第7章:鏡の中の別人
1
猛暑のピークを迎えた八月の街は、逃げ場のない熱気に満たされていた。 陽炎の立つアスファルトは靴底を通じて足を焼き、蝉のけたたましい鳴き声は、まるで頭蓋骨の内で鼓膜を直接叩かれているかのように響き渡っている。
日高智恵の日常は、あの日を境に一変していた。
リビングの作業机の上に置かれたノートパソコンの画面は、二度と開かれることはなかった。 『ココロの隙間』の運営は、大炎上した【ノエル】のアカウントを不適切な発言および公序良俗に反する行為として永久凍結した。ネット上のニュースサイトやSNSでは、「人気カウンセラーが自殺を教唆」「裏の顔は悪魔」といったまとめ記事が一時期出回ったが、ネットの熱狂と冷めやすさは表裏一体だ。数日も経てば、別の芸能人のスキャンダルに押され、ノエルという名は急速に過去の遺物へと追いやられていった。
けれど、智恵の内に穿たれた穴は、塞がるどころか日増しに広がっていた。
「智恵、麦茶、もうないぞ」
和彦の声が、休日のリビングに響いた。 冷房の効いた部屋で、ソファに深々と身体を沈め、スマホで野球の経過を追っている。
「……今、作るわ」
智恵の声は、かすれていた。 キッチンに立ち、冷水筒に水と麦茶のパックを入れる。その手つきは、かつての完璧な手際良さを失い、どこかぎこちなく震えていた。
自分が手にかけてしまったかもしれない【絶望の淵】という人物。 本当にビルから飛び降りたのだろうか。ニュースを検索する恐怖に耐えかね、智恵はテレビの事件事故の報道から目を背け続けていた。知るのが怖かった。自分の放った一言が、一人の人間の命を摘み取ったという確定的な証拠を突きつけられることが。
そして何より――娘の結衣のことだ。
結衣は、相変わらず部屋に閉じこもり、スマホを片時も離さなかった。 夕飯の席にはつくものの、智恵と目が合うと露骨に嫌悪感を示し、数口食べると「ごちそうさま」とも言わずに部屋へ戻ってしまう。
あの【近隣の影】からの脅迫画像。 見知らぬ中年男性と夜の街を歩く結衣の姿。あれは幻などではない。今も、結衣はスマホの向こうで「パパ活」のグループと繋がり、放課後や夜間に家を抜け出している可能性があるのだ。
智恵は冷水筒の蓋を締めながら、じっと自分の右手を凝視した。
ノエルとして得た数十万円の現金は、手付かずのまま別の隠し口座に眠っている。 セレクトショップで買ったネイビーのシルク混ブラウスも、グルメゾンで買ったデリも、何の意味もなさなかった。お金と承認欲求という毒をいくら煽ったところで、手元に残ったのは崩壊した家庭と、人を死に追いやったという重すぎる罪悪感だけだった。
「智恵? 遅いぞ」 和彦の苛立った声。
「ごめんなさい。今持って行くわ」
智恵は冷水筒とグラスをトレーに乗せ、リビングへ向かった。
歩くたびに、胸の奥で重く冷たい塊が揺れる。 自分はもう、元の「普通の主婦」には戻れない。透明人間だった頃の方が、どれほど平和で、どれほど救われていたか。けれど、失ってしまった平穏は、いくら涙を流しても二度と戻ってはこなかった。
2
「……ねえ、結衣」
昼下がり、部活へ行くために玄関でスニーカーを履こうとしていた結衣に、智恵は思い切って声をかけた。
結衣は踵を押し込みながら、鬱陶しそうに顔を上げた。 「なに? もう時間ないんだけど」
「最近、暑いから……体調、崩してない? 困っていることとか、何か悩みがあったら、お母さんに……」
「ないってば」 結衣は智恵の言葉を遮り、立ち上がった。
その瞳には、かつての幼さは欠片も残っていなかった。 分厚いアイライン、ほんのり色のついたリップ、そしてどこか冷めた大人のような、他人を拒絶する目つき。
「お母さんさ、急に優しくなったり怒ったり、マジで情緒不安定で不気味なんだけど。私のこと心配するヒマがあるなら、自分の心配したら? 最近、顔色めちゃくちゃ悪いよ」
「結衣……」
「じゃ、行ってくる」
結衣は智恵の手をすり抜け、ドアを開けて外へ出て行った。
去り際、結衣のカバンが揺れた。 そのサイドポケットから、チラリと覗いたもの。
高級ブランドのロゴが入った、小さなコンパクトケース。 中学生のお小遣いでは絶対に買えない、ひとつ七千円はするフランス製の化粧品だった。
