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『名前のない毒を食む』  作者: 久遠 睦


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第4章:家計簿とスパチャ

1

朝の光が、重たいカーテンの隙間から細い筋となってリビングに差し込んでいた。 空気は昨日からの湿気を孕んだまま、エアコンの切れた室内で淀んでいる。

日高智恵は、畳んだ布団の上に座り込み、膝の上に置いた両手を眺めていた。指を動かそうとしても、関節の一つひとつが自分のものではないように重かった。

昨夜の光景が、網膜の裏側に灼きついて離れない。

『いつも近くで応援しています、日高様』

画面に表示された一文。 フレッシュマートの火曜市、半額の薄切り肉、チキンカツの匂い、そして――「日高」という自分の苗字。

偶然などという言葉で片付けられるわけがなかった。 誰かが、自分の足音を追っている。自分がスーパーの精肉コーナーでパックを手に取る瞬間を、ベランダで洗濯物を干す姿を、そしてこの部屋で静かにキーボードを叩く横顔を、どこかで見つめているのだ。

「……智恵? 朝飯まだか?」

主寝室のドアが開き、和彦が起きてきた。 寝癖のついた髪に、使い古しのTシャツ姿。寝ぼけた目をこすりながら、智恵の横を通り過ぎて洗面所へ向かう。

その何気ない足音にすら、智恵の身体は過剰に跳ね上がった。

(和彦……? いいえ、違う。この人が私の正体を知っていたら、こんなに平然としているはずがない。もっと声を荒らげて詰問してくるはずだわ)

では、結衣だろうか。 最近、母親に対して冷ややかな視線を向けるようになった中学生の娘。スマホを肌身離さず持ち歩き、ネットの知識に長けた彼女なら、母親の閲覧履歴を探り当て、自分の苗字を使って脅すような真似ができるかもしれない。

智恵は洗面所のほうから聞こえる和彦の電動歯ブラシの音を聞きながら、ゆっくりと立ち上がった。

足の裏が冷たい。 キッチンのシンクに立ち、コンロに火をつける。フライパンに油を引き、卵を割り入れる。

チチチと油が跳ねる音。いつもと何ひとつ変わらない朝の風景。

けれど、視界に入るすべてのものが、智恵にとっては毒を孕んだトラップのように思えた。ベランダのサッシ越しに見える向かいのマンションの窓。電柱の上でカラスが毛づくろいをしている風景。道路を通り過ぎる宅配業者のトラック。

そのすべての「視線」が、自分に向けられているのではないか。

「お母さん、制服のり付けしてくれた?」

廊下から結衣が降りてきた。 制服のスカートの裾を気にしながら、不機嫌そうにリビングに入ってくる。

智恵はフライ返しを持ちながら、結衣の顔を食い入るように見据えた。

「……結衣」 「なによ」 「あなた、昨日……お母さんのパソコン、触った?」

結衣は心底鬱陶しそうな顔をして、眉間にシワを寄せた。 「は? 触るわけないじゃん。何入ってんのかも知らないし。キモいんだけど、朝から疑わないでよ」

その反応には、何の偽りもなさそうだった。ただの十代の少女が持つ、親に対する純粋な鬱陶しさ。

(結衣でもない……。じゃあ、誰……? 誰が私を見ているの……?)

智恵の手元で、卵焼きの端が焦げ付き、黒い煙を上げた。

「あ、焦げてるじゃん」 結衣の冷めた声が、遠くから聞こえるようだった。

智恵は慌てて火を消し、フライパンを火から降ろした。 焦げた醤油と卵の匂いが、鼻腔をつく。

自分が築き上げてきた完璧な日常が、そしてネットの中に築いた「ノエル」という高貴な城閣が、足元から崩れ落ちていく感覚に、智恵はめまいを覚えた。


2

和彦と結衣を送り出し、一人きりになったリビング。 普段なら、ここからが智恵の「ノエル」としての時間だった。

けれど、智恵は作業机に近づくことすらできなかった。 黒いノートパソコンは、まるで毒蛇のように机の上に居座り、液晶の蓋を閉じたまま静かに不気味な存在感を放っている。

