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『名前のない毒を食む』  作者: 久遠 睦


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2/14

第2章:深夜2時の画面

1

六月の終わりを告げる湿った雨が、連日のように街を濡らしていた。 マンションのベランダに咲くアジサイの花は、重たい紫色の頭を垂れ、コンクリートの水はけ口からは四六時中、コポコポと不快な排水音が響いている。

日高智恵の日常は、表向きには何ひとつ変わっていなかった。

朝六時に起き、目玉焼きの黄身を潰さないように慎重にフライパンへ落とす。夫の和彦の靴下を裏返しにして洗濯機へ放り込み、娘の結衣が脱ぎ捨てた制服のブラウスに丁寧にアイロンをかける。

「お母さん、今日のお弁当、お肉少なめにって言ったじゃん」 「あ、ごめんなさい。脂身の少ない豚ロースにしたんだけど……」 「そうじゃなくて、量が多すぎるの。残したら残したでなんか言われるし」 「じゃあ、明日はもう少し減らすわね」 「もういい。自分で詰めるから触らないで」

冷ややかな会話のやり取り。和彦は新聞の折込チラシをパラパラと捲りながら、智恵が淹れた薄いアメリカンコーヒーを無言で啜る。二人の背中を見送り、一人きりになったリビングで掃除機を走らせる。

けれど、智恵の内側は何かが根本から変わり始めていた。

スーパーへの道中、ママチャリのペダルを漕ぎながら、智恵の頭の中を占めていたのは「今日の夕飯の献立」ではなかった。

(あの投稿の彼女、あれから旦那さんと話せたかしら……)

脳裏に浮かぶのは、顔も名前も知らない「誰か」のことだった。

スーパーの精肉コーナーで、半額シールが貼られた国産牛の薄切り肉を手にとる。以前なら「今夜はすき焼き風にして、和彦の機嫌を取ろうか」と考えただろう。けれど今の智恵は、パックのラップに反射する自分の顔を見入りながら、別のことを考えていた。

(妻が安売りのお肉を買って帰る苦労も知らず、旦那さんは『今日もお肉が薄いな』なんて笑うのよ。あの子の旦那と同じ。みんな、何も見ようとしない)

智恵の視線は、無意識のうちに鋭さを増していた。

買い物を終えて帰宅すると、智恵は手早く買ってきた食材を冷蔵庫に押し込んだ。根菜類を泥と一緒に洗う手つきは、以前の倍以上のスピードだった。

午前十時半。 掃除も、洗濯物の取り込みも、夜の下ごしらえも、すべてを猛烈な勢いで終わらせた智恵は、リビングの隅にある作業机の前に腰を下ろした。

ノートパソコンの電源ボタンを押す。 ファンの回転音が低く響き、液晶画面が青白い光を部屋に投げかける。

ブラウザのブックマークから『ココロの隙間』を開く。 画面の右上に表示されたマイページアイコン。そこに点灯している「赤い通知バッチ」の数字を見る瞬間、智恵の心臓はキュッと跳ね上がり、背筋に甘い痺れのようなものが走るようになった。

『通知:38件』

数字は、日を追うごとに増えていた。

アカウント名『ノエル』。 智恵がその名を名乗り始めてから、半年ほどが経っていた。けれど、彼女が投じた数々のコメントは、サイト内で静かな波紋を広げ続けていた。


2


智恵の回答スタイルは、他のユーザーとは一線を画していた。

多くの利用者が「辛いですね」「頑張ってください」「そんな夫とは別れるべきです」といった、安直な同情や過激なアドバイスを書き込む中で、ノエル(智恵)の言葉は異質だった。

彼女は決して安易に相手を慰めない。 投稿者の文章の行間を読み取り、置かれた状況、相手の感情の裏にある「言えなかった言葉」を、まるで外科医がメスを入れるように正確に摘出してみせるのだった。

例えば、このような投稿があった。

【投稿者:みかん(20代後半・既婚)】

結婚して一年ですが、夫が休みの日になると一人で趣味の釣りに出かけてしまいます。寂しいと伝えても「平日は働いてるんだから息抜きさせてくれ」と言われます。私といるのが退屈なのでしょうか。