智恵の顔から色が失われていく。
やっぱりだ。 結衣は、今もやめていない。大人の男性からお金をもらい、高価な化粧品や服を買い、自分を偽る快感に溺れているのだ。
(私が……私がノエルとしてネットで『偽りの自分』を演じていたように、結衣もまた、外の世界で『別の自分』を演じている……)
血は争えない、という言葉が不吉な意味で脳裏を掠めた。
家庭内で放置され、誰からも存在を認められない寂しさ。それを埋めるために、外の世界で毒のような承認と対価を求める。智恵がノエルになったプロセスと、結衣がパパ活に足を踏み入れたプロセスは、恐ろしいほど酷似していた。
結衣を壊したのは、自分だ。 和彦の無関心と、智恵の自己満足。その二つに挟まれて育った結衣は、家の中に居場所を見出せず、夜の街へ逃げ場を求めたのだ。
智恵は玄関の壁に背中を預け、ズルズルと膝をついた。
助け出さなければならない。 自分の命と引き換えにしても、結衣をあの泥沼から引きずり上げなければならない。
けれど、どうやって? 「パパ活をやめなさい」と正面から問いただせば、結衣は間違いなく「なんで知ってるの?」と反発するだろう。そして、智恵がノエルとして脅迫されていたこと、結衣の写真を握られていることまで発覚すれば、家庭は完全に破裂する。
(和彦に言う……? いいえ、ダメよ。あの人は結衣を責め立てるだけ。救いにはならないわ)
智恵は一人で戦うしかなかった。 誰にも頼れず、自分の犯した罪の報いを引き受けながら、闇の中で娘を捜し出すしかなかった。
3
夕方、智恵は脱衣所の鏡の前に立っていた。
髪はボサボサで、目はくぼみ、頬の肉は落ちてこけていた。 一ヶ月前、セレクトショップで新しい服を買い、ノエルとして全能感に満ちていた頃の面影は微塵もなかった。
鏡の中に映っているのは、哀れで、惨めで、罪に苛まれた四十過ぎの女だった。
「これが……私……」
智恵は乾いた唇を触った。
かつて、ノエルとしての智恵は、ネットの住民たちから「聖母」「知的な女性」と称賛されていた。けれど、その実体は、家族の崩壊すら防げず、娘の悲鳴に気づかず、見知らぬ悪魔に操られて人を死へ追いやった愚者だったのだ。
智恵は洗面台の蛇口を捻り、冷水を手に溜めて顔を洗った。
何度洗っても、肌にこびりついた罪悪感の匂いは消えなかった。 水滴をタオルで拭い、ふと棚を見上げると、先日グルメゾンの帰りに買った高価な化粧水と乳液が並んでいた。
智恵はその瓶を掴み、迷いなくゴミ箱へ投げ捨てた。
偽りの美しさも、ノエルとしてのプライドも、もう何もいらない。
今の智恵に必要なのは、ただひとつ。 母親として、結衣を取り戻すことだけだった。
智恵はクローゼットへ向かい、ノエル時代に買った派手な服をすべて奥へ押しやった。代わりに、昔着ていた地味なグレーのカットソーと、使い古したジーンズを取り出した。
透明な主婦の服。 けれど、今の智恵にとっては、これが唯一の「鎧」だった。
智恵はバッグの中に、スマートフォンと少しの現金だけを入れ、リビングへ向かった。
和彦は相変わらずテレビを見ている。 「和彦さん、ちょっとスーパーに行ってくるわね」
「おう。刺身、安くなってたら買ってきてくれ」 目線も合わせずに答える和彦。
「ええ、分かったわ」
智恵は静かにドアを閉めた。
スーパーへ行くのではない。 結衣が向かったであろう、あの繁華街へ行くのだ。
【近隣の影】から送られてきた写真に写っていた、雑居ビルの周辺。 あそこに結衣がいるかもしれない。見知らぬ大人と会い、身体を売ろうとしているかもしれない。
智恵の脚は、恐怖と決意で固くなっていたが、一歩一歩、確実に階段を駆け下りていった。
4
二駅離れた繁華街は、夕暮れ時を迎えてネオンが点灯し始めていた。
居酒屋のキャッチの威勢の良い声、パチンコ店の耳をつんざく効果音、若者たちの爆笑。湿った熱気の中に、タバコと油の匂いが交ざり合い、濃密な「夜の欲望」が立ち上っている。
普段の智恵なら、絶対に近づかない場所だった。 整然とした住宅街とスーパーの往復しか知らなかった主婦にとって、この街は毒を撒き散らす怪物の胎内のように思えた。
(結衣……どこにいるの……?)
