第3章:名前のない感謝
1
七月に入り、梅雨の終わりを告げる猛暑が街を包み込み始めていた。 連日三十度を超える真夏日が続き、アスファルトからはゆらゆらと陽炎が立ち上っている。セミの初鳴きがマンションの吹き抜けに甲高く響き、窓を開けても生温かい湿った風が入り込んでくるだけだった。
日高智恵の心は、あの深夜からずっと冷たい暗闇の底に取り残されていた。
(あの後、あの人はどうなったのだろう……)
【狂い咲き】というアカウントからの最後のメッセージ。 『今から彼の奥さんのSNSを探して、二人の写真とホテルで撮った写真をダイレクトメッセージで送ります!』
あの言葉が、四六時中、智恵の耳元で反芻されていた。 自分が放った言葉がきっかけで、どこかの家庭が崩壊し、見知らぬ女性が血の滲むような絶望に叩き落とされ、誰かが破滅に向かっているのかもしれない。
恐ろしかった。警察が来るのではないか。自分の身元が特定され、裁判を起こされるのではないか。そんな被害妄想めいた恐怖が、四六時中、背中に冷や汗を流させた。
けれど――。
恐怖とまったく同じ強さで、智恵の胸の奥を激しく揺さぶる「別の感情」が存在していた。
それは、身震いするほどの全能感だった。
自分の一言が、他人の人生を、他人の家庭を崩壊させるほどの絶大で不可避な「力」を持っているという事実。
(私は……あの人の人生を変えたのだ)
午前十時。 智恵はリビングのエアコンのスイッチを入れ、冷気が部屋に行き渡るのを待ちながら、いつものように作業机の前に腰を下ろした。
掃除機をかけ、洗濯物を干し、食材の買い出しを済ませた後のこの時間は、以前なら単なる「虚無の穴」だった。今では、智恵が「ノエル」という絶対的な存在に脱皮するための、聖なる時間となっていた。
ノートパソコンを開き、熟練した手つきで『ココロの隙間』へアクセスする。
マイページが開く。 通知欄に表示された数字を見て、智恵は息を呑んだ。
『通知:89件』
赤く点灯する数字は、日々その密度を増していた。 智恵のマイページには、彼女を崇拝するユーザーたちからのメッセージが殺到していた。
『ノエル様、お久しぶりの投稿待っています』 『ノエル先生の言葉で、長年のモラハラ夫と戦う決意がつきました』 『ノエル様は私の唯一の救いです。どうか体調を崩されませんように』
画面をスクロールする手が、かすかに震える。
誰も智恵を「日高智恵」とは呼ばない。ここには、割引シールを狙ってスーパーを疾走する主婦も、夫に無視されて生返事をする妻も、娘に「触らないで」と拒絶される母親も存在しない。
ここにいるのは、高潔で、聡明で、迷える羊たちを導く「ノエル様」だけだった。
智恵の視線が、最新の投稿欄に寄せられたある一つのメッセージで止まった。
差出人は【ひまわり】というアカウントだった。
【差出人:ひまわり(40代・主婦)】 ノエル様、はじめまして。 ずっとあなたの回答を陰ながら拝読しておりました。あなたのお言葉には、他の誰にもない『真実の光』があります。
私には高校生の息子がおりますが、完全に不登校になり、私を汚い言葉で罵り、壁に穴を開ける毎日です。夫は仕事にかこつけて家に帰ってこず、私は毎日、息子の暴言に怯えながら部屋の隅で泣いています。 誰に相談しても『子供の成長過程だから』『お母さんがしっかりしなきゃ』と言われるだけでした。誰も私の恐怖を理解してくれません。 ノエル様、私に生きる価値はあるのでしょうか。いっそ息子の前から消えてしまいたいのです。
智恵の内側で、何かが切り替わった。
(わかるわ……)
智恵は、キーボードの上に指を静かに乗せた。
自分の娘・結衣との冷え切った関係。言葉を交わすことすら拒絶され、まるでバイキンでも見るかのような目を向けられる毎日の痛み。それが、この【ひまわり】の叫びと完璧にシンクロした。