これに対し、他のユーザーは「新婚なのにひどい!」「もっと話し合いましょう」と書き込んでいたが、智恵は違った。

智恵の返信はこうだ。

【ノエル】 みかんさん、はじめまして。 旦那様が釣りに行くのは、あなたといるのが退屈だからではありません。「あなたという存在が、すでに彼にとって『実家』のような空気になってしまっている」からです。

彼は、あなたに甘えています。何もしなくても、家へ帰れば温かいご飯があり、掃除された部屋がある。だからこそ、外に刺激を求めに行くのです。

あなたが本当に辛いのは「釣りにいかれること」そのものではなく、「私という存在の価値を、当たり前の空気のように扱われていること」ではありませんか?

今度の週末、旦那様が釣りに出かけたら、あなたも黙って家を空けてみてください。置き手紙も、夕飯の準備もいりません。彼が帰ってきた時、誰もいない暗い部屋で、初めて彼は「あなたが空気ではなく、意志を持った人間であったこと」に気づくはずです。

この回答は、サイト内で大きな反響を呼んだ。

『凄すぎる……言葉が出ない』 『みかんさんの本当の痛みを言語化してくれてる』 『ノエルさん、心理カウンセラーの方ですか?』 『首がもげるほど頷いた。私の夫もそうです!』

「共感した」のカウント数は、瞬く間に三桁を超えた。投稿者のみかんからは『ノエルさんの言う通りにしてみたら、夫が青ざめて謝ってきました。泣きながら私を抱きしめてくれました。ノエルさんは命の恩人です』と、狂喜に近い感謝のメッセージが届いた。

智恵は画面の前で、深く、静かに息を吐いた。

(そう……分かればいいのよ。男なんて、失いかけて初めて慌てる生き物なんだから)

パソコンの画面に映る自分の顔を見る。 頬が微かに赤差し、瞳には怪しいほど強い光が宿っていた。

かつて、自分の存在は「透明」だった。 家庭という閉じた世界の中で、自分の発する言葉はすべて和彦と結衣の不機嫌なフィルターを通り、無味無臭の雑音としてかき消されていた。智恵がどれほど心を砕いても、どれほど尽くしても、誰からも感謝されることはなかった。

けれど、ここ(ネット)では違った。

智恵が一文字打つたびに、誰かの人生が動く。 智恵が「ノエル」として紡ぐ言葉は、悩める女性たちの暗闇を照らす光となり、神託のように崇められていた。

「ノエル様」 「ノエル先生」

コメント欄の中に、そう呼ばれる記述が増え始めていた。

智恵は左手の薬指に触れた。プラチナの指輪は、相変わらず冷たかった。けれど、その指輪をはめた手でキーボードを叩いている時だけ、智恵は「日高智恵」という透明な主婦から脱皮し、無敵の女王になれるのだった。


3


昼過ぎ、スーパーへ向かう道すがら、智恵は近所のドラッグストアに立ち寄った。

いつもなら、一番安い詰め替え用のボディソープや、特売の洗剤だけを買って素早く店を出る。けれどこの日は、化粧品コーナーの前に足を止めた。

照明の強いガラスケースの中に、色とりどりの口紅やファンデーションが並んでいる。

智恵はここ何年も、まともにメイクをしてこなかった。出かける際も、日焼け止め効果のある下地を塗り、安価なBBクリームを伸ばすだけ。リップクリームすら、ドラッグストアの薬用のものをポケットに突っ込んでいるだけだった。

(四十過ぎて、今更……)

