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『名前のない毒を食む』  作者: 久遠 睦


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第10章:屋上の風

1

警察は、智恵に一人で屋上へ向かわないよう求めた。

相手を刺激せず、指定時刻の前に周囲へ捜査員を配置する。智恵が会う場合も、家族は安全な場所で待機し、合図があれば直ちに介入する。その手順が説明された。

担当したのは、四十代半ばの女性刑事、中西だった。声は低く、抑揚が少ない。智恵の話を遮ることなく、けれど聞き流すこともなかった。

「山下由香里は、これまでも複数の人間に接触を試みています。あなたが最初の相手ではない可能性があります」

中西は言った。

「だからこそ、あなたに来てほしいと言っている。相手にとって、あなたは『特別』であり続けなければならない存在だから」

智恵は、自分がまだ「ノエル」という名前で誰かに求められていることに、吐き気にも似た感覚を覚えた。あの全能感を、もう一度演じなければならない。今度は誰かを救うためではなく、自分の罪を終わらせるために。

「私が行かなければ、出てこないと思います」

智恵は言った。

「相手はノエルに会いたがっている。日高智恵ではなく、自分が作り上げたノエルに」

和彦は反対した。

「危険すぎる。警察に任せればいい」

「任せるわ。でも、逃げたままにはしない。これは相手を捕まえるためだけじゃない。私が、自分の言葉で終わらせなければならないことなの」

和彦は食卓に両手をついた。

「お前が言ってることは分かる。分かるけど、危ない橋を渡るのはもう終わりにしてくれ。娘の前でこれ以上、母親が傷つくところを見せたくない」

その言葉に、結衣が顔を上げた。

「私の前で、じゃなくて、私のことも数えてよ」

結衣の声には尖りがあったが、以前のような拒絶ではなかった。

「お母さんが行くなら、私も知る権利がある。子供扱いしないで」

智恵は結衣を見た。反抗期の刺々しさの奥に、初めて対等な言葉を向けられている感覚があった。

「分かった。何を話し合っているかは、全部伝える」

その夜、三人は食卓に地図と警察から渡された資料を広げ、当日の動き――誰がどこで待機し、何かあった場合にどう連絡を取るか――を確認した。かつて智恵が一人で抱え込み、隠し続けたことを、今度は三人で分け合った。

結衣は長く黙っていた。

「お母さん、死んで償おうとか思ってないよね」

智恵は結衣の顔をまっすぐに見た。

「思っていない。生きて、責任を負う」

「じゃあ、帰ってきて」

「帰ってくる」

それは劇的な抱擁ではなかった。

智恵が差し出した小指に、結衣が自分の小指を一度だけ絡めた。それだけで約束は成立した。

翌日の午後、智恵は録音機器を渡され、指定されたビルへ向かった。ママチャリではなく、徒歩を選んだ。ペダルを漕ぐ余裕はなかった。

夏の終わりの日差しが、アスファルトに長い影を落としていた。歩くたびに、ノエルとして得た全能感と、結衣を探して繁華街を走り回った夜と、由香里から届いた無数のメッセージが、順不同に頭をよぎった。