開けば、またあの【近隣の影】からのメッセージが届いているかもしれない。 自分の住所や、家族のスケジュールや、さらに恐ろしいプライベートな事実が突きつけられるかもしれない。

(アカウントを消そう)

智恵は胸の前に手を置き、強くそう思った。 これ以上は無理だ。二重生活の限界を超えている。承認欲求の快感と引き換えにするには、この恐怖はあまりにも大きすぎる。

智恵は意を決して机に近づき、震える手でパソコンの蓋を開けた。

電源ボタンを押す。ファンの音が静かに回り始め、画面が立ち上がる。

ブラウザを起動し、『ココロの隙間』のマイページを開く。 退会手続きのページへ進むために、設定アイコンをクリックしようとした。

その時、画面の右上に踊る、鮮やかな金色のグラフィックが智恵の視線を奪った。

『マイポイント残高:185,000 pt(円相当)』

智恵の手が止まった。

「百八十五……千……?」

智恵は数字を二度見した。

サイトのシステムでは、ユーザーから贈られたギフト(投げ銭)は、ポイントとしてアカウントに蓄積され、一定額を超えると登録した銀行口座へ現金として振り込むことができる仕組みになっていた。

昨夜【ひまわり】から贈られた一万円だけではない。 智恵が気づかないうちに、彼女が過去に救った、あるいは言葉を与えた数十人のユーザーたちから、五百円、一千円、五千円といった細かなギフトが次々と送られていたのだ。

ポイントの履歴を開く。

『【みかん】さんから 3,000 pt が贈られました』 『【あずき】さんから 5,000 pt が贈られました』 『【匿名希望】さんから 10,000 pt が贈られました』 『【ノエル様の信奉者】さんから 30,000 pt が贈られました』

ズラリと並ぶ、感謝の対価。

十八万五千円。

それは、智恵がスーパーのパートに出たとしても、二ヶ月以上あくせく働かなければ手に入らない金額だった。 和彦から「これでおやり」と渡される月々の食費と雑費の残金から、数十円単位で切り詰めて貯金箱に押し込んできたヘソクリが、馬鹿らしく思えるほどの巨額。

智恵の指が、画面の「現金化手続き」のボタンの上で停止した。

(これは……私が稼いだお金……)

和彦の給料ではない。 「主婦は家で遊んでいる」と蔑まれる生活の中で、自分の知性と、他人の痛みを理解する洞察力だけで掴み取った、純粋な自分の価値。

「日高智恵」としての口座には、和彦から与えられた雀の涙ほどの生活費しか入っていない。けれど、このポイントを口座に移せば、自分は和彦に頼らずとも自由になれるお金を手に入れるのだ。

智恵は、喉の乾きを覚えた。

恐怖で消しかけていたアカウント。 けれど、この金と、自分を崇拝する人々からの熱狂を、本当にすべて捨ててしまっていいのだろうか?

【近隣の影】というアカウントからの恐怖。 それと引き換えにするには、この「十八万五千円」という数字と「ノエル様」という地位は、あまりにも魅惑的すぎた。

(待って……冷静になるのよ、智恵)

智恵は深く息を吐き、頭を冷やそうとした。

【近隣の影】の投稿を見直してみる。 『フレッシュマート』『火曜市』『チキンカツ』。

確かに自分の身近な情報だ。けれど、この地域に住んでいる人間なら、フレッシュマートの火曜市のことなど誰でも知っている。チキンカツの匂いだって、同じマンションの住人なら夕方にベランダに出ればわかるかもしれない。

(もしかしたら……近所の人が、たまたま私の投稿のクセや、時間帯から察して、ちょっとしたイタズラで書き込んだだけじゃないかしら?)

都合の良い解釈が、智恵の脳内を侵食していく。

もし本気で害意があるなら、最初から警察や和彦にバラしているはずだ。なのに、このアカウントはダイレクトメッセージで「近くで見ている」と告げてきただけ。つまり、この相手もまた、ノエルという存在の「ファン」であり、特別な距離感を誇示したいだけなのではないか?