そう思いつつも、智恵の目は、あるブランドのリップグロスに惹きつけられていた。派手すぎない、けれど微かにゴールドのラメが入った、深みのあるローズピンク。

テスターを指に取り、手の甲に少し塗ってみる。 蛍光灯の下で、乾燥した自分の肌の上で、そのピンク色がやけに艶ややかに輝いた。

「お客様、お試しになりますか?」 店員に声をかけられ、智恵はビクッと肩を揺らした。

「あ、いえ……」 断ろうとした。こんなもの、買っていったら和彦に「何気取ってんだ」と言われるかもしれない。結衣に「うわ、キモ」と笑われるかもしれない。

けれど、智恵の脳裏に『ノエル様は本当に美しくて知的な方に違いない』という、ネット上のファンの書き込みが閃いた。

彼女たちは、ノエルを崇拝している。 ノエルは、疲れ切った冴えない主婦であってはならない。強く、美しく、物事の本質を見抜く聡明な女性でなければならないのだ。

「……これ、ください」

智恵は財布から千五百円を出し、リップグロスを買った。 店を出てすぐ、自転車のバックミラーに自分の顔を映した。

マスクを少しずらし、買ったばかりのグロスを唇に塗る。 乾ききっていた唇が、一瞬で潤いを取り戻し、薄いピンクの光を放った。

(私……まだ、女なんだわ)

ミラーの中の自分と目が合う。 目元に刻まれた小ジワすら、どこか思慮深い知性の証のように思えた。

家庭では誰も自分を見てくれない。和彦も結衣も、智恵の顔なんて何ヶ月もまともに見ていないだろう。彼らにとって、智恵はご飯を作り、洗濯をする「背景」に過ぎないのだから。

けれど、ノエルとしての智恵は、何百人もの人々に注視され、愛され、必要とされている。

智恵はグロスをしっかりとポーチに仕舞い込むと、背筋をピンと伸ばして自転車のペダルを漕ぎ出した。不揃いな街並みが、いつもより少しだけ鮮やかに見えた。


4


変化は、少しずつ、だが確実に家庭内にも滲み出し始めていた。

ある日の夕食時。 和彦がいつものように、テレビを観ながら無言でナスと豚肉の炒めものを口に運んでいた。

「智恵、醤油」

和彦が手だけを伸ばして言った。目線はバラエティ番組の芸能人に向けられたままだ。

以前の智恵なら、黙って醤油差しを取り、彼の手に握らせていただろう。「すみません」と心の中で小さく呟きながら。

けれど、この日の智恵は違った。

智恵は箸を止め、静かに和彦を見つめた。

「和彦さん」 「ん?」 「醤油なら、あなたの右手から十センチ横にあるわよ。自分で取ったら?」

声は低く、淡々としていた。感情的な怒りではなく、ただ「事実」を指摘するような冷ややかさだった。

和彦の手が、ピタリと止まった。 テレビに向けられていた彼の視線が、驚いたようにゆっくりと智恵へと向けられた。

「……あ?」 「私、あなたの召使いじゃないの。目が見えているなら、自分で取って」

食卓に、冷たい静寂が走った。 斜め向かいでスマホをいじっていた結衣も、耳のイヤホンを片方外し、信じられないものを見る目で智恵を凝視した。

いつもなら、何を言われても「ごめんなさい」と首をすくめ、波風を立てないように立ち回る母が、ハッキリと不快感を示したのだ。

和彦の顔が、赤く煮気立っていった。 「なんだよ、その言い方は。俺が外で誰のために働いてると思ってんだ」 「働いていることと、目の前にある醤油を自分で取らないことは、何の関係もないでしょう?」

智恵は怯まなかった。まっすぐに和彦の目を見つめ返した。

ネットの世界で、何十人もの「モラハラ夫に苦しむ女性たち」の相談に乗ってきた。男たちが使う「誰のおかげで食えていると思ってるんだ」という言葉の裏にある、ちっぽけなプライドと底の浅さを、智恵はノエルとして徹底的に分析し、破砕してきたのだ。

目の前にいる和彦も、結局はその「ちっぽけな男たち」の一人に過ぎなかった。 以前は巨大な壁のように見えていた夫が、今では酷く矮小で、哀れな生き物に見えた。

和彦はぐうの音も出ない様子で智恵を睨みつけたが、やがて苛立ちを隠そうともせずにガチャリと大きな音を立てて醤油差しを自分で掴み、皿に叩きつけるように置いた。

「……チッ、何なんだよ、最近のお前は。変な宗教にでも入ったんじゃないだろうな」 「別に。当たり前のことを言っただけよ」

智恵は平然と自分の味噌汁を啜った。

胸の中で、激しい鼓動が打っていた。恐怖ではない。快感だった。

いつも自分を抑圧してきた夫に対し、生まれて初めて優位に立ったという感覚。自分の放った一言が、夫の傲慢な態度を粉砕したのだ。

(私はもう、ただの言いなりになる主婦じゃない)