2

午後五時前、屋上には強い風が吹いていた。

西日が給水塔の影を長く伸ばし、郊外の屋根を赤く染めている。

智恵は録音機器を身につけ、鉄製の扉を開けた。階下には警察官が待機している。和彦と結衣は別の建物内で保護されていた。

階段を上る一段ごとに、鼓動が大きくなった。

ノエルとして得た称賛、由香里に授けた言葉、絶望の淵への一文、結衣の写真、腐ったバラの花弁――そのすべてが、この扉の向こうに集約されているような気がした。

鉄の取っ手は、日中の熱を吸ってひどく熱かった。智恵は一度だけ深く息を吸い、扉を押し開けた。

給水塔の陰から、痩せた女が現れた。

安い生地のワンピース。乱れた髪。片手にはスマートフォンが握られている。もう片方の手は、身体の後ろに隠されていた。

「待っていました、ノエル様」

「山下由香里さんね」

本名を呼ばれた女の口元が歪んだ。

「その名前で呼ばないで。私は、あなたに選ばれた【狂い咲き】よ」

「私は誰も選んでいない」

「嘘。あなたは私に正解をくれた。佐藤の妻へ写真を送れって。あの一言で、私はやっと人生を動かせた」

由香里は一歩近づいた。

「でも、あなたは途中で変わった。金を稼いで、上等な服を着て、優しい聖母の真似を始めた。だから私が余計なものを削ってあげたの。あなたを本物のノエルへ戻すために」

「あなたは、佐藤さんの何だったの」

智恵は尋ねた。

由香里の目が揺れた。

「入社したときから、彼だけが名前を呼んでくれた。他の誰も、私のことなんて見ていなかった。彼だけが『山下さん、よくやってる』って言ってくれた」

「それだけ?」

「それだけで、十分だった。他に何もなかったから」

由香里は乾いた声で笑った。

「あなたになら分かるでしょう。旦那にも、娘にも見てもらえない毎日で、たった一言の優しさが、その日一日を生かしてくれること」

智恵は答えなかった。分かる、と言えば由香里を肯定することになる。分からない、と言えば嘘になる。

智恵は、かつて画面の向こうにいた【狂い咲き】を思い出した。

『あなたの言葉なら、毒でも飲みます』

あの言葉に危険を感じながら、崇められる快感を選んだのは自分だった。

「あなたの人生を壊した責任を、私は軽く考えない」

智恵は言った。

「でも、あなたが私や結衣を脅し、佐藤さんを追い詰めた責任まで、私が代わりに背負うことはできない」

由香里の笑みが消えた。

「謝りなさいよ」

「謝ります。私の言葉であなたの判断を煽ったことを、本当に申し訳なく思っています」

智恵は頭を下げた。

「でも、あなたを神様の信者にはしない。私は神様ではないし、あなたも誰かの言葉に従うだけの人ではない。あなたがしたことは、あなた自身の行為です」


3

由香里は後ろに隠していた手を出した。

小さな果物ナイフが西日を弾いた。

「そんな言葉、聞きたくない」

声は先ほどまでと違い、幼い子どものようだった。

「あなたまで私を捨てたら、私は何のために全部失ったの」

「私に、その答えは作れない」

智恵は距離を保ったまま言った。

「以前の私は、答えを持っているふりをした。だから人を傷つけた。もう、あなたの人生に正解を与えることはしない」

由香里の呼吸が乱れた。

「一緒に死んでよ。そうすれば、ノエル様は永遠になる」

「死なない」

智恵は即座に答えた。

「私は家へ帰る。娘との関係が元に戻らなくても、夫に許されなくても、佐藤さんから責任を問われても、生きて向き合う」

由香里がナイフを持ち上げた。

ナイフの先が、西日を受けて白く光った。

智恵の視界の端で、階段室の扉がわずかに軋んだ。まだ早い。中西たちは、由香里が完全に得物を振り上げるまで動かないと言っていた。智恵はその一秒が、これまでの人生でいちばん長い一秒に感じられた。

足の裏に、屋上の熱がじんわりと伝わってくる。逃げれば、由香里はまた誰かを探すだろう。動かなければ、終わらせられない。

智恵は後ろへ下がりながら、事前に決めた言葉を口にした。

「風が強くなりました」

扉が開き、複数の警察官が屋上へ入った。

「刃物を置いてください」

由香里は智恵へ向かおうとしたが、足元の段差に靴を取られた。警察官が間へ入り、手首を押さえる。ナイフがコンクリートへ落ち、乾いた音を立てた。

「ノエル様!」

拘束されながら、由香里は叫んだ。

「あなたは私と同じでしょう! 誰にも見てもらえない、空っぽの人間でしょう!」

智恵は答えなかった。

否定するための言葉を探せば、また由香里を裁くことになる気がした。

自分の中にも同じ空洞がある。それを認めたうえで、誰かの人生を支配せずに生きるしかない。

由香里が連行されたあと、智恵は屋上の端から十分に離れた場所に座った。膝に力が入らず、立っていられなかった。

中西が隣にしゃがみ、水のボトルを差し出した。

「よくやりました」

その言葉に、智恵は首を振った。

「終わらせられたのかどうか、まだ分かりません」

「今日、それが分かる必要はありません」

中西は静かに言い、無線で何かを伝えながら立ち去った。

警察官に付き添われ、和彦と結衣が姿を見せた。

結衣は駆け寄りかけ、途中で足を止めた。

智恵は両腕を広げず、ただ「帰ってきたよ」と言った。

結衣は数秒迷ってから、智恵の隣へ座った。肩と肩が触れた。

和彦も反対側へ腰を下ろした。

三人は抱き合わなかった。

「痛かった?」

結衣が聞いた。傷を心配しているのではなく、由香里との対話そのものを聞いているのだと、智恵には分かった。

「痛かった。でも、逃げなかった」

結衣は小さく頷いただけだった。

夕焼けが消えていくまで、同じ風の中に座っていた。


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