第6章:特命の相談
1
ガラスの破片が、冷たいフローリングの上で鋭い光を弾いていた。 ぶち撒けられた赤ワインが、まるで生々しい傷口から溢れ出た血のように、白い木目の床、その目地の奥へ染み込んでいく。
「あ……あぁ……っ」
智恵の口から、喉を焼き切るような擦れ声が漏れた。 膝をついた足元に、破片が小さく刺さる。チクッとした痛みが走ったが、そんなものは脳に届きもしなかった。
画面の中で、娘の結衣が笑っていた。 学校で見せる不機嫌で投げやりな顔ではない。濃すぎるアイラインと、赤すぎるリップ。背伸びをした安っぽいブランドのバッグを肩にかけ、見知らぬ中年男性の腕にすがるようにして、夜の街を歩いている。
『あなたがネットで他人の家庭を『救って』いる間、あなたご自身の娘さんは、パパ活アプリで知り合った男性とホテル街へ向かっていますよ』
【近隣の影】の文字が、脳裏で毒液のように滴り落ちる。
(嘘……嘘よ……結衣が……そんな……)
結衣はまだ十四歳だ。中学二年生だ。 毎日、家でスマホをいじり、話しかけても「うざい」「触らないで」と返してくるだけの、どこにでもいる生意気な反抗期の少女。そう思っていた。
けれど、違っていた。 結衣がスマホの画面の向こうで見続けていたのは、友達とのLINEでも、可愛い動画でもなかった。見知らぬ大人からお金をもらい、身体を売るための「闇の出口」だったのだ。
智恵の全身が、手足から力が抜け始めた。
自分は何をしてきたのだろう。 ネットの向こうの見知らぬ女たちの相談に乗り、「母親をやめなさい」「冷酷になりなさい」と高尚な説法を垂れ、一通数万円のスパチャに酔いしれていた。 グルメゾンで高級なデリを買い、三千円のオリーブオイルをかごに入れ、「私は成功した」「私は完璧な妻であり母だ」と、偽りの優越感に浸っていた。
その足元で。 実の娘が、歪んだ孤独の果てに、夜の街へ売り飛ばされていたのだ。
「う……うぁぁぁぁ……っ!」
智恵は両手で顔を覆い、床に突っ伏した。 手のひらにワインの粘つきが絡みつく。鉄の匂いが鼻を突く。
(私が……私が結衣を無視したから……? 結衣のSOSに気づかなかったから……?)
「お母さんがいなくなったら、あなたはどうするの?」 数日前に、キッチンで結衣に言い放った自分の冷酷な言葉が、刃となって胸を刺し穿つ。
あの時、結衣は見つめ返してきたのだ。驚きと、恐怖の混ざった目で。 母に見捨てられるかもしれないという恐怖。家の中に居場所がないという絶望。それが、彼女をあの夜の街へ押しやったのではないか。
その時、玄関の鍵が回るガチャリという重い音が響いた。
「おい……智恵、帰ったぞ……」
和彦だ。酒臭い息を吐きながら、千鳥足で廊下を歩いてくる。
智恵は跳ね起きるように立ち上がった。 血の引きちぎれるような思いで、急いでパソコンの蓋を叩き伏せる。
「な、なんだ……? 明かりもつけないで……」
リビングのドアが開き、和彦が部屋に入ってきた。壁のスイッチが押され、蛍光灯の眩しい光が室内を照らし出す。
「ひっ……! 智恵、何だこれ!?」
和彦が驚愕の声を上げた。 床一面に広がる赤ワインの海、散乱するガラスの破片、そしてワインで汚れになり、膝から血を流して佇む妻の姿。
和彦の手が一度、智恵の膝へ伸びかけた。だが、心配をどう口にすればいいか分からず、その手は途中で下がった。代わりに出てきたのは、いつもの苛立った言葉だった。
智恵は必死で呼吸を整えようとしたが、喉がヒックヒックと引きつった。
「あ……ごめんなさい、和彦さん……手が滑って、グラスを落としちゃって……」
「グラス……? お前、一人で酒飲んでたのか? なんでこんな夜中に……」 和彦は床のワインボトルとガラスの破片を見つめ、不快そうに眉間にシワを寄せた。
「お前、最近マジでおかしいぞ。高級な服買ったり、一人でワイン飲んだり、挙句の果てに床を酒浸しにして……一体何考えてんだ!」
和彦の怒声がリビングに響く。
以前なら、智恵はこの怒声に対し、冷徹なロジックで反論しただろう。「私の自由でしょ」「あなたには関係ない」と。
けれど今の智恵には、その気力すら残っていなかった。
(この人に言ったらどうなる……? 結衣のあの写真を見せたら……)
