第13話 寝ても覚めても
わたしのことを光って呼んでくる人は三人いる。みちるちゃん、おばあちゃん、それと。
稜月ちゃん。
深い溜息が出た。夕食後、部屋に戻ってきてから、ずっと身体が重い。
マットレスにお尻が沈んだ。頬の筋肉が骨にくっついてるだけみたいで顔に力が入らない。
カチ、カチと聞こえてきて顔を上げると、時計は一時半だった。いいかげん寝よう、明日も別になにもないけど。
額を抑えて、頭を振った。キスなんて初めてだったのに。
「はああ」
頭を垂らした。首の付け根に痛みが溜まってくる頃に、上げた。目も開く。
「寝よう」
寝てしまう、寝よう、もうこんなこと考えるのやめよう、堂々巡りだし。だいたいあの子が勝手に……勝手に。胸が狭くなって、言葉の塊がつっかえた。
振り向いて、枕を見た。胃が上がってくるような感覚があった。白い枕、カバーはピカピカで病院みたい。シーツもぴったり整えられていてズレはない、薄い掛け布団も。
「稜月ちゃん……」
かすれた声が、身体の内側に沈んでいった。
電気を消して、布団に入った。目を閉じても皮膚の裏側が虫みたいに動いていて、なかなか眠れなかった。
姉ちゃん、姉ちゃん、と呼ぶ声がする。
窓から日が差して白っぽい廊下。きゅっきゅ鳴る艶っぽい床は、果てが霞んで見えないほどに長い。人の気配は無くしんとしていて、窓の外では高い木が揺れていた。
昼間なのに蛍光灯が点いていて、人の背くらいあるそれが、等間隔に天井にくっついていた。端っこが黒く真ん中が白いそれを眺めていると、また声が聞こえた。すぐ近く、胸元からだ。
「姉ちゃん、姉ちゃんってば」
顔を下げると、赤いランドセルの女の子がいた。切って揃えた前髪の下で、ちまきの紐みたいに口を結んでいた。むすっとしていて、眉に段がついている。
「灯里」
半開きになった口の奥から、声が出た。
頭一個小さい妹は、笑顔になった。前歯の欠けた歯を見せて、笑ってる。くりくりのお目々に見つめられていると、こっちの頬も緩んでくる。
「どうしたの、お姉ちゃんに用事?」
「これ!」
灯里は元気よく両手を掲げた。その手にはフェルトで作られた人形が握られていた。頭の大きい男性型と、顔の細い女性型。口は半分に切ったハムみたいな形で、笑顔に見える。ピンの目は、なぜか愛嬌がある。丸まった手足、縫い目は粗いけどちゃんと人の形をしてる。
「お裁縫の時間に作ったんだよ、お父さんとお母さん」
「へえ、よくできてるね。お父さんなんかそっくり、お腹のあたりとか」
ぽっこり豆のようにお腹が飛び出していた。おかしくって、口を抑えて笑った。ほんとうによくできてる、デフォルメが上手。手先はまだぶきっちょだけど、見込みはある。
視線を動かすと人形がぼやけて、灯里の顔がくっきりと見えた。にししと聞こえてきそうな口元、うざいくらいに誇らしげな目、一仕事終えた職人さんみたいだ。
灯里を見つめてるだけで、時間が流れていく。会話もないけど、別にいい。
かがむように、灯里に顔を近づけた。
「ねえ灯里、そのお人形、ふたつだけなの? お姉ちゃんのもあると嬉しいなぁ」
ぱく、ぱくと灯里の口が動いて、声が聞こえた。
「ないよ」
真っ暗闇のトンネルの中で呟かれたような、声だった。
「灯里のはあるけど、姉ちゃんのはない、姉ちゃんのだけはない」
ツルのように首を曲げて、灯里は顔を伏せた。肌が灰のように白くなって、首筋に骨が浮き出していた。皮膚が破けて、後頭部から丸いなにかが飛び出してきた。
「姉ちゃんは違うもん、姉ちゃんはいないもん、姉ちゃんは、姉ちゃんは」
ジッパーのように背中が開いて、灯里の皮膚が地面に落ちていった。中から出てきたのは、剥き出しの筋肉で、時間を置いた血みたいに黒い。頭だけがフェルトで出来ていて――それが顔を上げて、わたしを見た。ピンの目が、ハムの口が、わたしを見上げていた。
「ぁ……ぁぁ……ぁ……あか……」
お尻の割れ目の奥が弛緩して、下腹部に溜まっていたものが漏れ出た。腰に力が入らなくて、足が震えて、膝が折れて、尻もちをついた。手の平をこすって下がろうとしても、空回りしてうごかない、うごかない。きゅっきゅっと廊下が鳴いて、手の皮がずるむけになる。
フェルトの顔が、わたしを見下ろす。全部が黒ぐろとして、光は差さない。
「姉ちゃんだけが、お前だけが、死、死ね、死ね死ね死ね、早く死ねよ死ねよ早く死ねよ、死ね死ね」
「わだ……ちがっ……ちがそんな……ちがっ……いがう……」
息が早くなる。震える。逃げる、逃げられない、逃げない、逃げたくない、逃げないと「ぁ、ぁ、ぁ、ぁぁ、あ、あ、あ、あ、いやぁ、いやあ……いやぁ……」
顔面が潰れて、鈍い痛みだけになった。歪んで崩れて唇がめくれて、濡れて、もうなにも見えない。息ができない、呼吸が止まってる。心臓の音も聞こえない。
廊下の冷たさを背中に感じる。腕も足も折れて逆向きになって、身体は転がってる。力がなくなって、ぴくぴくする上まぶただけが見えた。股間がぬるくて、パンツはびしょ濡れだった。
「光」
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、わたしはわたしだけなんてそんなつもりない、ないよ、一緒だって良かったのに一緒だったのに、わだしわたしなんて。
目も濡れて、水っぽい。右耳のすぐ後ろ、後頭部が痛い。灯里の声はもう聞こえない。沈んでいく、海の奥深いところに。静かに、静かに「光ってば、私を無視するの?」
ぱっと目が開いた。涙は消えて、乾いていた。




