第5章:完璧な仮面
1
雷鳴が夜空を刺し穿ち、マンションの重たいコンクリート躯体を微かに揺らしていた。 サッシの隙間から吹き込む冷ややかな湿気が、リビングのフローリングにうっすらと水膜のような湿り気を作っている。
日高智恵は、画面が暗転したノートパソコンの前で、彫像のように固まっていた。
『明日の朝、あなたの家のポストを見てください。私からの『プレゼント』が入っています』
【近隣の影】からのメッセージ。 暗い液晶画面に反射する自分の顔は、血の気が完全に引き、まるで死人のように青白かった。
恐怖が、喉の奥を固い肉の塊となって塞いでいる。
(ポスト……1階の、あのポスト……)
マンションの集合ポストは、エントランスのオートロックドアの手前にある。住人でなくても、外部の人間が誰でも自由に立ち入り、ダイヤル錠の隙間からチラシや郵便物を放り込める場所だ。
そこへ、「何か」が投函される。
智恵はガタガタと震える膝を押さえながら、ゆっくりと立ち上がった。 リビングの壁掛け時計は、深夜二時四十五分を指している。外は激しい豪雨だ。雷光がひっきりなしに部屋を白く染め上げ、そのたびに家具の影が怪物のように壁を跳ね回る。
(今……今行けば、投函される前に回収できるかもしれない。あるいは、もう入っているのかしら……?)
一度そう考えると、もうじっとしては居られなかった。
智恵は足音を殺して廊下へ出た。主寝室からは和彦の規則正しいイビキが聞こえ、結衣の部屋のドアは固く閉ざされている。
スリッパを脱ぎ、素足で冷たい玄関のたたきに降りる。 ドアの鍵を慎重に開け、チェーンを外す。カチャリという小さな金属音が、夜の静寂の中にやけに大きく響いた。
外廊下に出ると、生温かい暴風雨が智恵の頬を叩いた。 五階の廊下から見下ろす駐車場は、激しい雨足によって白く霞んでいる。街灯の光が水たまりに反射し、まるで底なしの沼のように不気味に揺らめいていた。
智恵はエレベーターを待つ時間すら惜しく、非常階段の鉄製の手すりを掴んで一階へと駆け下りた。裸足に近い薄い靴下の底に、コンクリートのザラついた冷たさが刺さる。
一階のエントランス。 薄暗いダウンライトが照らす集合ポストの前に、智恵はたどり着いた。
息が荒い。胸が破裂しそうだ。
智恵は自分の部屋番号――『504』と書かれたステンレスの小さな投函口の前に立った。
ダイノックシートが剥がれかけた、見慣れたポスト。 ダイヤル錠は、智恵がいつも合わせている『右に3、左に8』の状態で固まっていた。
智恵は震える指先をダイヤルにかけた。 カチ、カチ、と音を立てて番号を合わせる。指汗でつまみが滑る。
パチン、とツマミが手応えを返し、小さな扉が開いた。
智恵は固唾を呑み、暗い投函口の中に手を突っ込んだ。
奥まで指を伸ばす。 指先に触れたのは、日中に配られた水道修理のチラシのツルツルした紙の感触と――
それとは明らかに異なる、冷たく、湿った何かだった。
「ひっ……!」
智恵は反射的に手を引き抜こうとしたが、思い直してそれを掴み、外へ引きずり出した。
ポストの口から出てきたのは、透明なジップロックの袋だった。
その中に入っていたのは――
赤黒く変色した、数本のバラの花弁と、一枚の手書きのカード。
カードには、太い黒の油性ペンで、歪んだ文字が躍っていた。
『ノエル先生。あなたの嘘に、心を痛めています。偽りの自分を捨てるまで、私はあなたを見つめ続けます』
雨音が、脳内で爆発したかのように激しくなった。
智恵はジップロックを握りしめたまま、その場に崩れ落ちた。
生花。バラの花弁。 それがジップロックの中で、自らの水分で不気味に蒸れ、腐敗しかかった特有の甘酸っぱい匂いを放ち始めていた。
(本当に……本当に来たんだ……。ネットの向こうの人間が、私の家のポストに……!)