和彦は怒り狂うだろう。結衣を殴りつけ、家から追い出すかもしれない。世間体を何よりも気にするこの男は、「自分の娘がパパ活をしていた」という事実に耐えられないはずだ。家庭は一瞬で崩壊し、ニュースになるかもしれない。
そして――【近隣の影】は言っていた。 『次の『プレゼント』は、旦那様の会社のメールアドレスにお送りしましょうか?』
智恵の口は、固く結ばれた。
「……すみません。すぐ掃除します。あなたが寝ている間に、綺麗にしておくから……」
智恵は膝をつき、素手でガラスの破片を拾い集め始めた。 指先にガラスが深く刺さり、鮮血がワインの赤に混ざり合う。けれど、智恵は痛みを感じなかった。
和彦は不気味なものを見る目で智恵を見下ろし、「……チッ、気味が悪い奴だな。早く片付けろよ」と吐き捨てると、主寝室へ消えていった。
パタンとドアが閉まる。
静まり返ったリビングで、智恵は血の滲む手でガラスを集め続けた。
娘を守らなければならない。 自分という愚かな母親が作った、この地獄の底から、結衣を連れ戻さなければならない。
けれど、どうやって? 相手は自分の住所も、家族の秘密も、すべてを握っている悪魔なのだ。
2
翌朝。
智恵は一秒も眠れないまま、朝を迎えた。 床のワインは拭き取ったが、木目の奥に染み込んだ薄黒いシミは、まるで消えない呪いのように残っていた。
「おはよう……」
七時過ぎ、結衣が部屋から降りてきた。 制服を着て、リュックを背負っている。顔は少しむくんでおり、目の下には薄いクマができていた。
智恵は呼吸が止まるのを感じながら、結衣の姿を食い入るように見据えた。
この細い肩。華奢な首元。 昨夜、あの写真の中で、見知らぬ中年男の横で引きつった笑顔を浮かべていた少女。
「……結衣」
智恵の声が震えた。
「なによ」 結衣は智恵の顔を見ようともせず、冷蔵庫から冷水のボトルを取り出した。
「昨日……どこに行っていたの?」
結衣の手が、ピタリと止まった。 ボトルのキャップを閉める金属音が、やけに大きく響く。
結衣はゆっくりと振り向いた。その目には、鋭い警戒心と、微かな揺れが浮かんでいた。
「……何言ってんの? 部活終わって、友達とファミレスで勉強して帰ってきたじゃん。九時には家にいたでしょ」
淀みのない嘘。 昨夜の写真の時刻は、夜の十時半だった。結衣は部屋のドアを閉め、窓から抜け出したのか、それとも「九時に帰った」フリをして再び外出したのだ。
「結衣、お母さん……心配なの。あなたが何か、変なことに巻き込まれていないか……」
智恵は結衣の肩を掴もうと手を伸ばした。
「触らないでよ!!」
結衣は激しく智恵の手を振り払った。
「気持ち悪い! 何なの急に!? 心配なフリしないでよ! お母さんこそ、毎日パソコンばっかり見て、私のことなんてどうでもよかったじゃん! 急に母親ぶらないで!」
結衣の叫び声が、狭いダイニングに突き刺さる。
その言葉は、百本の針となって智恵の心臓を貫いた。
反論できなかった。 結衣の言う通りだった。自分はパソコンの画面の向こうの「承認」に狂い、実の娘の孤独を放置していたのだから。
「もういい! 学校行くから!」
結衣はカバンを強く担ぎ直し、靴も踵を踏んだまま玄関を飛び出していった。 バタン!!と重いドアの音が響き、静寂が戻ってくる。
智恵は一人、玄関のたたきに立ち尽くした。
(どうすればいいの……どうすれば結衣を救えるの……?)
和彦には言えない。警察にも行けない。警察に行けば、自分がネットでやってきた過激な活動や、見知らぬアカウントからの脅迫が公になり、和彦の会社にも知れ渡ってしまう。
智恵の頭は、パニックで破裂しそうだった。
その時、リビングの作業机の上で、ノートパソコンが微かな受信音を立てた。
智恵は吸い寄せられるように、机へと歩み寄った。
液晶を開く。 『ココロの隙間』の画面。
ダイレクトメッセージの欄に、新しい通知が届いていた。
差出人は――【近隣の影】。
智恵の指が、恐怖で凍りつく。 けれど、読まないという選択肢はなかった。相手が結衣の命運を握っているのだ。
智恵は震える手でメッセージをクリックした。
3
【差出人:近隣の影】 ノエル先生。 昨夜は明け方までリビングの灯りがついていましたね。眠れましたか?
