第11章:届かなかった言葉
1
山下由香里は、脅迫、つきまとい、盗撮、刃物を用いた行為などについて捜査を受けることになった。
警察署で、智恵も改めて事情を聞かれた。
今度の聴取では、ノエルとして書いた文章の一つひとつが机に並べられた。智恵が忘れたふりをしていた言葉も、画面の記録には残っていた。
担当者は、プリントされた投稿の束をめくった。
「『義母が大切にしている庭の鉢植えに、こっそり濃い塩水をかけなさい』――これは、あなたが書いたものですね」
「はい」
「『あなたの死こそが、彼らに一生消えない罪悪感を植え付ける最大の復讐になります』」
声に出して読まれると、文字はまるで他人の手によるもののように、智恵の耳に響いた。けれど、書いたのは間違いなく自分だった。
「はい、私が書きました」
智恵は俯かずに答えた。目を逸らせば、また誰かのせいにしてしまう気がした。
「あなたは脅迫を受けていました。それは重要な事情です」
担当者は言った。
「しかし、それ以前にも危険な助言を繰り返しています。被害を訴える人がいる場合、民事上の責任を含めて別の問題になります」
「今後、ネット上や報道で、あなたの実名が扱われる可能性はありますか」
智恵は尋ねた。
「サイト運営への行政指導や、加害者の刑事裁判の過程で、一部が明らかになる可能性はあります。お約束はできません」
智恵は頷いた。世間体を気にして生きてきた和彦の顔が浮かんだが、もう隠す道を選ぶつもりはなかった。
「構いません。隠れることに疲れました」
智恵は頷いた。
自分が被害者だと認められることと、加害の責任が消えないことは両立する。その二つを同時に抱えることが、智恵の最初の罰だった。
2
結衣は週に一度、スクールカウンセラーと話すようになった。
初回のカウンセリング室は、学校の一角にある小さな部屋だった。丸いテーブルと、色あせた観葉植物。結衣は椅子の端に浅く腰掛け、鞄を抱えたまま動かなかった。
「話したくないことは、話さなくていいですよ」
カウンセラーの女性は、そう言ってから、しばらく天気の話だけをした。結衣は相槌すら打たなかった。
四十五分後、部屋を出た結衣に智恵が「どうだった」と聞くと、「別に」とだけ返ってきた。それでも、次の週も結衣は同じ時間に部屋へ向かった。
最初の三回は、ほとんど何も話せなかったという。四回目に、スマートフォンを見せながら「この人にかわいいと言われた」と伝えた。五回目には、その言葉が嬉しかった自分を責めていることを話した。
家でも回復は一直線ではなかった。
夜中に目を覚まし、窓の鍵を何度も確かめる日があった。男性の香水に似た匂いを電車で感じ、途中駅で降りてしまったこともある。
教室でも、変化は静かに、けれど確実に居場所を狭くしていった。
誰かが由香里の事件のニュースを目にしたのか、ある朝、結衣の机の中に一枚のメモが入っていた。
『パパ活してたんでしょ』
差出人はいなかった。結衣はそのメモを丸めてポケットに入れ、教室の後ろの席で一日を過ごした。その日は、迎えに来た智恵に何も話さなかった。
数日後、仲のよかった友人の一人が、廊下で目を合わせても会釈だけで通り過ぎるようになった。結衣はそのことについて、家では一言も触れなかった。智恵が知ったのは、担任からの電話でだった。
智恵は迎えに行ったが、「大丈夫?」とは聞かなかった。
「帰ろうか」
そう言って、隣を歩いた。
七回目のカウンセリングを終えた帰り道、結衣がぽつりと言った。
「今日、少しだけ話せた」
「うん」
「怖かったって。あの人と会うの、本当はずっと怖かったって、初めて言えた」
智恵は隣を歩く歩調を変えなかった。急かせば、結衣はまた口を閉ざしてしまう気がした。
「言えてよかった」
とだけ返した。結衣は小さく頷き、それ以上は続けなかった。二人の間を、夕方の風が通り過ぎていった。
ある夜、結衣が自分から話した。
「私、お金が欲しかったのも本当だよ」
「うん」
「寂しかっただけってことにしたら、私がかわいそうな子で済むでしょう。でも、化粧品を買えたのも嬉しかった。友達より大人になった気がした」
「うん」
「軽蔑しないの?」
智恵はすぐに答えなかった。
「怖かったし、悲しかった。でも、軽蔑して終わりにはしたくない。私も、お金をもらって自分が特別になったと思っていたから」
結衣は黙ったあと、「似てるね、私たち」と言った。
それは親しさの確認ではなく、苦い事実の共有だった。
3
和彦は会社へ事情の一部を説明し、当面、残業と休日出勤を減らした。
家事を始めたが、最初からうまくできたわけではない。洗濯物を色移りさせ、味噌汁を濃くし、結衣の制服へアイロンを当てすぎた。
失敗するたびに「やっぱり智恵がやった方が早い」と言いかけた。
ある日、智恵はその言葉を聞いて、布巾を置いた。
「私がやった方が早いことと、私だけがやることは同じじゃない」
和彦は反論しかけたが、焦げたシャツを見て息を吐いた。
「分かった。もう一枚、練習する」
ある土曜の朝、和彦は結衣の部屋の前で、拳を軽くドアに当てた。
「学校、送ろうか」