人間は、自分にとって都合の良い恐怖の逃げ道を見つける天才だ。

智恵はゴクリと唾を呑み込み、退会手続きのボタンからカーソルを外した。

そして――「全ポイントを銀行口座へ振り込む」の申請ボタンをクリックした。

画面に『振り込み申請が完了しました。二営業日以内に指定口座へ送金されます』という素っ気ない表示が出る。

その瞬間、智恵の胸の底から、底知れぬ全能感が再び湧き上がってきた。

恐怖は消えていなかった。けれど、その恐怖すらも「お金」と「支配感」という強い麻薬によって、塗り潰されてしまったのだ。


3

翌日の午後。 智恵はいつも行く地元のスーパーではなく、一駅離れた大きなショッピングモールの中にいた。

普段の智恵なら、電車賃を使ってまで隣駅のモールへ行くことなど考えられなかった。けれど、昨日の振り込み完了の通知メールを確認した智恵の足は、自然と駅の改札へと向かっていたのだ。

モールの二階にある、少し高級なセレクトショップ。 ガラス張りの店内には、上品な仕立てのブラウスや、落ち感の美しいロングスカートが並んでいる。

智恵は今まで、こうした店に入る権利すら自分にはないと思っていた。 着ている服は、すべてファストファッションのワゴンセールで買った二千円以下のカットソーと、ゴムの伸び切ったパンツ。服を選ぶ基準は「汚れが目立たないか」「洗濯機でガシガシ洗えるか」だけだった。

「お客様、何かお探しですか?」

店員が柔らかい笑みを浮かべて近づいてくる。 以前の智恵なら「あ、いえ、見てるだけです」とオドオドしながら店を逃げ出していたはずだ。

けれど今の智恵のバッグの中には、ノエルとして稼ぎ出した現金の入ったキャッシュカードが入っていた。

「……あちらの、ネイビーのブラウスを見せていただける?」

智恵は背筋を伸ばし、努めて落ち着いた声で言った。

「まあ、お目が高いですね。そちらはシルク混の生地で、肌触りがとても滑らかなんですよ。お客様の落ち着いた雰囲気に、すごくお似合いになると思います」

店員が手際よくハンガーから外し、智恵の体に合わせる。

試着室の鏡の前に立った。 スポットライトに照らされた自分。上質なブラウスを羽織ると、くすんでいた肌がパッと明るく見えた。二千円のカットソーを着ていた時の「ただの疲れた主婦」の姿は消え、そこには思慮深く、自立した大人の女性が立っていた。

(これが……本当の私……)

二万四千円。 一着のブラウスにしては、今までの智恵の感覚からすれば狂気の沙汰のような値段だ。和彦の1週間の昼食代より高い。

けれど、智恵は迷わなかった。

「これ、いただきます。着て帰りますので、今着ている服を袋に入れていただけますか?」

「かしこまりました!」

店員が嬉しそうに頷く。

カードで支払いを済ませ、上質な服に身を包んで店を出た。 モールの上吹き抜けのガラス天井から注ぐ光が、智恵の全身を包み込む。

歩くたびに、シルク混の生地が滑らかに揺れ、肌を撫でる。 バッグの中に入れた、古いカットソーの重みが、過去の自分という「抜け殻」のように思えた。

(私は変わったのだ)

お金を持つこと。自分の力で稼いだお金を使うこと。 それがこれほどまでに人間に胸を張らせ、背筋を伸ばさせるものなのか。

智恵はモールのカフェに入り、一杯八百円もするアイスカフェラテを頼んだ。 窓際の席に座り、ストローで冷たい液体を吸い上げる。

テーブルの上に置いたスマホ。 画面を開くと、『ココロの隙間』の通知が届いていた。

『ノエル様、今日もあなたのお言葉を待っています』

智恵の口元に、自然と笑みが浮かんだ。

恐怖? 【近隣の影】? そんなもの、この素晴らしい世界と比べたら、何ほどのことがあろう。自分がノエルとして存在し続ける限り、自分は誰よりも強く、美しく、豊かでいられるのだから。

