかるもん。このままじゃ光が壊れちゃう」
潤んでいるその瞳を、まっすぐに見つめた。
「違うよ、わたしは、壊れたままじゃいられないんだ」
肩を借りて、立ち上がった。深く息を吸って、胸の鈍痛を追い払った。
八両もある車体が、ブレーキ音を鳴らしてホームに滑り込んでくる。膝に乗せてあった稜月ちゃんの左手を、掴んだ。ぎゅっと握りしめた。
「行こう、楽しい日を台無しになんてしないよ」
稜月ちゃんは下を向いて、無言で立ち上がった。
床に放ってあったバッグを拾って、乗降口を目指した。
ひんやりとしたその手を、引きながら。
走る電車内のドア付近に立って、ふたりで身体を寄せ合った。稜月ちゃんはずっと下を向いたまま浮かない顔をしていた。その状態のまま三駅進んだところで、一気に人が減った。おかげで喉のつっかえが取れて、お喋りがしやすくなった。
「ほら、ちょっと我慢したらもう平気。また迷惑かけちゃったけど、そのぶんいっぱい楽しもうね」
笑顔を向けても、稜月ちゃんは下を向いたままだった。一瞬口が開きかけて、閉じたかと思うと、またすぐに開けた。
「光はえらいよね、頑張ってると思う、だけどね、私はどうしても思っちゃうの」
ぼそぼそとしていて、やっぱり元気がない。
「苦しいときは苦しい、辛いときは辛い、その気持ちを許してあげてほしい」
「稜月ちゃん……」
「私にだって、もっと頼っていいんだよ。それが光のためなら、村に帰るのだって全然嫌じゃなかったもん」
「そう言ってくれて、嬉しい。ありがとうって、何度伝えても足りないくらい。でも、ごめんなさいもあって、恥ずかしいんだけど、ちょっと甘えすぎてたなって反省したの」
髪の毛が浮くほどの早さで、稜月ちゃんは顔を上げた。
「反省なんてしなくていい、いいんだよ」
今にも泣き出しそうな、歪んだ顔。頬に触れようと手を伸ばしかけて、見つからない位置で引っ込めた。また、まただ、こんな気持ち、変なのに。
「光は光のままでいいの、無理して変わろうなんて……そんなの違う」
「稜月ちゃんは今の……おかしくなっちゃうわたしを、変だって思わないの?」
ふるふると揺れる瞳に、わたしが映っていた。
「変なのはいけないことなの?」
「いけなくは、ないと思う」
言葉尻に、声が小さくなっていく。手に力が入る。変でもいい、いいのかもしれないけど、けど。
「でも、ね、わたしはそんな自分が嫌なんだ。だから、これからもたくさん心配かけちゃうと思うけど、ちょ、ちょっと待ってね、えーと、えっと……」
ふぅ、と息を吐いた。また胸がバクバク言ってる。本当に、嫌な身体だ。でも我慢、今だけは。
言った。
「そんなわたしを、好きでいてくれたら嬉しい……って思う」
心臓がはち切れそうだった。なに言ってる、わたし。
稜月ちゃんはまるまると目を見開いていた。
「それって愛の告白?」
全身が熱い、痒い、ドキドキがうるさい。違う、違うもん。
「あ、あ、そういうわけじゃなくて、大切な友達としてって、意味で、ごめんなさい、稜月ちゃんはわたしを、お、女の子として」言葉が喉を出るのを嫌がった。「す、好きなのに……」
思いっきり顔を逸らした。こひゅーと息が出た。稜月ちゃんは言った。
「そうやってまた私の気持ちを弄ぶんだね」
「ご、ごめんね、ほんとにごめんなさい、わたしまだちょっとおかしくて――ぁ」
頬にちゅうっととろけるような唇の感覚があった。
それは撫でるような、短いキスで。
「頑張ったご褒美に、今日はこれだけで許してあげる」
「あ、ありがとう」
触れられたところが、じんじんと熱を持っていた。
あぁ、なんだろうこの気持ち、ふわふわして、溶けてしまいそうで、もうこのまま……いやいやいやそうじゃないだろわたし、今は集中しなくちゃいけないことがあるんだ。学校のことちゃんと決まってから、もっとまともになってから、向き合おう、そうしよう。
帰らなくて、本当に良かった。逃げてたら、こんな話は出来なかった。
胸に手を当ててると、ちらっと窓の外が見えた。
「わぁ……」
光がまたたいて、青色と混ざり合う。車窓に映る景色は、どこまでも広がる大海原だった。




