第20話 カウントダウン
稜月ちゃんに手を引かれ、建物の影にあるベンチに移動した。
また汚れてしまったセーラー服を見て、わたしは頭を下げた。
「ご、ごめんなさい、服に、わたしの、その……汚いものが、ついちゃって、あの、本当にごめんなさい。クリーニング代はちゃんと払うから、ごめんなさい、ごめんなさい」
繰り返し頭を下げた。わたしの服についていた吐瀉物が移って、制服に染みができていた。小石ぐらいの大きさで、クリーニングなんてしてももう着たくないかもしれない。
「んー」と、稜月ちゃんは悩んでいるような声を出した。あまり深刻そうな調子ではなかった。
「別にいいよ。全然気にしないで、クリーニングもいらないから」
「え、でも」
顔を上げると、稜月ちゃんは身体を潜り込ませるようにして覗き込んできた。腰を曲げたままだったわたしよりも、さらに低い位置に頭があった。
「それでぇ、なんで泣いてたの? やっぱり、私に会えなかったから?」
「な、泣いてなんか……頭をぶつけて、痛かったから、それだけ」
「ふぅん」
稜月ちゃんは身体を離して、目を細めた。
「じゃあ、これは?」
そう言って、稜月ちゃんはセーラー服の裾についた茶色いシミを指さした。
「それは、その、ちょっと気分が悪くて……」
「どうして?」
「どうしてって、ええと……」
頭の中に、バチバチと火花が弾ける。まためまいがしてくる。
理由、理由、ええと、変になったきっかけ、それって。
そうだ。
「ぁ……」
稜月ちゃんの顔が目について、熱波のような風よりも、頬の内側が熱くなった。言えない、言えるわけがない。
口を閉ざしたままでいると、稜月ちゃんはいやらしい笑顔を浮かべた。
「正直に話してくれないなら、服のこと、やっぱり許すのなしにしよっかなー」
「え、え、そんなの後出し……」
「うーん? 本当に反省してるのかなあ?」
「し、してます……ごめんなさい……」
肩が丸まって、目を伏せそうになった。
「嘘つきの光は嫌いになっちゃうかも」
稜月ちゃんはそっぽを向くように、斜め上に顔を向けた。
嫌い、その言葉が頭の中を跳ね回る。心が一本の線のようになって、ちぎれてしまいそうだった。身体中に虫が這い回って、肌が骨から離れていくような気がした。
「どうする? ちゃんと話してくれたら、もっと光のこと好きになっちゃうけど」
甘い吐息を、吹きかけられてるみたいだ。好き、好きって言われるだけで、胸の中が暖かくなる。稜月ちゃんはわたしが好き、嫌いになっちゃうけど、まだ好き、もっと好き。
うー、と唸り声のようなものが喉を伝わってくる。頭をぶんぶん振りたくなって、我慢する。だめ、だめだ、流されちゃいけない。好きとか、嫌いとか、そういうのは一旦忘れて、ちゃんと考えよう。嘘は、確かにつきたくない。だけど、変な誤解されるのも、キツイ。
「まーだ?」
「ちょ、ちょっと待って、理由、思い出すから」
「あと五秒。ごー、よん」
うぅ、稜月ちゃんが心配だった、苦しかった。だから、だからちょっと変になってわたしはおかしくて、だけどそんなこと言えなくて、言えるはずなくて、言ったら。
「さーん、に」
まるで好きだってみたいになっちゃうから。言わないで、言っちゃダメだ。
でも、でも、嘘は嫌だ。嘘を付くと、嫌われちゃう。わたしなんかいらないって、わたしなんか、わたし。
「いちぃ」
言う。言わない。
嘘。本当。
誰か、あ、あ、灯里、お姉ちゃんどうしたら、だめ、ダメだ。誰も答えてくれない。誰もいない。自分で決めないと、ちゃんと、ひとりで。
ビブラートをかけるように、稜月ちゃんは音を伸ばした。
「ぜぇーろ」
目が合う。稜月ちゃんはいつのまにか、正面からわたしを見つめている。笑ってる、楽しそうで、どこか小悪魔的でもある。楽しんでいる、いや、期待してる、わたしが、まともだってことを。
ゼロ、ゼロっ、次はない、マイナスはない。あ、あ、あぁ。
言った。
「わ、わたしは! あ、あ、うぅ……稜月ちゃんに、稜月ちゃんに……」
「んー、よく聞こえないよ」
両目を見開いた、声を大にした。もうやぶれかぶれ。
「稜月ちゃんに会いたくて、来てくれなかったから……とっても不安だったの」
涙が滲んできた。汗ばむ手に、ぎゅうっと力が入った。内股になって、足の指がむずかゆかった。
稜月ちゃんは両手を広げた。笑顔の十乗って感じの笑顔で、わたしに飛びついてきた。
「よく言えましたぁ。えらいえらい」
抱きつかれながら、頭を撫でられる。
馬鹿みたいな絵面なのに、逃げ出すなんて無理だった。
職員さんに謝って、汚いものを掃除させてもらって、それから家に帰ることにした。お腹や腕、洗い流しても残る茶色い跡。こんな服を着てたら、勉強どころじゃない。
なのに、稜月ちゃんと来たら。
「手、つなご、いいよね」
返事も聞かずに手を握ってきた。内側から絡めてきて、腕までくっついた。
「ね、ねえ、あんまりくっつかないほうがいいよ。もっと汚れちゃう」
「光に汚いところなんてないからいーの」
稜月ちゃんは気持ちよさそうに目を閉じた。
「そんなことよりもなによりもね、手を繋げないのは嫌だもん」
鼻の下がムズムズと動いた。
「これ、手だけじゃなくて、抱きついてるんじゃ……」
「そうだね」
稜月ちゃんはそれ以上なにも言わず、結局、そのまま歩き続けることになった。




