第9章:閉じた画面の向こう
1
智恵はスマートフォンを伏せた。
台所では味噌汁が煮立ち、蓋の隙間から白い泡がこぼれていた。火を止めなければと思うのに、足が動かなかった。
焦げた味噌の匂いに気づいた結衣が、リビングから顔を出した。
「お母さん、鍋」
智恵はようやくコンロへ手を伸ばした。火を消したあとも、鍋を移すことを忘れ、同じ場所に立ち続けた。
「どうしたの」
「何でもない」
言った瞬間、自分が再び同じ道を選びかけていると分かった。
一人で隠し、都合のよい仮面を被り、家族が気づかないことを願う。ノエルを育てたのは、その繰り返しだった。
「……違う。何でもなくない」
智恵はスマートフォンを持ち、リビングへ戻った。
和彦と結衣の前で、メールを開いた。
2
智恵は残していたすべての記録を見せた。
【狂い咲き】に送った、不倫相手の妻へ写真を送れという助言。
【近隣の影】から届いた、スーパーや夕食の内容を示す文章。
腐りかけたバラの花弁。
結衣を撮った写真。
そして【絶望の淵】へ、自らの命をもって抗議しろと書き込んだ文章。
「脅されていたとしても、書いたのは私」
智恵は言った。
「結衣を守りたいと思った。でも、知らない誰かの命を差し出していい理由にはならなかった。私は怖くて、あなたたちにも警察にも言えなかった」
和彦は画面を読み終えると、何も言わずに立ち上がった。
智恵は怒鳴られるのを待った。
和彦は洗面所へ行き、両手を水で濡らして顔を洗った。戻ってきたとき、声はかすれていた。
「正直に言う。今すぐお前を許せるか分からない」
「うん」
「でも、この相手は今も俺たちを狙っている。ここでお前だけを責めて終わったら、結衣まで危険に晒す」
結衣は俯いていた。
「お母さん」
「なに」
「私の写真を使われたから、あの人に死ねって言ったの?」
「そう。あなたを守るつもりだった」
「そんな守り方、されたくなかった」
智恵は言い訳をせず、「ごめんなさい」と答えた。
結衣は立ち上がり、部屋へ戻った。ドアは強く閉まった。
だが数分後、廊下に足音が戻ってきた。結衣は自分のスマートフォンをテーブルへ置いた。
「これも警察に持っていく。私の写真も、あの人たちとのやり取りも。全部」
その声には怒りが残っていた。それでも、同じ食卓から逃げずに選んだ言葉だった。
3
三人はその日のうちに警察へ相談した。
担当者は、智恵を被害者としてだけ扱わなかった。脅迫やつきまといの証拠を確認する一方、ノエル名義の投稿についても、経緯を細かく尋ねた。
「ご家族の安全確保と、あなたが投稿した内容の調査は別です」
女性警察官ははっきり言った。
「脅された事情は重要です。ただ、それによって投稿の影響がなかったことにはなりません。今後、相手の男性の安否や、サイトの記録も確認します」
「はい」
智恵は何度もペンを持ち直しながら、供述書を書いた。自分をよく見せる言葉を探しそうになるたび、手を止めた。そして、覚えていることだけを書いた。
結衣は別室で少年担当の職員と話した。智恵は同席を求めなかった。結衣が自分の言葉を取り戻すために、母親のいない場所が必要なこともある。
和彦は待合室の硬い椅子に座り、会社へ休む連絡を入れた。
「家庭の事情で、しばらく早く帰る日が増えます」
電話の向こうから何か尋ねられたが、和彦は「必要な説明は後日します」と答えた。世間体を守るために家族を隠してきた男が、初めて仕事より先に家庭を置いた。
4
警察への相談後、家には防犯確認が入った。
玄関とベランダの鍵に異常はなく、室内から盗聴器も見つからなかった。【近隣の影】は室内の会話を聞いていたのではなく、マンションの向かいにある時間貸し駐車場や近隣の通路から、明かりと家族の出入りを観察していた可能性が高いという。ゴミ集積所に出された不燃ごみやレシートの類をあさっていた形跡も確認された。智恵が捨てたセレクトショップのレシートも、そこから読み取られたものだった。
家族は位置情報を共有し、帰宅時間が変わるときは短い連絡を入れることにした。結衣のスマートフォンからは問題のアプリを削除したが、和彦は取り上げることをしなかった。
「監視されるために家へ戻ったんじゃない」
結衣がそう言ったからだ。
代わりに、夜に不安になったときは、短い合図を家族のグループへ送ることにした。言葉にできないときは、白い丸を一つ送る。それを見た誰かが、返事を急かさずに居場所だけを確かめる。
智恵はパソコンを処分しなかった。
警察へ提出する記録を保全する必要があったためだ。作業机の上から電源コードだけを外し、証拠として封をした箱に入れた。
捨てれば過去が消えるわけではない。
残し、調べられ、責任を問われることもまた、現実へ戻る一部だった。
5
一週間後、結衣は学校のスクールカウンセラーと初めて面談した。
帰宅した結衣は、靴を脱いだあと玄関に座り込んだ。
「何も話せなかった」
智恵は隣へ座らず、少し離れた廊下に腰を下ろした。
「行けただけでいいと思う」
「そういう正しいこと言わないで」
「ごめん」
しばらくして、結衣が続けた。
「でも、次も来ていいって言われた」
「うん」
「次は、一個くらい話す」
智恵は頷くだけにした。
和彦もすぐには変われなかった。仕事から帰ると反射的に「飯は?」と言いかけ、途中で口を閉じる日があった。結衣の帰宅が遅いと声を荒らげ、あとから不安を怒りに変えたことを謝った。
智恵もまた、結衣の沈黙を見て「私が救わなければ」と考えかけた。そのたび、ノエルが他人へ正解を押しつけた記憶が蘇った。
家族は少しずつ、相手の苦しみを解決することと、相手のそばにいることの違いを覚えていった。
そんなある日の午後、【近隣の影】から新たなメールが届いた。
『私は、あなたの狂信者です』
『昔、【狂い咲き】として相談したことを覚えていますか』
『本日午後五時、屋上で待っています』
『来なければ、保存している写真と投稿記録を公開します』
智恵は読み終えると、スマートフォンを食卓へ置いた。
今度は隠さなかった。