智恵の指が、熟練した演奏家のように鍵盤の上を滑り始めた。
2
『ひまわりさん、はじめまして。ノエルと申します。』
智恵の頭の中で、思考が猛スピードで回転を始める。 文面から滲み出る「母親の罪悪感」と「家庭内の孤立」。それをどう解体し、どう組み替えてやれば、相手が自分に完全に服従し、救われたと感じるか。そのロジックが、息をするように自然と組み上がっていく。
『息子さんの暴言、壁に開いた穴、そしてご主人の逃避。毎日、どれほどの恐怖と寂しさを耐えてこられたことでしょう。お一人で本当によく耐えてこられましたね。
まず、一つはっきり申し上げます。 あなたは「お母さん」であることを、一度完全に放棄してください。
あなたが苦しんでいる最大の理由は、「良い母親であらねばならない」という呪いに縛られているからです。息子さんが壁に穴を開けるのは、あなたが「怯えて自分の顔色を伺ってくれる優しい母」だと知っているからです。彼は、あなたをサンドバッグとして利用し、自分の不満を解消しているに過ぎません。
明日から、息子さんの部屋の前に食事を置くのをやめなさい。 彼が暴言を吐いたら、悲しむのではなく、冷ややかな目で見つめてそのまま家を出なさい。
あなたが守るべきは「息子」ではありません。「あなた自身の命と尊厳」です。
母親である前に、あなたは一人の尊い人間です。息子さんの不登校も暴言も、あなたの責任ではありません。彼自身の課題です。それを代わりに背負おうとするから、共倒れになるのです。
冷酷に聞こえるかもしれません。ですが、母親が「本気で自分を捨てるかもしれない」という恐怖を感じて初めて、愚かな子供は自分の立っている足元の危うさに気づくのです。
自分を責めるのは、今日で終わりにしましょう。あなたは十分に戦いました。これからは、あなた自身のために時間と命を使いなさい。』
一気に書き上げた文章を見返し、智恵は満足げに息を吐いた。
隙がなかった。 相手の「母親としての罪悪感」を肯定して剥ぎ取り、代わりに「冷酷な孤立」を正当化してやる。これで投稿者は、自分を責める呪縛から解き放たれ、同時にノエルという存在を「人生の救世主」として一生崇めることになるだろう。
智恵は躊躇することなく『投稿する』のボタンを押した。
画面が切り替わり、自分のメッセージが公開される。
数分もしないうちに、いいねや「共感した」の通知が怒涛のように届き始めた。
『ノエル様の回答、涙が出ました。私も母親ですが、救われました』 『「母親の前に一人の人間」……この言葉、額に入れて飾りたいです』 『ノエル先生、凄すぎます。どうしてそんなに人の心がわかるのですか?』
智恵は液晶画面に映る自分の顔を見つめた。 口元が、わずかに笑っていた。
(そうよ。誰も母親の苦しみなんて分かってくれない。私が……私が教えてあげるのよ)
部屋の中に、エアコンの風音が静かに響いていた。
智恵は左手の薬指の結婚指輪を、愛おしそうに撫でた。 和彦がくれたこの金属の輪は、自分を縛り付ける鎖だと思っていた。けれど今や、この鎖があるからこそ、自分は「虐げられた妻・母」としてのリアルな痛みを知ることができ、ネットの世界で無敵のカリスマでいられるのだ。
「日高智恵」という現実の影が濃ければ濃いほど、「ノエル」という光は眩しく輝く。
智恵は画面から目を離さず、次なる「求道者」たちの悲鳴を探してスクロールを続けた。
3
午後四時。 太陽が西に傾き始め、リビングに長い影が伸びていた。
買い物から帰った智恵は、キッチンのシンクで夕飯の下ごしらえをしていた。 今日のメニューは、チキンカツとキャベツの千切り、豆腐の味噌汁だ。
トントントン、と軽快な包丁の音が響く。 キャベツの葉が、規則正しい幅で細い糸のように切れていく。
以前の智恵なら、この作業は単なる苦痛だった。家族の胃袋を満たすためだけの、報われない労働。けれど今の智恵の手つきには、どこか余裕と誇らしさが漂っていた。