智恵は人混みをかき分けながら、街をさまよった。
雑居ビルの前。カラオケ店の入り口。カフェのテラス席。 派手なメイクをした若い少女たちが、スマホをいじりながら立っている。彼女たちの誰かが結衣ではないか、と智恵は通り過ぎるたびに顔を覗き込んだ。
「ねえ、お姉さん、お茶していかない?」
風俗店のスカウトらしい男に声をかけられ、智恵はビクッと肩を揺らした。 「い、いえ……結構です!」
逃げるように走り去る。
四十過ぎの主婦が、こんな街で娘を探し回っている姿。 冷ややかな視線が周囲から突き刺さる。けれど、今の智恵には恥ずかしさなどなかった。
結衣を救いたい。 その一心だけが、智恵の足を動かしていた。
一時間、二時間。 街を歩き回り、脚は棒のようになり、汗で服が背中にへばりついた。
諦めかけた、その時だった。
大通りの交差点の角にある、ガラス張りのファストフード店。 その奥のボックス席に、見覚えのある制服のスカートが見えた。
智恵は息を呑み、店のガラスに近づいた。
結衣だった。
結衣は一人ではなく、向かい側に四十代半ばと思われる、清潔感はあるがどこか薄笑いを浮かべたスーツ姿の男性が座っていた。
男性はスマホの画面を結衣に見せながら、何かを交渉するように話しかけている。 結衣は、あのかつての写真と同じ――背伸びをした、けれどどこか脅えを含んだ引きつった笑顔で、頷いていた。
男性が財布を取り出し、一万円札の束から数枚を抜き取って、テーブルの下で結衣の手元へ滑り込ませた。
結衣はそれを素早く受け取り、バッグの底へ押し込んだ。
(あぁ……っ!)
智恵の胸が、血を流した。
現場を目撃した。 自分の娘が、目の前でお金を受け取り、大人と交渉している姿を。
男性が立ち上がり、結衣もカバンを担いで席を立った。 二人で店を出て、通りを歩き始める。
その向かう先には――ネオンが妖しく光る、ホテル街のアーチが見えていた。
「待って……! やめて……!」
智恵は声にならない叫びを上げ、二人の後を追った。
5
夜の街の雑踏の中を、智恵はなりふり構わず走った。
前を行くスーツの男と、結衣の小さな背中。 二人は距離を保ちながら、薄暗い路地へと入っていく。ホテル街のピンクや青のネオンが、濡れたアスファルトに反射して不気味に揺れていた。
(追いつかなきゃ……! 止めなきゃ……!)
智恵の呼吸の仕方が分からなくなり、足元の地面だけが不自然に近く見えた。
男が路地の奥にある、落ち着いた佇まいのビジネスホテルの自動ドアへ入ろうとした。結衣が、少し遅れてその後に続こうとする。
「結衣――――っ!!」
智恵は喉がちぎれんばかりの声で、娘の名を叫んだ。
結衣の身体が、ピタリと固まった。
自動ドアの手前で、結衣がゆっくりと振り向く。 その顔は、恐怖と驚愕で真っ白に引きつっていた。
「お……お母さん……!?」
智恵は荒い息を吐きながら、結衣へ駆け寄り、その細い手首を強く掴んだ。
「帰るわよ! 家に帰るの!」
「嫌! なに……!? なんでここにいるの!?」 結衣は見境なく腕を振り回し、手首を振り払おうとした。
ホテルの自動ドアから、先ほどのスーツの男が不審そうに顔を出した。 「ちょっと、君たち……何なの? 警察呼ぶよ?」
智恵は男を凄まじい形相で睨みつけた。 ノエルとして何千人もの人間の闇と向き合ってきた時の、冷たく鋭い視線。
「警察を呼ぶのはこちらです! この子は十四歳の中学生ですよ! 児童買春で今すぐ逮捕されたいんですか!?」
智恵の怒声に、男の顔が青ざめた。 「ち……ちがっ……俺は知らなかったんだ! 彼女が二十歳だって言うから――」
「嘘をつきなさい!!」
智恵の叫びに、男は逃げるように夜の街の闇へと走り去っていった。
路地に、智恵と結衣の荒い息遣いだけが残された。
