第12章:名前を呼ぶ家
1
秋が深まる頃、日高家の朝は以前より少し早く始まるようになった。
窓の外では、金木犀の香りがベランダの網戸を通り抜けてくるようになっていた。智恵は、その香りに気づいた自分に、少し驚いた。以前は、季節の変化に気づく余裕さえなかった。
和彦が味噌汁を作り、智恵が弁当を詰める。結衣は自分の水筒へ麦茶を入れる。
「お母さん、卵焼き少なめでいい」
「分かった」
智恵は理由を尋ねず、一切れ減らした。
以前なら、好みに合わせることを愛情だと思い、その愛情が受け取られなければ傷ついていた。今は、頼まれたことだけをする日があってもいいと思える。
和彦も、以前とは違う動き方をするようになっていた。テレビをつける前に、必ず「つけていいか」と聞く。以前は当然のようにリモコンへ手を伸ばしていたことに、智恵は今更ながら気づかされた。
「別に、聞かなくてもいいのに」
「聞きたいんだよ、最近は」
短いやり取りのあと、和彦はいつも通りニュース番組をつけた。変わったのは、行動そのものより、その手前にある一呼吸だった。
結衣の部屋のドアは、開いている日も閉じている日もあった。
家族は「すべてのドアを開けておく」という決まりを作らなかった。閉じたい時間も、守られるべきものだからだ。
ただし、閉まったドアの前を黙って通り過ぎないことにした。
「おはよう」
「行ってくる」
「今日は遅くなる」
短い言葉でも、誰かの名前を添えて伝える。
「結衣、おはよう」
「智恵、先に出る」
名前を呼ぶだけで、そこにいる人間を背景にしないための、小さな習慣だった。
2
結衣は学校へ戻ったが、以前と同じ生活には戻らなかった。
部活は退部した。あの友人との距離は、二学期に入っても縮まらなかった。すれ違うたび、結衣は視線を逸らし、逸らされた側のような顔をして通り過ぎた。噂を耳にして、教室へ入れず保健室で過ごす日もあった。
それでも、週に三日は教室へ行き、残りの日は別室で課題を進めた。
別室では、同じように教室へ入れない生徒が数人、時間をずらして課題をしていた。
ある日、隣の席にいた一年生の女子が、消しゴムを落とした結衣に「ありがとう」と小さく言った。それだけの出来事だったが、結衣はその日の夕食で、珍しく自分から「今日、別室に一年の子がいた」と話した。
名前も知らない相手だった。それでも、教室以外の場所にも、自分を見てくれる誰かがいるかもしれないという感覚は、結衣にとって小さな足場になった。
「全部元通りにしなくていいって、先生が言ってた」
夕食のとき、結衣が言った。
「元通りじゃなくて、これからどうするかを決めるんだって」
「そうね」
智恵は、自分にも向けられた言葉として聞いた。
和彦は週末、地域の子ども向けサッカー教室を手伝い始めた。贖罪のために突然善人になったわけではない。最初の二回は疲れて帰り、家で機嫌が悪くなった。
三回目の前日、結衣が言った。
「無理していいお父さんやらなくてもいいよ」
和彦は苦笑した。
「そう見えるか」
「ちょっと」
「じゃあ、月二回にする」
変わることと、自分を罰し続けることは違う。家族はその区別も学び始めていた。
月二回のペースに落ち着いてから、ある練習日、和彦はコーンを並べながら小学生たちに交じって走らされた。息が上がり、膝に手をついていると、一人の少年が水筒を差し出してきた。
「おじさん、大丈夫?」
「大丈夫だ。ちょっと運動不足でな」
少年は笑い、また輪の中へ駆け戻っていった。
その夜、和彦は結衣に「今日、水筒もらった」と、どうでもいいことのように話した。結衣は「よかったじゃん」とだけ返したが、和彦の口元はしばらく緩んだままだった。
3
智恵は地域の図書館で、週三日の仕事を始めた。
本の返却処理、書架の整理、子ども向け行事の準備。誰かの人生へ答えを与える仕事ではない。求められた本を探し、決められた場所へ戻し、分からないことは司書に尋ねる。
ある日、小学生くらいの少女が「お母さんが好きそうな本、探してほしい」とカウンターに来た。
「どんな本が好きなお母さん?」
智恵が尋ねると、少女は少し考えて、「最近、元気ない本が好きみたい」と答えた。
智恵は少女と一緒に書架を回り、静かな短編集を一冊選んだ。少女が満足げに本を抱えて帰っていく後ろ姿を見送りながら、智恵はふと、ノエルだった頃の自分を思い出した。
あの頃は、会ったこともない誰かの人生に「正解」を与えることに酔っていた。今は、目の前にいる一人の少女のために、一冊の本を一緒に選んだだけだ。それだけのことが、今の智恵には十分だった。
「日高さん、この棚をお願いできますか」
「はい」
日高さん、と呼ばれるたび、智恵は自分の足が床についていることを確かめた。
職場では特別な人間ではなかった。失敗すれば注意され、作業が遅ければ同僚に助けてもらう。
その平凡さは、かつての智恵が最も恐れ、今の智恵がようやく受け入れられるようになったものだった。
4
山下由香里の裁判が始まった。
裁判の前、弁護士を通じて、由香里から智恵宛てに一通の手紙が届いた。
開封するかどうか、智恵は三日迷った。結局、一人では読まず、和彦のいる食卓で封を切った。
便箋には、詫びの言葉はなかった。ただ一文だけ、こう書かれていた。
『あなたが本当にノエルじゃなくなったのか、まだ分かりません』
智恵はその手紙を、返信せずに保管することにした。答える必要のある問いだとは、思わなかった。
由香里は専門医療機関で治療を受けながら、司法手続きに向き合うことになった。智恵は弁護士を通じて必要な供述をし、傍聴には行かなかった。
由香里を憎むだけでは、自分が与えた影響を見失う。
由香里を救おうとすれば、また相手の人生を自分の手に握ろうとする。
智恵にできるのは、事実を話し、自分の責任を引き受け、あとは専門家と由香里自身に委ねることだった。
ある夜、結衣が尋ねた。
「あの人のこと、かわいそうだと思う?」
智恵は考えてから答えた。
「苦しかったんだと思う。でも、苦しかったことと、したことの責任は別だと思ってる」
「お母さんも?」
「うん。私も」
結衣は少し考え、「私もだね」と言った。
「でも、十四歳のあなたと、大人の責任を同じにはしない」
智恵が付け加えると、結衣は不満そうに眉を寄せたあと、小さく笑った。
その笑顔はすぐに消えたが、無理に引き留める必要はなかった。