(ひまわりさん、メッセージ読んでくれたかしら……)
包丁を動かしながら、思考はネットの世界へ飛んでいる。 自分の言葉で救われた人々。自分の言葉で変わっていく人生。
その時、玄関の鍵が回るガチャリという音が響いた。
「ただいまー」
結衣だった。学校から帰ってきたのだ。 カバンを廊下に放り投げる重い音。足音荒くリビングに入ってきた結衣は、汗で濡れた前髪を額に貼り付け、不機嫌そうな顔で冷蔵庫を開けた。
「ねえ、麦茶これだけ? カツカツなんだけど」 麦茶のピッチャーを掲げ、結衣が文句を言う。
智恵は包丁の手を止め、振り返った。
以前の智恵なら「あ、ごめんなさい、すぐ作るわね」と頭を下げていただろう。けれど今の智恵は、冷ややかな視線をまっすぐに結衣へ向けた。
「自分で作ったら? パックは上の棚にあるわよ」 「は? なんで私が作んの? お母さんが昼間ヒマなんだから作っといてよ」
結衣の言葉には、日常的な蔑みが含まれていた。 「昼間ヒマな主婦」という、世間一般が押し付けるラベル。智恵をただの動く家電製品のように扱う態度。
智恵の胸の中で、静かなマグマが脈打った。
(ヒマ……? 私はね、あなたたちが想像もできないような場所で、何百人もの人から感謝され、崇められているのよ)
喉まで出かかった言葉を、智恵は辛うじて飲み込んだ。 代わりに、今まで見せたことのないような、深みのある微笑みを浮かべてみせた。
「結衣」 「なによ」 「お母さんがいなくなったら、あなたはどうするの?」
結衣は一瞬、ハッとしたように目を見開いた。 母の口から出たとは思えない、静かで重みのある言葉。いつもならオドオドと謝ってくる母が、どこか遠くを見据えるような冷ややかな目で自分を見ている。
「……何言ってんの。意味分かんない」
結衣は気まずそうに目をそらすと、麦茶のピッチャーを勢いよく冷蔵庫に戻し、バタンとドアを閉めた。
「もういい。部屋行くから」
足早にリビングを出ていく結衣の背中を、智恵は黙って見送った。
勝った、と思った。
以前のように感情的に怒鳴り散らすのではない。静かな絶望と、圧倒的な「拒絶の気配」を漂わせることで、結衣の中に小さな不安の種を植え付けることに成功したのだ。
これも、ネット上で不登校の子供や生意気な娘に悩む母親たちへ教えてきた「技術」だった。
(そう……感情的になった方が負けなのよ。私はもう、あなたたちの思い通りにはならない)
智恵は再び包丁を握り直した。 トントントン、という包丁の音が、先ほどよりもどこか鋭く、リズム良くキッチンに響き渡った。
4
夜七時半。 和彦が帰宅し、食卓に家族三人が揃った。
揚げたてのチキンカツの匂いが、リビングに充満している。 和彦はいつものように缶ビールをプシュッと開け、一口煽ると、ソースをチキンカツにどっぷりと回しかけた。
「智恵、カラシは?」 テレビから目を離さずに言う。
智恵は自席から動かず、静かに言った。 「冷蔵庫のドアポケットの、一番下の段にあるわ」
和彦の手が止まった。 ゆっくりと首を巡らせ、智恵を見る。
ここ最近の智恵の変貌に、和彦も薄々気づいていた。以前のように言われるがままに動き回らず、言葉の端々に刺すような冷たさがある。
「……取ってくれてもいいだろ。目の前に立ってんだから」 和彦の口調に、抑えつけた苛立ちが混ざる。
「私、今ご飯を食べているの。自分の食べたい調味料くらい、自分で取りに行ったらどうかしら?」
智恵は視線すら合わせず、自分の小鉢の冷奴を箸で崩しながら言った。
和彦の顔が赤く染まっていく。 「お前な……最近ちょっと調子に乗ってんじゃないか? 家事するのが嫌なら嫌ってハッキリ言えよ。俺が外でどれだけ苦労して金稼いできてやってると思ってんだ」
出た。いつもの決め台詞だ。
『誰のおかげで食えていると思っているのか』