背中に熱い血が通うのを感じた。 結衣が、どこか恐れをなしたような目で自分を見つめているのが分かった。智恵はその視線を心地よく受け止めながら、一口一口、夕飯を味わった。


5


しかし、昼間の「女王」としての全能感と、家庭内での反抗の代償は、深夜に思わぬ形で訪れることになった。

夜十一時半。 家族が寝静まった暗闇の中で、智恵はリビングのPCを開いていた。

『ココロの隙間』のマイページ。 ノエルのフォロワー数は一千人を超え、彼女が新しい投稿にコメントをつけるたびに、タイムラインは祭りのような賑わいを見せるようになっていた。

その夜、智恵のもとに、サイトの機能である「個別ダイレクトメッセージ(DM)」が届いた。 DM機能は、サイト内で一定以上の評価を得たユーザー(神カウンセラー枠)のみに解放される特別な連絡手段だった。

送り主のアカウント名は【狂い咲き】。

メッセージを開くと、そこには長文のテキストがぎっしりと詰め込まれていた。

【差出人:狂い咲き】 ノエル様、初めまして。 ずっとあなたの回答を読んでいました。あなただけが、この汚い世界で本物の『真理』を語っていらっしゃいます。あなたの言葉は、私の魂の救いです。

実は、誰にも言えない悩みがあります。 私は今、職場の上司(既婚男性)と不倫関係にあります。彼は『妻とは冷え切っている。離婚するから待ってくれ』と言いますが、もう二年が経ちました。最近、彼が私を避けているような気がします。 私はどうすればいいでしょうか。ノエル様、どうか私に『正解』を教えてください。あなたのおっしゃる通りにします。あなたの言葉なら、毒でも飲みます。

文章の行間から立ち上る、濃密で異常な執着心。 他の相談者たちの「寂しい」「辛い」といった感情とは異なり、この【狂い咲き】という人物のメッセージには、智恵の背筋を氷のように冷たく撫で上げる「湿り気」があった。

(……この人、少し危ないかもしれない)

智恵の理性が、警告信号を鳴らした。関わらない方がいい。無視するか、運営に通報してブロックすべきだ。

けれど――。

『あなたの言葉なら、毒でも飲みます』

その一文が、智恵の心に強く突き刺さった。

一人の人間が、自分という存在にそこまで依存している。自分の言葉一つで、その人間の人生が、いや命すら動かせるかもしれないという、あまりにも肥大化した自己承認欲求。

智恵の指が、キーボードの上で固まった。

(ダメよ、ノエル。あなたは救い主なんだから。逃げちゃダメ)

智恵は息を呑み、返信のキーを叩き始めた。

【ノエル】 狂い咲きさん、はじめまして。 あなたの苦しみ、痛いほど伝わってきます。

結論から申し上げます。その男性は、あなたと離婚する気などさらさらありません。あなたを『都合の良い逃げ場』として利用しているだけです。男は、リスクを冒さずに手に入る快楽を絶対に手放しません。

あなたが本当に彼を取り戻したい、あるいは彼に本当の価値を教え込みたいのであれば、生半可な引き算ではダメです。 彼が一番恐れているものは何ですか? 『平和な日常が壊れること』でしょう。 彼の奥様に、匿名で二人の関係を知らせなさい。それが、彼に対する本当の『愛の試練』です。本当にあなたを愛しているなら、彼は奥様と離婚してあなたの元へ走るでしょう。逃げるなら、それまでの男だったということです。

