第11話 これ最高
振り返って出口を見た。はぁ、帰ったらなにしよっかな。てかまた歩くじゃん、めんど。
歩き出すと、後ろから物音が聞こえた。床を叩くような、振動。お、逆ギレかな、そういうのもあるんだ。
「ま、待って」
足を止めて振り向くと、光が腕を伸ばしていた。
鼻水を垂らして、目元を光らせて。這いずりながら、私に、すがるように。
ぞわぞわっと全身が粟立った。大きなものが下腹部あたりから、広がった。
唾を撒き散らしながら、光は叫んだ。
「いかないでっ、やめて……やめて……ごめんなさいっ、ごめんなさい……わたしをわたしを……」
頬が浮く。勝手に目が見開かれる。全身汗まみれで、息が早すぎる。
「お願いだから……いなくならないでぇ………」
光は崩れ落ちた。顔を伏せて、すすり泣く音だけが聞こえる。
息を呑んだ、つばを飲んだ。荒い呼吸。足が震えて、ふわりとする。頭がくらくら、脳が揺れる。視界がキーンとする。
ビクッと身体が反応して、反り返った。頭から降りていって、股間が湿っぽくなる。だらだら、だらだら、気持ちいいものに支配された。
「へっ、えへへ」
顎が浮いて、目が上がって、おかしな声が漏れた。
ゆっくり息を吐きながら、自分の胸をさすった。まだばくばくしてる、なかなか治まってくれない。上がってくる頬を抑えるのが、難しい。汗塗れで、身体中がしめっぽい。
深く吸って吐いてようやく呼吸を整えて、光に向き直った。三角座りしながら、ひくひくと泣いている。
「ぅ……ぅっ……うぅ……うぅうぅ」
過呼吸みたいにひっひっと吸って、ぜえぜえ吐き出す。泣いているというよりも怯えてるみたいで、上半身が激しく上下していた。顔は赤っぽくて、目の周りがてかてかしてる。視線は、膝か手か床かわかんないけど、ずっと下を向いて動かない。
すぐ後ろに立って、それを見下ろす。ほっぺたの奥が火照る。うわぁ、わぁ、こうなるんだ。足の付け根をマッサージされてる感じがあって、中がずっとくすぐったい。
笑顔がやっぱり抑えきれない。光、すごい。
合わせた唇をぐじぐじこねくり回して、一度引っ込めて、震えを奥へとおいやった。
「ねえ、大丈夫? ごめんね、ついカッとなって、酷いこと言っちゃって」
光の肩が跳ねた。顔を上げて、私の方を見ようとした。けどすぐに正面に戻って、またこっちを向こうとして、右往左往って感じで、結局声だけが聞こえてきた。
「ぁ……ひど……ごめ、ご、気に、気にしない、で、わるいの、わだし」
「ううん、そんなことない。あんなふうに言われたら誰だって傷つくよね……本当にごめんなさい」
声を沈める。足元を見る。つま先で、板の床を擦る。
「私、人に嫌われたりするの、すごく嫌で、それでつい……なんて、言い訳にもならないよね。ごめんね、ほんと、ごめんなさい」
頭を下げると、前髪が目に刺さった。光は一点を見つめたままで、振り向かない。
「私のこと嫌……なんだよね、迷惑だって気づかなかった……もう付きまとったりしないから、光のこと放っておくから、いなくなるから」
まだ聞こえていた嗚咽が止んだ。光の背筋がすぅっと伸びて、身長が五センチくらい高くなった。初めて話した赤ちゃんみたいな声が聞こえてくる。
「まっ、ま、ぁ」
隙間風のような、喉の音。光の声は擦り切れてる。あの髪の裏側でどんな顔してるんだろう。きっと自殺よりも、もっとすごい。
姿勢を正して、お腹の前で手を組んだ。
「光」
よたよたと振り向いた光と、目が合った。
脳みそがなくなったような、抜けてしまった顔。下唇の裏側がちょこっと見えてる。ゾンビだってもうちょっとましな表情する。
身体を伝わる緩やかな甘さに身を任せて、自然と笑顔になった。目を細めて、頭を軽く傾けた。
「友達に、なりたかったな」
光の両目がバッと見開かれた。上体をねじって、それこそゾンビみたいに手を伸ばす。角張った右手が震えてる。「あ、あ」と喉から短い音が出てる。
私は目を瞑る。頭から先に、出口の方を向く。
「さようなら」
足を一歩前に出すと、青春ドラマみたいな涙混じりの叫びが聞こえてきた。
「いがないでぇっ」
振り向く。光は両手をついて、上目遣いになって私を見ていた。
「光?」
「い、いやなんかじゃ、ない、ない、わたしへんなの、わだしがへんなの、へんだから、へん、稜月ちゃんわるぐない、わるぐないからぁ……迷惑だなんて思わないでぇ……」
真冬みたいな熱っぽい息が口を出た。見下ろす光はぐちゃぐちゃに潰れていて、人間の形じゃなくて肉団子のようにも見える。でも、きれい。これだぁ、これだったんだ。
これ、最高。