以前なら、この一言で智恵は縮こまり、「すみません」と服従するしかなかった。お金を稼いでいないという負い目、社会に出ていないという弱みが、智恵の口を封じていたのだ。
けれど、今の智恵は違った。
智恵はゆっくりと箸を置き、和彦の目をまっすぐに凝視した。
「お金を稼いでいることと、家族をリスペクトしないことは別の問題よ、和彦さん」 「何……?」 「あなたが外で稼いでくるお金でこの家が成り立っているのは感謝しているわ。でも、私がこの家でこなしている家事と育児を外部の業者に委託したら、月いくらになるか計算したことある? あなたの給料だけじゃ足りないくらいよ」
冷徹なまでのロジック。 これは先週、サイト内で「稼ぎの低さを理由に夫から蔑まされている」という30代主婦の投稿に対し、智恵が授けた反論のスクリプトそのままだった。
和彦は目を見開き、言葉に詰まったように口を開閉させた。 まさか、妻の口からそんな理路整然とした言葉が飛び出してくるとは思っていなかったのだ。
「それに」と智恵は続けた。「私はあなたの家政婦じゃない。この家の共同経営者よ。お互いに敬意を持てないなら、この食卓に一緒にいる意味さえないわ」
食卓が凍りついた。
結衣はスマホを操作する手を完全に止め、息を殺して二人のやり取りを見つめている。目には驚きと、かすかな恐怖が浮かんでいた。
和彦は激高し、立ち上がろうとした。 「ふざけるな! 誰に向かってそんな口を――」
「大きな声を出さないで」 智恵は声を一段低くし、静かに制した。 「近所に聞こえるわ。恥ずかしいでしょう?」
和彦の動きが止まった。世間体を何よりも気にする和彦の弱みを、智恵は完璧に把握していた。
和彦は荒い息を吐きながら、ドサリと椅子に座り直した。 そして、忌々しそうに冷蔵庫へ向かい、自らカラシのチューブを取って戻ってきた。チキンカツにカラシを擦り付ける手つきは、怒りで震えていた。
智恵は心の中で、小さく勝利のガッツポーズをした。
(勝てる……! 私は、この男に勝てる!)
かつて自分を透明人間扱いし、言葉の暴力で支配してきた夫。その夫が、いまや自分の言葉一つで立ちすくみ、悔しさに震えながら自分でカラシを取りに行くのだ。
胸の奥から、甘く痺れるような快感が込み上げてくる。 ネットの世界で得た「力」が、現実の世界をも侵食し、塗り替えていく。自分はもう、虐げられるだけの弱者ではないのだ。
智恵は優雅に味噌汁を一口啜った。 冷え切った食卓の中で、彼女だけが熱い優越感に浸っていた。
5
深夜二時。 家中が深い静寂に包まれる刻。
智恵はリビングの作業机の前で、パソコンの青白い光に照らされていた。
昼間の和彦との対決の余韻が、まだ身体の奥で火照りのように残っている。 だが、パソコンを開いた智恵を待っていたのは、昼間の勝利の記憶を吹き飛ばすほどの、凄まじい「熱量」だった。
マイページの通知欄。
『【ひまわり】さんから、あなたに感謝のギフト(投げ銭)が贈られました』
画面に躍る文字。 サイト内の有料ポイント機能を通じて、ユーザーからノエルへ「10,000円分」のギフトが贈られていたのだ。
さらに、メッセージが添付されていた。
【差出人:ひまわり】 ノエル様、奇跡が起きました……! ノエル様のおっしゃる通り、今夜、息子の部屋の前にご飯を置くのをやめ、息子の暴言を完全に無視して部屋に鍵をかけて過ごしました。 すると夜中、息子が部屋から出てきて、ドア越しに泣きながら『お母さん、ごめんなさい。ご飯食べたい』と言ってきたのです……! 十六年間の子育てで、息子が私に謝ったのは初めてでした。涙が止まりませんでした。ノエル様が、私に『お母さんをやめる勇気』をくださったおかげです。 このお金は、私がヘソクリから出しました。本当はもっとお渡ししたいです。ノエル様、あなたは私の人生の神様です。どうかこれからも、私を導いてください!