娘さんのこと、とてもショックだったでしょう。 あなたがネットで『理想の聖母』を演じている裏で、実の娘さんは一回数万円で大人の男性に買われている。これが、あなたが作り上げた家庭の現実です。
彼女が通っているパパ活グループの元締めは、かなり質の悪い半グレ組織ですよ。このまま放っておけば、彼女はすぐに取り返しのつかない泥沼(動画の撮影や薬物)へ引きずり込まれるでしょう。
娘さんを救いたいですか?
救いたいのであれば、私からあなたへ『特命の相談』を出します。 この指示を最後まで遂行しなさい。 さもなくば、結衣さんの写真と動画を、彼女の中学校の全校生徒のSNS、そして旦那様の会社のアドレスへ一斉送信します。
「特命の相談……?」
智恵は文字を追いながら、息を呑んだ。
画面をスクロールする。
【特命の内容】 本日正午、サイト内に【絶望の淵】という新しいアカウントから投稿がなされます。 投稿者は、深刻な人生の選択に悩んでいる人物です。
あなたは『ノエル』として、その投稿に対し、私の指示通りの『回答』を書き込みなさい。 指示する言葉を一字一句違わずに書き込み、その人物を我々が望む『結末』へ誘導すること。
指示内容は、本日11時50分に改めて連絡します。
ノエル先生。 あなたの得意な『言葉で人を操る仕事』です。 娘の未来と、他人の人生。どちらが大切か、よく考えて選択してくださいね。
文章の意味を理解した途端、智恵は周囲の音を捉えられなくなった。
特命の相談。 見知らぬ誰かの投稿に対し、【近隣の影】が指示する言葉をそのまま書き込み、その人物を「ある結末」へ誘導しろという命令。
(私に……他人の人生を破滅させろというの……?)
【近隣の影】の目的が、徐々に露わになっていた。 このアカウントは、単に智恵を脅かして面白がっているのではない。 「ノエル」という、サイト内で神格化されたカリスマの影響力を利用して、特定の誰かを社会的に、あるいは精神的に抹殺しようとしているのだ。
智恵はその手先として使われようとしている。
もし、拒否したら? 結衣の写真が学校と和彦の会社に撒き散らされ、結衣の人生は完全に終わる。
「そんな……そんなの選べるわけないじゃない……!」
智恵はキーボードの上に突っ伏し、咽び泣いた。
他人の人生を壊す悪魔になるか。 我が子の人生が壊れるのを黙って見るか。
二つの地獄。逃げ場のない選択肢。
時計の針が、カチ、カチと無慈悲に音を立てて進んでいく。 午前十時。 十一時。
約束の十二時が、刻一刻と近づいていた。
4
午前十一時五十分。
リビングの空気は、氷のように冷たく張り詰めていた。 智恵はパソコンの前に座り、微動だにしなかった。目は血走り、唇は噛みちぎられて赤く腫れ上がっている。
ポーン。
受信音が鳴った。
【近隣の影】からの指示メールだ。
【指示書】 12時に【絶望の淵】というアカウントが以下の投稿をします。 『会社で巨額の横領の濡れ衣を着せられました。家族にも信じてもらえません。もう死ぬしかありません』
あなたはノエルとして、以下の返信をしなさい。
『絶望の淵さん。あなたの無念、よく分かります。この汚い世界で、あなたが真実を証明する唯一の方法は「命をもって抗議すること」です。あなたが生きている限り、悪とうやむやな噂は消えません。あなたの死こそが、彼らに一生消えない罪悪感を植え付ける最大の復讐になります。怖がることはありません。あなたは聖なる犠牲者なのです』
この文章を、そのまま投稿しなさい。
智恵は画面の文章を読み、激しい吐き気に襲われた。
自殺教唆。 明確な、自殺の誘導だ。
横領の濡れ衣を着せられ、絶望している人間に、「死ぬことが最大の復讐だ」と吹き込み、自死へ背中を押せというのだ。
もしこれを発言力の強い「ノエル」が書き込めば、極限状態にある投稿者は、本当に死を選んでしまうかもしれない。
(ダメ……! こんなの殺人じゃない……! できない、絶対にできない!)