現実とネットの境界線が、完全に崩壊した瞬間だった。
このマンションの目と鼻の先に、自分を「ノエル先生」と呼び、自分の嘘を監視し、深夜にポストへ不気味な贈り物を投げ入れる人間が潜んでいる。
智恵は口を手で覆い、嗚咽を押し殺しながら、這うようにして非常階段を駆け登った。
2
翌朝。
雨は上がり、空は嘘のように青く澄み渡っていた。 蝉の声がシャワシャワと降り注ぎ、強い太陽光が濡れたアスファルトから白い蒸気を立ち上らせている。
「智恵、新聞取ってきてくれ」
食卓でトーストを齧りながら、和彦が言った。
智恵は一瞬、全身の筋肉を硬直させた。 昨夜、回収したジップロック袋は、自分のクローゼットの奥深く、使っていない古いバッグの底に隠してある。ポストの中は空にしたはずだ。けれど、もし今、新聞を取りに行って新たな「贈り物」が入っていたら――。
「……智恵?」 和彦が不審そうに目を細めた。
「あ、ええ。今行くわ」
智恵は引きつった笑顔を浮かべ、玄関へ向かった。
ドアを開け、一階のポストへ向かう足取りは、まるで処刑台へ向かう罪人のようだった。 ポストを開ける。中には朝刊が一部、無造作に突っ込まれているだけだった。
智恵は大きく胸を撫で下ろした。
(大丈夫……大丈夫よ。あれは一度きりの警告だったのよ……)
自分にそう言い聞かせながら新聞を手に取り、部屋へ戻る。
食卓に新聞を置くと、和彦はそれを開いて政治面へ目を落とした。 結衣は相変わらずスマホの画面を睨みつけ、コーンフレークをボリボリと音を立てて食べている。
智恵は自分の分のお茶を淹れながら、二人を盗み見た。
不思議な感覚だった。
昨夜、あれほどの死ぬような恐怖を味わったというのに。 いま、目の前にいる二人の「無頓着さ」を見ていると、胸の奥から急速に恐怖が引いていき、代わりに完璧な冷徹さが満ちてくるのを感じていた。
昨夜の恐怖は、自分が「弱い主婦」に戻りかけたから感じたのだ。 もし自分が、完璧に「ノエル」という仮面を被り直し、スキを見せなければ、何も恐れることはないのではないか?
和彦も結衣も、智恵が昨夜深夜に一階へ駆け下りたことすら知らない。 彼らは何も見ていないのだ。自分たちの足元で何が起きているのかも、智恵がどれほど巨大な秘密と恐怖を抱えているかも。
(この人たちは、一生何も気づかない。私がどれほど恐ろしい世界とつながっているかも知らずに、能天気に朝食を食べている……)
その優越感が、恐怖を麻痺させていく。
「智恵、今日の夜、課長と飲み会になったから飯いらないぞ」 和彦が新聞から目を離さずに言った。
「そう。分かったわ。何時頃になりそう?」 智恵の声は、恐ろしいほど穏やかで、優しかった。
「十二時は回ると思う。先寝てていいから」 「ええ、気をつけてね。お酒、飲みすぎないで」
非の打ち所のない妻の返答。 和彦は「ああ」とだけ言い、それ以上智恵の顔を見ようともしなかった。
結衣も立ち上がり、「行ってきます」とも言わずにカバンを担いで出て行った。
二人を送り出した後、智恵は静かなリビングに一人残された。
智恵は洗面所の鏡の前に立った。 鏡に映る自分は、昨日買い足した薄ピンクの口紅を引き、髪を綺麗にまとめ、隙のない「優しいお母さん」の微笑みを浮かべていた。
仮面は、隙がなかった。
家庭内でのイライラは、完全に消えていた。 和彦の無神経な言葉も、結衣の反抗的な態度も、いまの智恵にとっては「舞台の上の大道具」のようなものだった。本気で腹を立てる価値すら感じない。
なぜなら、自分の本領はここ(現実)にはないのだから。
智恵はリビングの作業机へ向かい、迷いなくパソコンの蓋を開けた。
3
『ココロの隙間』を開く。
【近隣の影】からの新しいメッセージは届いていなかった。
智恵は深呼吸をし、自らの胸に言い聞かせた。
(私は負けない。あなたなんかの脅迫に屈して、ノエルを捨てるわけにはいかないのよ)