結衣は手首を智恵に掴まれたまま、床にへたり込んだ。 派手なメイクが涙で滲み、崩れていく。
「なによ……! なによ!!」 結衣は泣き叫んだ。
「なんで追っかけてくんだよ! ほっといてよ! お母さんなんか大嫌い! 私のことなんてどうでもよかったくせに! 家にいたって息が詰まるだけなんだよ! 私のことなんて誰も見てくれないんだよ!」
結衣の叫び。 それは、智恵自身がずっと心の中で叫び続けてきた言葉そのものだった。
『私を見て』 『私を認めて』 『ここにいてもいいと言って』
結衣もまた、家の中で透明人間だったのだ。 和彦の無関心と、智恵の心の不在の中で、結衣は孤独に耐えかね、外の世界に自分の「価値」を買い取ってくれる場所を探していたのだ。
智恵は抱きしめようとして伸ばした腕を、途中で止めた。
結衣は両肩を強く抱き、路地の壁際へ下がっていた。泣いてはいたが、その目には母に縋る色よりも、見つかったことへの恐怖と怒りが濃く残っている。
「触らないで」
掠れた一言に、智恵は両手を下ろした。
「……分かった。触らない。でも、ここには置いて帰れない」
「お母さんに関係ない」
「関係ある。あなたが嫌がっても、私はあなたのお母さんだから」
言い切ったあと、智恵は自分の言葉の頼りなさを思い知った。母親であることを都合よく持ち出しながら、結衣の孤独を見ようとしなかった時間がある。その事実は、どんな言葉でも消せない。
逃げた男を追う代わりに、智恵は通り沿いのコンビニへ結衣を連れていった。人目のある明るい場所まで来ると、店員に事情を伝え、警察へ連絡した。
結衣は窓際の椅子に座り、俯いたまま一言も話さなかった。智恵が買った水にも手をつけない。スマートフォンだけを両手で握り、何度も画面を伏せては、また確かめていた。
やがて交番から二人の警察官が来た。若い女性警察官が結衣と同じ高さまで腰を落とし、落ち着いた声で尋ねた。
「今すぐ全部話さなくても大丈夫です。けがはありませんか。帰る場所はありますか」
結衣はしばらく黙っていたが、最後の問いにだけ小さく頷いた。
事情聴取は最小限にとどめられた。詳しい話は後日、少年担当の職員と女性警察官を交えて聞くことになった。智恵は、結衣のスマートフォンに残る連絡先や送金履歴を消さないよう告げられた。
帰りの電車で、二人は隣り合って座った。
結衣は窓の外を向き、智恵との間に鞄を置いた。二駅の間、一度も視線は重ならなかった。
それでも智恵は、結衣が降りる駅を通り過ぎないよう、車内表示を何度も確かめた。今の自分にできるのは、隣に座り続けることだけだった。
深夜十二時を回った頃、二人はマンションへ戻った。
玄関を開けると、和彦がリビングから出てきた。
「遅いぞ。スーパーへ行くって言って、何時間かかってるんだ。それに結衣、お前――」
そこで言葉が止まった。
智恵の服は汗で背中に張りつき、結衣の化粧は頬のところどころで崩れている。二人の間には、手を伸ばせば触れられるほどの距離しかないのに、埋めようのない溝が残っていた。
「今夜は結衣を休ませて」
智恵はそう言った。
「何があったんだ」
「話す。でも、今はこの子を責めないで。私にも、あなたにも、聞かなければならないことがあるから」
和彦は納得していない顔をした。だが、結衣が靴を脱ぐことにも手間取り、壁に手をついているのを見ると、問いを重ねるのをやめた。
結衣は母にも父にも何も言わず、自分の部屋へ入った。ドアは閉まったが、鍵の回る音はしなかった。
智恵は廊下に立ち、その小さな違いを聞いていた。
許されたわけではない。
救えたわけでもない。
ただ、取り返しのつかない場所へ進む一歩を、今夜だけ止めることができた。
それが母と娘の再生の始まりだと呼べるのか、智恵にはまだ分からなかった。