返事はなかったが、五分後、結衣がリュックを背負って玄関に現れた。車の中で、二人はほとんど話さなかった。信号待ちのたび、和彦は結衣の横顔を一度だけ見て、また前を向いた。
学校の少し手前で、結衣が言った。
「ここで降りる」
「分かった」
友達に見られたくないのだろうと、和彦は察した。何も言わず車を停めた。それだけのやり取りだったが、和彦は帰りの車の中で、長い間ハンドルを握ったまま動かなかった。
夫婦の関係も、元通りにはならなかった。
智恵がノエルとして隠していた金や、和彦が長年繰り返した無関心は、一度の謝罪で消えない。二人は月に二度、家族相談を扱うカウンセラーのもとへ通った。
初めてのカウンセリングで、智恵と和彦はソファに並んで座らされたが、互いの方を向かなかった。
「お二人が今、いちばん相手に伝えたいことは何ですか」
女性カウンセラーが尋ねた。
和彦が先に口を開いた。
「なんで一人で抱え込んだのか、それが分からない。相談してくれれば、俺だって――」
「相談したら、あなたは聞いてくれた?」
智恵が遮った。和彦は言葉に詰まった。
カウンセラーは、二人の間に割って入らず、ただ「今、何が起きましたか」と尋ねた。
和彦はしばらく黙ってから、「聞く準備ができていなかった、と思う」と言った。
智恵も、「話す努力を、途中でやめていた」と認めた。
正解が出たわけではない。それでも、二人は次の回の予約を、その場で取った。
「離婚しないこと」を最初から答えにはしなかった。
一緒に暮らし続けるのか。暮らすなら、何を変えるのか。離れるなら、結衣をどう支えるのか。二人は初めて、結婚を惰性ではなく選択として考えた。
4
九月の半ば、弁護士事務所から封書が届いた。
差出人を見た瞬間、智恵は開封できなくなった。食卓の端へ置き、夕方まで何度もその前を通り過ぎた。
封筒の厚みが、智恵には恐ろしかった。薄ければ短い拒絶、厚ければ長い断罪。どちらであっても、受け止めきれる自信がなかった。
何度も指先が封筒の端に触れ、そのたびに引っ込めた。
帰宅した和彦が封筒に気づいた。
「一人で読むか」
「そばにいて。でも、読んでほしくはない」
和彦は向かいの席に座った。
智恵は封を切った。
【絶望の淵】と名乗った佐藤は、生きていた。
あの日、彼はビルの屋上まで行っていた。しかし、サイトの利用者が通報し、駆けつけた警察官と同僚に保護されたという。ノエルの投稿は彼を救ったのではない。むしろ、最後の一歩を踏み出させかねない言葉だったと、手紙には明記されていた。
手紙には、その後の三か月についても記されていた。佐藤は休職して療養し、妻子は一時、実家に身を寄せたという。横領の疑いが完全に晴れるまで、職場の視線にも、近所の噂にも耐える日々が続いたと、便箋には抑えた筆致で綴られていた。
佐藤は治療を受けながら、弁護士を通じて横領の疑いと向き合っていた。調査の結果、由香里が関係資料を操作し、佐藤へ疑いが向くよう仕組んだ可能性が判明した。ただし、名誉の回復も生活の立て直しも、まだ途中だという。
手紙の最後に、佐藤本人の言葉があった。
『あなたの事情を警察から聞きました。脅迫されていたことは理解しました。しかし、私は今も、あなたの文章を思い出すと眠れなくなります』
『あなたを許したとは書けません』
『ただ、私も生きます。あなたも、許されたことにせず、生きて責任を負ってください』
智恵は便箋を置いた。
泣けば自分が楽になる気がして、泣くことさえためらわれた。
「生きていた」
それだけを口にした。
和彦は慰めず、手も握らなかった。ただ、智恵が手紙を畳み終えるまで同じ席にいた。
その夜、智恵は結衣にも手紙の内容を伝えた。
結衣は黙って聞いたあと、「生きてて、よかった」と言った。それだけだった。感想でも慰めでもなく、事実に対する短い反応だった。
智恵にはその短さが、今の自分にちょうど必要な言葉のように思えた。
5
智恵は弁護士を通じて謝罪の意思を伝えた。
返事を求めず、直接会うことも望まなかった。佐藤が必要とする治療や法的手続きについて、相手側の求めに応じて補償を協議することにした。
ノエルとして得た金は、警察と弁護士に確認したうえで、必要な補償のために保全した。残った金をどうするかは、すべての手続きが終わってから決めることにした。
その残った額について、智恵は一人で決めなかった。
「全部、寄付する」
智恵が言うと、結衣が首を振った。
「それ、また『いいことした自分』になろうとしてるだけじゃない?」
図星だった。智恵は言葉に詰まった。
「じゃあ、どうすればいいと思う」
「分からない。でも、今すぐ綺麗さっぱりにしようとしなくていいと思う」
和彦も頷いた。
「急ぐことじゃない。手続きが全部終わってから、三人で考えよう」
三人で、というその一言に、智恵は初めて、罪の後始末が自分一人の作業ではなくなったことを感じた。
勢いで寄付をして「よい行い」に変えてしまうのではなく、まず傷つけた相手への責任を果たす。
智恵にとって、それは称賛されることのない初めての選択だった。