智恵の手が震え、キーボードから離れた。
その瞬間、スマホが震えた。
画面を見ると、LINEの通知が表示されている。 差出人は、知らない番号。
開くと、そこには短い動画が添付されていた。
動画を再生する。
画面に映ったのは、今日の午前中――結衣が通っている中学校の校門前の映像だった。 カメラは、体育の授業で校庭を走っている結衣の姿を、遠くからズームで捉えていた。
そして、メッセージ。
『指示に従わなければ、この動画と昨夜の写真が、今から五分後に学校のPTA全グループへ送信されます』
「嫌ぁぁぁぁぁっ!!」
智恵は部屋の中で叫んだ。
見られている。今この瞬間も、結衣が、自分が、監視されている。
十一時五十九分。
サイトのタイムラインが更新された。
【絶望の淵】というアカウントからの投稿が上がった。
タイトル:もう限界です。濡れ衣を着せられ、誰も信じてくれません。
会社で数千万円の横領の犯人にされました。罠です。でも証拠がありません。 妻も子供も私を白い目で見ます。もう疲れました。ビルから飛び降りようと思っています。
コメント欄には、慌てたユーザーたちの書き込みが殺到し始めた。 『やめてください!』『警察に相談して!』『早まらないで!』
だが、投稿者は答えない。
智恵の画面に、カウントダウンのようなタイマーが表示されているわけではない。 けれど、5分という猶予が刻一刻と消えていくのが分かった。
結衣の顔が頭をよぎる。 生まれた時の、小さな泣き声。初めて「おかあさん」と呼んでくれた時の笑顔。反抗的になっても、自分にとっては世界でたった一人の宝物。
(ごめんなさい……ごめんなさい、見知らぬ誰かさん……!)
智恵は涙で視界を歪ませながら、指示された文章をコピーし、返信欄へ貼り付けた。
『絶望の淵さん。あなたの無念、よく分かります。この汚い世界で、あなたが真実を証明する唯一の方法は「命をもって抗議すること」です……』
指が、震える。
(押せば……私は人殺しになる……)
(押さなければ……結衣が壊れる……)
智恵は歯が砕けるほど強く噛み締め、目を固く閉じた。
そして――『投稿する』のボタンを、力任せにクリックした。
5
画面が切り替わった。
ノエル名義で投稿された、恐ろしい自殺教唆のメッセージ。
サイト内は、一瞬でパニックに陥った。
『え……!? ノエル様……?』 『嘘でしょ……死ねって言ってるの……?』 『ノエルさん、正気ですか!?』 『人殺し! 運営に通報しました!』
悲鳴と怒号のコメントが、秒単位で何百件と殺到し始めた。
今まで智恵を「神」と崇めていたユーザーたちが、一転して猛烈な敵意を向け、誹謗中傷の嵐がノエルのアカウントへ叩きつけられる。
『偽物だろ!』 『悪魔!』 『お前が死ね!』
智恵は画面を見つめたまま、両腕で自分を抱え、呼吸を整えようとしていた。
自分の中の何かが、パチンと音を立てて壊れた。
神から、一瞬で悪魔へ。 自分が築き上げてきた「ノエル」という高貴な城郭が、自分の手で放った毒によって、炎を上げて崩れ去っていく。
ポーン。
【近隣の影】から、メッセージが届いた。
【差出人:近隣の影】 よくできました、ノエル先生。 約束通り、今日の画像送信は見送りましょう。
素晴らしい演技でしたよ。あなたの言葉で、あの【絶望の淵】――私の元上司ですが、きっと今頃ビルから飛び降りているでしょう。 私の手を汚さずに、あなたの手を借りて復讐が完了しました。
感謝しますよ、人殺しのノエル先生。
「あ……あぁあぁぁぁぁ……っ!!」
智恵は頭を抱えて、床に倒れ込んだ。
利用されたのだ。 【近隣の影】は、ノエルの発言力を使い、自分が憎む相手を自殺へ追い込むために、智恵と結衣を罠にハメたのだ。
自分は、間接的に人を殺した。 結衣を守るために、見知らぬ人間の背中を、死の谷底へ突き落としたのだ。
画面の上では、怒号のコメントが流星群のように流れ続けている。 『ノエルを許すな!』『警察に通報した!』『身元を特定しろ!』
もう、ノエルというアカウントは終わりだった。 サイトも炎上し、運営によって凍結されるのは時間の問題だろう。
智恵は血の気の失せた顔で、天井を見上げた。
ノエルという光は消えた。 残されたのは、人を殺した罪悪感と、パパ活に手を染める娘と、何も知らない夫。 そして、自分のすぐ側に潜む、顔も知らない悪魔の存在。
「うふふ……うふ、ふふふ……」
智恵の口から、壊れたおもちゃのような笑い声が漏れた。
涙も出なかった。 四十二歳の日高智恵。透明な主婦だった彼女が手に入れた「承認」という毒は、すべてを焼き尽くし、彼女自身を本当の悪魔へと変え果てていた。
外では、夏の強い日差しが部屋を照らし出していたが、智恵の心は、二度と明けることのない漆黒の闇の中へと沈んでいっていた。