智恵はカフェの席で、静かにスマホのキーボードを打ち始めた。 上質なブラウスの袖口から覗く手が、滑らかに、確信に満ちた動きで文字を紡いでいった。


4

しかし、家庭という現実の場所は、智恵の「変化」を静かに、そして不気味に監視していた。

週末の夕方。 和彦がリビングのソファで横になり、プロ野球の中継を眺めていた。

智恵は買い出しから戻り、新しいブラウスの上にエプロンをつけ、キッチンで夕飯の準備をしていた。買い足した化粧品で整えた顔、以前より丁寧に手入れされた髪。

和彦はテレビから目を離し、不意に智恵の背中に視線を向けた。

「……おい」

和彦の声に、智恵は包丁の手を止めずに答えた。 「なに?」

「お前、最近……何か買ってないか?」

包丁の音が、一瞬だけズレた。 トントン、というリズムが乱れる。

智恵は努めて平然を装い、振り返った。 「何か、って?」

和彦はソファから起き上がり、智恵が着ているブラウスの胸元を不審そうに見つめた。

「その服。見たことないな。そんな高そうなやつ、どこで買ったんだよ」

責める口調の奥に、和彦自身にも説明できない戸惑いが混じっていた。妻に何かあったのかと尋ねる代わりに、彼は金の話を持ち出した。心配を心配のまま言葉にする方法を、和彦は知らなかった。

和彦の目は、長年連れ添った夫特有の「違和感」を正確に捉えていた。 普段なら絶対に選ばない色、生地の質感、そして智恵から漂うかすかな香水の匂い。

智恵の心臓が、トクと跳ねた。

(落ち着いて……理由なら考えてあるわ)

「これ? 近所の古着屋さんで、千円で売ってたのよ。掘り出し物だったの」

智恵は滑らかに嘘をついた。 ネット上で何十人ものユーザーに「夫をうまく誤魔化す方法」をアドバイスしてきた成果が、ここで発揮されていた。表情一つ変えず、相手の目をまっすぐ見つめて言い放つ。

和彦は眉間にシワを寄せ、智恵の顔を凝視した。

「ふん……古着ね。お前、最近やけにおしゃれに気を使うようになったな。化粧も濃いし。……パートでも始める気か?」

「いいえ。ただ、四十二にもなって汚い格好をしてたら、結衣にも申し訳ないと思って」

「結衣のためねぇ……」

和彦は納得いかない様子だったが、それ以上追及する決定的な証拠も持っていないため、吐き捨てるように言った。

「無駄遣いはするなよ。俺の稼ぎで贅沢できると思うな」

その言葉を聞いた瞬間、智恵の胸の中で、冷たい怒りが爆発しそうになった。

(『俺の稼ぎ』……? あなたの稼ぎなんて、もうアテにしてないわよ! 私が一日でいくら稼いでいるか、知りもしないくせに!)

喉まで出かかった言葉を、智恵は歯を喰いしばって飲み込んだ。

今、ここで反論してはダメだ。 自分の「収入源」がバレたら、すべてが台無しになる。この男に口座を差し押さえられ、パソコンを取り上げられ、再びあの透明な主婦へと戻されてしまう。

「ええ、分かっているわ」

智恵は深々と頭を下げ、静かに答えた。

その屈辱的な姿勢をとりながら、智恵の心の中では、和彦に対する冷酷な蔑みが渦巻いていた。

(見ていなさい。あなたが私をただの食い詰め者だと思っている間に、私はあなた以上の力を持つ人間になってみせるから)