ノエルというアカウントは、いまや月数十万円を生み出す「資産」であり、何千人もの信者を持つ「宗教」だった。バラの花弁一枚で、それを手放すわけにはいかなかった。
智恵はタイムラインを開き、精力的に活動を再開した。
ただし、昨夜の【近隣の影】からの指摘――『お金と承認欲求に毒されて、どんどん嘘つきになっていく』という言葉を、智恵は自らの戦略に組み込むことにした。
(そうね……ただの過激な復讐者じゃダメだわ。もっと『慈愛に満ちた聖母』を演じるのよ)
智恵の回答スタイルは、一変して「隙のない慈愛」を帯びるようになった。
「夫が浮気をしているかもしれない」という悩みに対し、以前なら『証拠を集めて叩きのめしなさい』と書いていたところを、智恵はこう書いた。
【ノエル】 辛いですね。でも、旦那様を責める前に、まずご自身の心を抱きしめてあげてください。 旦那様の浮気は、彼の心の脆さの表れです。あなたが悪かったわけではありません。 まずは、あなたが笑顔を取り戻すこと。あなたが輝けば、彼は自分の愚かさに気づき、自然とあなたの元へ戻ってきます。憎しみからは、何も生まれませんよ。
この「聖母的アプローチ」は、サイト内で爆発的な大絶賛を浴びた。
『ノエル様が仏様のようだ……』 『涙が止まりません。憎むことばかり考えていた自分が恥ずかしいです』 『ノエル先生のおかげで、心が洗われました』
「共感した」のカウント数は最高記録を更新し、ギフト(スパチャ)の額も跳ね上がった。
一日で五万円以上のポイントが積み上がる。
智恵はパソコンの前で、恍惚とした笑みを浮かべた。
(見たかしら、【近隣の影】? 私はあなたの言うような『嘘つきの悪魔』じゃないわ。私は人々を救う『光』なのよ)
ネット上での絶賛と、積み上がるお金。 それが、ジップロックの中の腐ったバラの恐怖を完全に塗り潰していった。
智恵は自分が、何者にも脅かされない「神」になったような錯覚に陥っていた。
家庭では完璧で穏やかな妻・母を演じ、ネットでは数千人を導く聖母として君臨する。 この二重生活は、もはや恐怖ではなく、極上のゲームへと昇華していたのだ。
4
午後三時。
智恵は、近所の高級スーパー『グルメゾン』にいた。
普段なら絶対に入らない、輸入食材や高価なデリが並ぶ店だ。 だが今の智恵には、ノエルとして得た豊富な資金があった。
買い物かごに、一本三千円のオーガニックオリーブオイル、ひと塊二千円の国産黒毛和牛のローストビーフ、輸入チーズの詰め合わせを迷いなく放り込んでいく。
「あら、日高さん?」
背後から声をかけられ、智恵は振り向いた。
同じマンションの三階に住む、ママ友の川口さんだった。彼女の息子は結衣と同じ中学に通っており、時々エントランスで立ち話をする間柄だ。
川口さんは、智恵のかごの中身をチラリと見て、目を見開いた。
「すごいわね、グルメゾンでお買い物? 何かお祝い事でもあったの?」
以前の智恵なら「あ、いえ、これ安くなってたから……」と赤面して言い訳をしていただろう。けれど、今の智恵は違った。
智恵は上品な笑みを浮かべ、ゆったりとした口調で答えた。
「ええ、夫が最近仕事で大きな契約を取ったみたいで。今夜は少し奮発して、お祝いをしようと思って」
淀みのない嘘。滑らかで、寸分の狂いもない。
川口さんは羨ましそうな顔をして溜息をついた。 「いいわねぇ、日高さんのご主人、大手商社だもんね。うちなんて旦那の給料が下がっちゃって、特売の鶏肉ばっかりよ。日高さんは昔から落ち着いてて素敵だと思ってたけど、最近なんだか雰囲気が変わったわね。すごくキレイになったというか……」
「そんなことないわよ。川口さんも、お洋服素敵じゃない」
智恵はさらりと相手を褒め返し、会話の主導権を握った。
相手の嫉妬と羨望の入り混じった視線。 それが、たまらなく心地よかった。
かつて、マンションのママ友たちの間でも、智恵は「おとなしくて存在感のない日高さん」だった。お茶会に呼ばれても端っこで頷くだけの、透明な存在。
