第10話 おい三奈木光
目の下に溜まっていた暖かいものが、垂れるように落ちていった。汗ばむ親指の爪が、他の指を引っ掻いた。鼻骨に鈍い痛みが染みてきて、胃のあたりに吐き気が現れる。
左手の指がずっと暴れてる。なにそれ、やっぱりそうなの、やっぱり私なんて嫌なの、私を、私なんて、光でさえも、そんな、そんなの。
顔を逸らして、光とは正反対を向いた。息を吸って吐いて、丸めた唇を噛んで、目を閉じて、表情を整える。よし、よしよしよしよし、この顔、この顔だけ、これで。
「い、稜月ちゃん……どうかした……?」
震え混じりの声が右耳に届いて、頭の締めつけがすこし緩やかになった。
ちゃんと笑顔で、光に向き直る。二人の間には、拳になった左手が置かれていた。まあいいや、いい、それぐらい、いい。いいって。
「どうもしてないよ、やっとゆっくりお喋りできるなって、うふっ、嬉しかったの」
表情のない光と目が合う。三秒もしないうちに逸らされる。
「嬉しい……そっか……でも、こんなとこ、ちょっと変だよね」
「変?」
「普通じゃないっていうか、学校とか、もっとちゃんとした場所が良かったよね、ごめんね、合わせてもらって、せっかく気にかけて、くれてるのに」
「いいよどこだって、光がいれば。人がいるところだと邪魔が入りそうだし」
光は一瞬顔を上げて、すぐに俯いた。
「ていうか学校って、もしかして、うちに転入してくるの?」
「ぁ……」
下を向いたまま、光は首を左右に振る。
「そういうわけじゃないんだ、全然そういうこと決まってなくて……ごめんなさい……」
「そっかぁ、あ、でもうちはやめといたほうがいいよ、校則厳しいし、先生ウザいし、クラスメイトも面白い子いないし、てかさ、学校なんてしばらくいいんじゃない、いいなぁ、私も本当はそうしたかった」
光はまた顔を上げた。縦に動く振り子みたいだ。目を合わせようとすると、それは避けられる。口を見てる、変なの。
「あ、あはは……いいわけ、ないよ、そんなの。稜月ちゃんが羨ましい、ちゃんと、してて」
左手の指が勝手に動き出して、床を叩いた。爪で木材をがりがり削って、円を描いて、また叩いて、止まらない。
「ちゃんとなんてしてない。別にいいじゃん、誰かの言いなりとかやだし」
「ぁ……ごめんなさい、そういうつもりで言ったんじゃなくて」
腰の横に置かれていた光の手を取る。両手で握りしめると、げんこつ岩みたいに固くなった。力が入っているのが、触っているだけでわかった。
瞳が揺れていて、光の顔はなんだかのっぺりしてる。
「こんな話聞いてくれるの光くらいだよ、他の奴らはウザいことしか言わないし」
腕の皮膚が軽く逆立つような感覚がした。
「光は違う、そうじゃない、変なこと言わないよね。ここだってとっても素敵だよ、キモいとか意味わかんないとか言わないじゃん、誰も来ないよ、来ないからいいんじゃん、そうだったんでしょ」
「ぇ……ぁ……そ……やめ……」
光はもっと手に力を入れた。もう隠さずに逃げ出そうとしてる。引っ張られて、強く握って。むしろ引き寄せる。
胸元に近づけて、ぎゅっと握りしめる。
「ね、ね、そうでしょ、光だって本当は学校なんてどうでもいいんだよね」
「やめて……やめ……」
肩を寄せる。腕ごと抱きしめる。目を瞑って、二の腕に頬をすりあわせる。ああ光、光、好き……好き?
ぱちっと目が開いた。あれ、いまなんて――
「やめてっ」
光が叫んだ。胸と腕を包んでいたやわらかくてあたたかいものが、激しく打ち付ける雨のようになった。
腕から、腕が離れていった。
「わたしに、触らないで」
光が大きくのけぞった。背中側にほとんど倒れて、腕だけで身体を支えていた。唇が白くなっていて、息が荒い。ぁとかうぅだとか変な声がちょくちょく聞こえてくる。
は? なにそれ、なにその反応。あ? はぁ? いみわかんな。触らないで、触るなって、さわ、さわるな、は? は? は?
胸の中で汗が吹き出す。お腹の筋肉が固まる。上がってくる。目と鼻の奥が詰まる。目玉がせり出す。前歯だけが合わさって、奥歯が浮いてる。
「ああ?」
逃げようとする三奈木光を見つめる。立ち上がる。右手で壁を叩く。建物全体が震えるような音がする。汗ばむ手の平が滑る。
うざったい顔が、親にビビる子供みたいな顔で、私を見上げていた。
「なに、なんのつもり、へー、そうだったんだ、嫌だったんだ、私なんて、へー、へー」
「ぁ……そん……ちが……いま、いまの」
「うるさい」
もうおしまいだよ。ずっとおちょくりやがって、ふざけんな。今更なんだよ、なんだよ。
舌打ちが、響いた。
「最悪」
最悪。
「お前なんて、死ねばよかったのに」
すぅっと胸が軽くなって。肩から力が抜けた。