食卓に戻った和彦は、再びテレビに目を戻した。

智恵は包丁を握り直し、トントンとキャベツを切り続けた。 その手つきは、先ほどよりもさらに鋭く、冷ややかになっていた。


5

深夜二時。

暗闇のリビングで、智恵は再びパソコンの画面に向かい合っていた。

新しいブラウスを脱ぎ、いつものパジャマに着替えてはいたが、智恵の心は昼間のセレクトショップでの高揚感と、和彦への激しい憎悪で煮たぎっていた。

『ココロの隙間』を開く。

タイムラインには、今夜も無数の「助けを求める声」が溢れていた。

智恵の指は、まるで何かに憑かれたように動いた。 以前よりも、さらに過激で、さらに踏み込んだアドバイスを書き込んでいく。

「夫のモラハラに耐えられない」という投稿には、 『夫の車のタイヤの空気を抜きなさい。彼が狼狽する姿を、高みの見物で眺めなさい』

「義母の過干渉が辛い」という投稿には、 『義母が大切にしている庭の鉢植えに、こっそり濃い塩水をかけなさい。枯れていく花を見て、あなたの心を取り戻しなさい』

破滅的な、けれど実行すれば確実に「相手にダメージを与えられる」過激なアドバイス。

智恵ノエルの言葉は、もはや単なるカウンセリングを超え、虐げられた主婦たちの「復讐の代行者」と化していた。

そして、それに比例するように、ユーザーたちからの熱狂は凄まじいものになっていった。

『ノエル様! 言われた通りにしたら、夫がパニックになって会社を休みました! 胸がすっとしました!』 『ノエル先生、あなたこそが私たちの闇を払う光です!』 『今月もギフトを送らせていただきます! どうか私たちのために言葉をください!』

画面上で跳ね上がるポイント数。

一万、二万、三万……。

数字が増えるたびに、智恵の脳内には脳内物質が溢れ出た。

お金と、支配感。 この二つが手に入るなら、現実の家庭がどうなろうと知ったことではなかった。和彦の冷たい視線も、結衣の無視も、すべてはこの「快楽」のための背景でしかなかった。

その時。

画面の右下に、一通のダイレクトメッセージが届いた。

送り主は――【近隣の影】。

智恵の指が、ピタリと止まった。

昼間の高揚感が、一瞬で冷め冷えとした氷の痛みに変わる。

智恵は震える手で、メッセージをクリックした。

【差出人:近隣の影】 ノエル先生。 今日は素敵なブラウスを買われましたね。ネイビーのシルク混、とてもよくお似合いでしたよ。二万四千円、安い買い物ではありませんでしたね。 燃えるゴミの日に、レシートをそのまま捨てるのは感心しません。誰かに拾われたら、どうするおつもりですか。

先生は、お金と承認欲求に毒されて、どんどん嘘つきになっていく。 昔の、静かで思慮深かったノエル先生はどこへ行ってしまったのですか?

私は寂しいです。 だから、お仕置きをしなければなりませんね。

文字を追う智恵の瞳が、恐怖で見開かれた。

今日の行動。 ショッピングモールへ行ったこと。セレクトショップで二万四千円のブラウスを買ったこと。そして、そのレシートを燃えるゴミに出してしまったこと。

そのすべてを、この【近隣の影】は知っている。

追われていたのではない。 自分は、ずっとこの人物の「手のひらの上」で転がされていたのだ。

智恵は、視界の輪郭が薄くなるのを感じた。

ガタガタと膝が震え、椅子から崩れ落ちそうになる。

メッセージには、さらに続きがあった。

【差出人:近隣の影】 明日の朝、あなたの家のポストを見てください。 私からの『プレゼント』が入っています。

「ひっ……!?」

智恵は口を手で覆い、短い悲鳴を漏らした。

ポスト。 マンションの1階にある、日高家の郵便ポスト。

そこは、もうネットの世界ではない。 完全に現実の、自分たちの生活空間だ。そこに、見知らぬ狂信者の手が直接触れようとしているのだ。

智恵は青ざめた顔でパソコンの画面を凝視したまま、微動だにできなかった。

外では、暗闇の中で激しい雷鳴が轟き始め、バケツをひっくり返したような夏の豪雨がベランダを叩きつけ始めた。

雷光が、暗いリビングに座り込む智恵の、青白く引きつった顔を、一瞬だけ鮮烈に浮かび上がらせた。


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