第8章:言えなかった夜
1
リビングの時計は午前一時を過ぎていた。
和彦は食卓に座り、腕を組んでいた。智恵は向かいの椅子に腰を下ろしたものの、言葉の順序を決められずにいた。
「結衣は、何をしてたんだ」
「大人の男性と会っていたの」
「会っていたって、どういう意味だ」
智恵は繁華街で見たことを、できるだけ事実だけに絞って話した。結衣が金を受け取ったこと。男とホテルへ向かおうとしていたこと。警察へ相談し、改めて事情を聞いてもらうこと。
和彦の指がテーブルを強く叩いた。
「あいつ、何を考えてるんだ。まだ中学生だぞ。学校に知られたらどうする。俺の会社にまで――」
「最初に心配するのが、会社や学校の評判なの?」
智恵の声は大きくなかった。それでも和彦は口を閉じた。
「結衣は危険な場所にいたのよ。知らない大人に利用されかけていた。まず考えなければならないのは、あの子が何に追い詰められて、そこへ行ったのかでしょう」
「だからって、やっていいことと悪いことがある」
「あるわ。だから警察にも相談した。でも、叱れば終わる話ではないの」
和彦は椅子から立ち、窓際へ歩いた。カーテンを開けるでもなく、背を向けたまま言った。
「お前は知ってたのか」
智恵は返事をできなかった。
その沈黙が答えになった。
「いつからだ」
「数日前」
「どうして俺に言わなかった」
「あなたが結衣を責めると思ったから」
和彦が振り返った。怒りを露わにするより先に、傷ついたような色が顔をよぎった。
「俺は父親だぞ」
「ええ。でも私も、あなたを父親として頼れなくなっていた」
和彦は何かを言おうとしたが、言葉にならなかった。流し台に置かれた空の麦茶の容器、脱ぎっぱなしの上着、智恵が一人で片づけてきた食卓が、黙った証人のように二人の間に並んでいた。
「今日は、もう話せない」
和彦は上着を掴み、玄関へ向かった。
「どこへ行くの」
「少し歩いてくる。このままだと、余計なことを言う」
ドアが閉まったあと、智恵は追わなかった。
以前の和彦なら怒鳴って部屋に閉じこもっただろう。今夜も逃げたことに変わりはない。それでも、結衣に怒りをぶつけないために外へ出たのだと考えると、智恵の中にあった夫の像がわずかに揺らいだ。
2
和彦が戻ったのは、午前三時を過ぎてからだった。
コンビニの袋を持ち、額に汗を浮かべていた。袋から水とゼリー飲料を取り出し、結衣の部屋の前に置く。
ノックをしようとして、手を止める。
「置いておくから。起きたら飲め」
返事はなかった。
和彦はその場にしばらく立っていたが、やがてリビングへ戻った。
「結衣が小学生の頃、サッカーの試合を見に来てくれって言ってたな」
唐突に言った。
「仕事で行けなかった日?」
「行けなかったんじゃない。行かなかったんだ。休日に会社の連中とゴルフへ行った。あいつ、帰ってきた俺に結果を話そうとしてたのに、疲れてるからあとにしてくれって……」
和彦は両手で顔を覆った。
「俺は、金を入れていれば父親をやってることになると思ってた」
智恵は慰めなかった。自分も同じだったからだ。弁当を作り、制服にアイロンをかけていれば、母親としての役割を果たしていると思っていた。結衣の沈黙の中身を知ろうとしなかった。
「私も話さなければならないことがある」
智恵はノエルについて話し始めた。
匿名の相談サイトで、他人の悩みに答えていたこと。感謝される快感に溺れ、投げ銭を受け取ったこと。次第に言葉が過激になり、相手の人生を自分の判断で動かそうとしたこと。
和彦は途中で何度も口を挟みかけた。しかし、最後まで聞いた。
智恵はまだ、【近隣の影】のことと、自殺を促す文章を書いたことを言えなかった。そこまで話せば、わずかに残った家族の形さえ失う気がした。
告白を終えると、窓の外は薄く明るくなっていた。
「すぐに理解できるとは言えない」
和彦は長い間を置いて言った。
「腹も立ってる。怖いとも思う。お前が知らない人間の生活に口を出して金をもらってたなんて、どう受け止めたらいいか分からない」
「うん」
「でも、俺が何も関係ないとも言えない」
それは謝罪ではなかった。和解でもなかった。
ただ、責任を相手一人へ押しつけないために、和彦が初めて選んだ言葉だった。
3
翌朝、結衣は学校を休んだ。
部屋から出てきたのは昼近くだった。顔を洗い、化粧を落としていたが、目元には眠れなかった跡が残っている。
食卓には、和彦が作った不格好な卵焼きが置かれていた。片側は焦げ、もう片側には火が通りきっていない。
「お父さんが作ったの?」
結衣が初めて口を開いた。
「動画を見たんだけど、うまくいかなかった」
和彦は言い訳をせず、皿を差し出した。
結衣は一切れだけ食べた。
「しょっぱい」
「そうか」
「でも、食べられなくはない」
三人の間に、ほんの短い沈黙が落ちた。以前なら誰かがテレビをつけ、なかったことにしただろう。その日は誰も音を足さなかった。
食後、智恵は警察から教えられた地域の子ども・若者相談窓口へ電話した。結衣には、無理に話す必要はないこと、相談員を女性にしてもらえることを伝えた。
「勝手に決めないで」
結衣は硬い声で言った。
「ごめん。予約はまだしていない。会うかどうかは結衣が決めて」
智恵が電話番号を書いた紙をテーブルに置くと、結衣はすぐには手に取らなかった。
夕方、その紙はなくなっていた。
4
それから三日間、家族の会話は進んだり、途切れたりした。
結衣は一度、智恵に向かって「助けに来たからって、今までのことが消えると思わないで」と言った。
智恵は「思っていない」と答えた。
和彦は謝ろうとして、結衣から「今は聞きたくない」と拒まれた。すると彼は不機嫌になりかけ、唇を噛んで廊下へ出た。十分ほどして戻ると、「分かった。待つ」とだけ言った。
三人は傷つけない家族になったのではない。
傷つけたあと、黙って相手を置き去りにしない練習を始めたのだった。
四日目の夕方、結衣が智恵へスマートフォンを差し出した。
「これ、警察の人に見せる」
画面には、男たちとのやり取り、送金記録、待ち合わせ場所が残っていた。
「消そうと思った。でも、また別の子が呼ばれるかもしれないから」
智恵は受け取らず、結衣の手ごとスマートフォンを包んだ。
「一緒に行こう」
結衣は頷かなかった。ただ、手を引くこともしなかった。
その夜、智恵の捨てたはずのメールアドレスに、一通の通知が届いた。
件名は、【家族ごっこは楽しいですか】。
画面を開いた智恵は、文章を最後まで読むことができなかった。
『ノエル先生。娘さんを連れ戻して、旦那様と話をして、これで普通の母親に戻れると思っていますか』
『あなたは、まだ何ひとつ清算していません』
差出人は【近隣の影】だった。




