第19話 やめて、もうやめて
稜月ちゃん、いつもは絶対先に来てるのに、遅刻なんて珍しい。また、中にいるのかな、最初の日みたいに。でも最近はずっと、いや、いいや、いい、別に約束してるわけじゃないし。遅刻なんて。
中に入っても稜月ちゃんはいなかった。席はがらんどうで、利用者は一人もいない。椅子はきっちり机の下に収まっていて、整頓されている。黒っぽさすらある古い電灯の光が、床にぼやけていた。
顔を上げて、高いところにある時計を見た。もう開館から十五分も過ぎてる。いつもなら、とっくに来てるのに。
後ろを覗くように、振り向いた。カウンターがあって、その隣には重いガラス戸が閉まっていた。扉の奥は薄暗くて、動くものはなにもなかった。
胸を抑える。すー、はー、呼吸をする。今日は学校に行ったのかも。いいかげん休みすぎてたし、そろそろやばいって思って。でも、稜月ちゃんがそんなことあるのかな。なにも言わないなんてこと、あるのかな。
なにかあったのかも、ここに来るまでに。そんな、そんなことあるわけ。
「……あるわけ」
ない、絶対なにもない。ただ、遅刻してるだけ、ひょっこり顔出すに決まってる。そうだ、稜月ちゃんに連絡。肩にかかったトートバッグを開く。手を突っ込んで、スマホを探して、その途中で止まった。
「……あ」
もってなかったんだ、稜月ちゃん。家の電話も知らない。
心臓はどんどん、どんどん早くなる。本当になにかあったの。熱中症とか、事故とか。事故、まさかそんなわけない、こんな村で、そんなこと起きない。
目を瞑る。ありえない、そんなのない、ない、ないない。
待ってればそのうち来るはず、はず。
手から力を抜いて、ようやく机に向かった。トートバッグを机に置くと、どすっと重い音が響いた。
十五分、三十分、一時間経っても稜月ちゃんは来ない。時計を見て、目を机に戻して、ノートは白い。お腹の前で組んだ手が、ずっと暴れてる。
唇の内側が乾いて冷たくて、剥がれそう。頭がぐらつく、喉の奥が気持ち悪い。
稜月ちゃん、なんで、どこにいるの、どうしてこないの、いつもいるのに、今日はなんて。今日は、今日は、学校、でもおかしい、わたしになにも言わないなんて、そんなのない、あの子が絶対におかしい。なにかあった、あったのかもしれない、事故、ここに来る途中で、わたしのせいで。
「ぅ……」
お腹の真ん中から、なにかがせり上がってくる。喉から少し漏れて、つばを飲んで押し込める。ちぢこまった腕が震える。うぅ、うぅと声が漏れる。
光が弾けて、暗いところが見える。崩れる家、人、悲鳴。なにもみえないのに、なにかが見える、見える。
机に突っ伏す。汗塗れの手で顔を押さえる。
「ゃ……ゃだ……いゃ……」
力の入らない口から、よだれが垂れてる。
目の淵が水に濡れてる。
「も、やだ、やだよぉ……やだ……なんで、稜月ちゃん、なんで……稜月ちゃん」
立ち上がる。出入り口を見る。足が動き出す。
どんと胸と肩に衝撃が走った。ドアの分厚いガラスが目の前にあった。両手を使って、押し開けた。
腕が重い。頭が重い。視界が斜めってる。外の光、白いそれを目指す。歩く。
「わたしが……わたしが……」
またガラスにぶつかって、外に出た。見えるものはぼやけていて、うっすらと膜が張ってる。じーん、じーん、と蝉の声が聞こえる。
「ぅ……うぉえ……」
込み上げてきて、胃のものが外に出た。咳が出る。飛び散る。
ただ前に進んだ。がくっがくっと揺れる、白い世界をただ前に。
わたしが、わたしがいるから、稜月ちゃん。だから、だから、だか――
「あれ、光」
ギラギラする駐車場に、人の姿があった。なにもなくて白い場所に、ひとつだけ黒くて色のあるものが浮かんでる。小さな肩、丸い頭。手のひらを、口に当てている。
わたしを、見ている。
「どうしたの」
息ができない。全身が汗にまみれる。じんと震えが奥底からやってくる。
暑い、暑い、背中が暑い、足が暑い、目元がつめたい。
「稜月ちゃん……稜月…ちゃん……」
ふぅっと全身の筋肉が緩んで、膝からその場に崩れ落ちた。
どうしても笑顔になって、駆け寄ってくる稜月ちゃんを見た。
「大丈夫? どうしたの、そんなに――」
「よか……ったぁ……」
腕を伸ばす。手を掴む。稜月ちゃん、稜月ちゃん、いる、いる、ちゃんといる。
「ぁ、ひか、きゃ」
引っ張ると、稜月ちゃんが倒れてきた。重なって、背中に腕を回した。
「あはぁ……あは……稜月ちゃんだぁ……稜月……」
「うん、そうだよ。光の稜月だよ」
「よかっ、よかった……いつ、稜月ちゃぁ……ぅ…ぅぅ」
涙がこぼれて、止まらなくなった。我慢しようとすればするほど、逆効果だった。
笑みを堪えきれないというように、稜月ちゃんの口角が上がった。
「もしかして、寂しかった?」
「う、あ、え」
頷こうとして、途中で止まった。なんでだっけ、なんで泣いてるんだろ。稜月ちゃんに会いたかった、会えなかった、事故なんて、でもそんなのあるわけない。なのに、なんで。
涙が急に止まって、身体中が熱くなった。
「わたし、なんで」
「嬉しい」
稜月ちゃんは指を伸ばして、わたしの頬に触れた。なぞるように人差し指を動かして、それを自分の口元に運んだ。
ちゅぱ、という、水っぽい音が聞こえた。