画面を食い入るように見入る智恵の瞳に、液晶の光が反射する。
(一万円……)
金額の問題ではなかった。 自分が、他人の人生を劇的に変えたのだ。十六年間解けなかった母子の呪縛を、たった一通のメッセージで解き明かしてしまったのだ。
「あぁ……」
智恵の口から、吐息のような声が漏れた。
感謝の言葉と、可視化された「価値(お金)」。 それらが、智恵の乾ききっていた魂に、怒涛の勢いで注ぎ込まれていく。
快感だった。 麻薬のように脳を痺れさせる、猛烈な自己承認の快楽。
和彦が稼いでくる給料から渡される「生活費」とはわけが違う。これは、日高智恵という存在が、ノエルという名前を通じて、自らの知性と洞察力で掴み取った「対価」なのだ。
ふと、画面の隅に別の通知が届いた。
ダイレクトメッセージのアイコンが、赤く点滅している。
送り主のアカウント名は【近隣の影】。
(近隣の影……?)
妙なアカウント名だった。智恵は首を傾げながら、メッセージをクリックした。
開かれた画面。そこに書かれていた一文を目にした瞬間、智恵の目の前の文字以外が、急に遠ざかった。
【差出人:近隣の影】 ノエル先生、いつも素晴らしい回答をありがとうございます。 先生の鋭い観察眼にはいつも感服しております。
ところで先生。 先生のお住まいの地域のスーパー『フレッシュマート』では、火曜日に国産牛の薄切り肉が半額になりますよね。 今日の夕飯のチキンカツ、とても美味しそうな匂いがベランダまで漂ってきましたよ。
「――――っ!?」
智恵は息を吸い込むことすらできず、声にならない悲鳴を上げた。
指先が猛烈に震え始める。 全身の毛穴という毛穴から、冷たい汗が吹き出した。
フレッシュマート。火曜日の半額肉。 今日の夕飯の、チキンカツ。
(なぜ……? なぜそれを知っているの……!?)
画面に書かれた文字が、生々しい悪意の塊となって智恵に襲いかかってくる。
偶然か? いや、偶然で「今日の夕飯のメニュー」と「近所のスーパーの名前」が一致するわけがない。
誰かが、自分を見ている。 ネットの向こうの誰かが、自分の現実の生活を、この家を、ベランダを、夕飯の匂いを……見張っているのだ。
智恵は青ざめた顔で、指先を強く握り込みながら後ろを振り返った。
暗いリビング。 ベランダのサッシの向こうには、重たい夏の夜の闇が広がっているだけだ。カーテンは閉まっている。誰も覗けるはずがない。
なのに――。
メッセージの最後に、もう一行、文章が付け加えられていた。
【差出人:近隣の影】 いつも近くで応援しています、日高様。
名前。 自分の、現実の本名。
「いやあぁぁ……っ!!」
智恵は咄嗟に口を手で覆い、悲鳴を押し殺した。
パソコンの画面を、叩きつけるようにバタンと閉じる。 暗闇がリビングを包み込む。
暗くなった画面のガラスに、青ざめ、見開かれた自分の目が映っていた。
息を吸っても肺の奥まで届かず、耳の内側で血流の音だけが膨らんでいった。ドクドク、ドクドクと、頭の中で血の音が響く。
特定された。 自分の正体が、自分がただの四十過ぎの主婦であることが、住んでいる場所が、本名が、見知らぬ「誰か」に暴かれたのだ。
(誰……? 誰なの……!?)
和彦? 結衣? 近所のママ友? それとも、ネットで自分がアドバイスを与えてきた、あの狂信者たちの誰か……?
暗闇の中で、智恵は指先を強く握り込みながら、自分の肩を抱きしめた。
あんなに誇らしかったノエルという名前が。 あんなに愛おしかったネットの世界が。
今や、自分を丸呑みにしようとする、底なしの恐怖の怪物となって眼前に立ちはだかっていた。
窓の外で、生温かい夜風が吹き抜け、サッシがカタカタと不気味な音を立てた。
智恵は暗闇の中で、逃げ場のない恐怖に押し潰されそうになりながら、ただ小さく丸まることしかできなかった。