それが今や、誰もが羨む「裕福で余裕のある美しい奥様」として見られている。
(みんな、騙されている……)
智恵の心の中で、黒い悦びが渦巻いた。
和彦の本当の給料も、自分の服の本当の値段も、この買い物の資金がどこから出ているかも、誰も知らない。自分のつく「嘘」によって、周囲の人間がコロコロと評価を変え、自分を崇めてくる。
現実の世界すら、自分の「演劇の舞台」に過ぎないのだ。
「じゃあ、またね」
智恵は上品に手を振り、グルメゾンを後にした。
重たい買い物袋を持ちながら歩く道。 太陽の光が眩しかった。自分の足元に伸びる影すら、どこか誇らしく思えた。
仮面を被ることは、恐ろしいことではない。 完璧な仮面さえ被っていれば、世界は自分の思い通りに回るのだから。
5
夜十一時半。
和彦は飲み会でまだ帰っておらず、結衣は自分の部屋で眠りについていた。
家中が静まり返ったリビングで、智恵は一人、グルメゾンで買ったローストビーフを美しいガラス皿に盛り付け、一脚一万円のグラスに赤ワインを注いでいた。
一人だけの、極上の宴。
ノエルとしての収入が振り込まれた通帳をテーブルの上に置き、ワイングラスを傾ける。
赤ワインの重厚なぶどうの香りが、口いっぱいに広がった。
「美味しい……」
智恵は呟いた。
和彦が汗水流して稼いできたお金で食べるご飯よりも、見知らぬ人々の痛みを拾い集めて稼いだこのお金で飲むワインの方が、百倍も蜜の味がした。
パソコンを開く。
『ココロの隙間』のマイページ。 今日も何十通もの感謝のメッセージが届いている。
智恵はワインを飲みながら、優雅な手つきで返信を打っていった。
自分は無敵だ。 家庭も、現実も、ネットの世界も、すべて自分のコントロール下にある。恐怖など、もうどこにもない。
その時。
画面の右下で、ダイレクトメッセージの通知アイコンが赤く点滅した。
差出人は――【近隣の影】。
智恵のグラスを持つ手が、一瞬だけ止まった。 けれど、もう昨夜のような狼狽はなかった。智恵は冷ややかな笑みを浮かべ、メッセージをクリックした。
(また不気味なメッセージ? 好きにしなさい。私はもう、あなたの脅かしなんかに乗らないわ)
画面が開く。
そこに書かれていた内容を目にした瞬間――智恵が手に持っていたワイングラスが、手元から滑り落ちた。
ガシャン!!
静かなリビングに、鋭い破壊音が響き渡った。
赤ワインが、紫色の血のように白いフローリングへぶち撒かれ、ガラスの破片が跳ね飛んだ。
メッセージには、写真が添付されていた。
それは――
智恵の娘・結衣が、夜の街を私服で歩いている写真だった。
それも、今日の日付。時刻は夜の十時半。 場所は、自宅から二駅離れた、繁華街の雑居ビルの前。
写真の中の結衣は、学校での地味な姿とはまるで違う、派手なメイクをし、短すぎるスカートを履き、見知らぬ中年男性の隣を並んで歩いていた。
そして、写真の下に添えられた、一文。
【差出人:近隣の影】 ノエル先生。 完璧な仮面を被った聖母のフリをするのは楽しいですか?
あなたがネットで他人の家庭を『救って』いる間、あなたご自身の娘さんは、パパ活アプリで知り合った男性とホテル街へ向かっていますよ。
あなたの足元は、もう完全に腐り果てている。 次の『プレゼント』は、旦那様の会社のメールアドレスにお送りしましょうか?
「あ……あぁ……っ……!!」
智恵の口から、息の詰まった声が漏れた。
床に広がった赤ワインの海。 そこに、自分の青ざめた仮面が映り込んでいた。
完璧だと思っていた自分の城。 完璧だと思っていた自分の仮面。
その足元で、娘が、自分の命よりも大切なはずの我が子が、底なしの悪夢の泥沼へ足を踏み入れていたのだ。
智恵はガラスの破片が刺さるのも構わず、床に膝をつき、赤ワインの海の中で頭を抱えて声が枯れても叫び続けた。
豪雨の去った静かな夜の闇の中で、彼女が築いた偽りの城は、跡形もなく崩れていった。