カタカタと音を立てて打ち終えた文章。 智恵は一瞬、自分の書いた内容の凄惨さに胸が痛んだ。不倫相手の妻に告発させろ、などというアドバイスは、あまりにも危険すぎる。一歩間違えれば、争いは泥沼化し、人間関係が完全に破滅する。

(でも……これが『正解』のはず。彼を試すのよ。本物なら耐えられるはずだわ)

智恵は自分に言い聞かせるように、送信ボタンを押した。

送信完了の画面が表示された、まさにその瞬間だった。

ガチャリ。

静まり返ったリビングに、ドアが開く音が響いた。

「!?」

智恵は飛び起きるようにして、慌ててパソコンの画面をバタンと伏せた。心臓が肋骨の内側を激しく叩く。

暗闇の中に立っていたのは、夫の和彦だった。

ボサボサの頭に、ステテコ姿。和彦は眠たそうな目を擦りながら、薄暗いリビングの隅に立つ智恵を眉間にしわを寄せて見入っていた。

「……何してんだよ、こんな時間まで」 「あ……う、ううん。ちょっと、家計簿の計算をしていて……」

声が震えた。口の中がカラカラに乾いていた。

和彦は不審そうに智恵へ近づいてきた。重い足音が、智恵の死刑宣告の足音のように聞こえた。

「家計簿? パソコンでか? お前、最近ずっと夜中にそれやってるだろ」 「だ、だって、手書きよりパソコンの方が楽だから……」

和彦は智恵の横を通り過ぎ、冷蔵庫を開けて麦茶のピッチャーを取り出した。コップに注ぎ、一気に飲み干す。

智恵は冷や汗で背中がぐしょぐしょになりながら、伏せたパソコンの上に固く手を置いていた。もし今、和彦が「見せろ」と言ってパソコンを開いたらどうなるだろう。

画面には、不倫に悩む女に『妻に匿名でバラせ』と唆す、四十過ぎの妻の恐ろしい書き込みが残っているのだ。

和彦はコップをシンクに置くと、チラリと智恵の手元を見た。

「……ふん。余計な電気代使うなよ。早く寝ろ」

それだけ言うと、和彦はあくびをしながらリビングを出て行った。パタンとドアが閉まる。

「はぁ……っ、はぁ……っ」

智恵はその場に崩れ落ちるように膝をついた。 荒い息が漏れる。全身の毛穴から冷や汗が吹き出していた。

危なかった。本当に危なかった。

もしバレていたら。自分のこの「裏の顔」が知られていたら。家庭は崩壊し、自分はただの狂った女として追放されていただろう。

(やめなきゃ……こんなこと、もうやめなきゃ……)

智恵は本気でそう思った。恐怖が、承認欲求の快感を上回った瞬間だった。明日、アカウントを消そう。ノエルを消して、元の「普通の主婦」に戻ろう。こんな危ない橋を渡る必要なんてないのだから。

智恵は震える手でパソコンを少しだけ開き、電源を切ろうとした。

その時。

画面の右下に、一通の通知ポップアップが滑り込んできた。

『【狂い咲き】からメッセージが届きました』

智恵の指が止まった。 見なければいい。そのまま電源ボタンを長押しして強制終了すればいい。

なのに――智恵の指は、吸い寄せられるようにトラックパッドを操作し、そのメッセージを開いてしまった。

【差出人:狂い咲き】 ノエル様……! 素晴らしいアドバイスをありがとうございます! 涙が止まりません! そうですね、彼が一番怖がっているのは『平穏な日常』です。私、今から彼の奥さんのSNSを探して、二人の写真とホテルで撮った写真をダイレクトメッセージで送ります! ノエル様が背中を押してくれたおかげで、私は強くなれました! あなたは私の神様です! 結果が出たら、またすぐ報告しますね!

「あ……」

智恵の口から、声にならない悲鳴が漏れた。

(待って……! 今すぐはやめて! 落ち着いて!)

智恵は焦って返信を書こうとした。 『待ちなさい! まだ早いです! 一度冷静になって!』と。

だが、送信ボタンを押そうとした瞬間、画面にエラーメッセージが表示された。

『このユーザーは退会したか、アカウントを一時凍結しています』

【狂い咲き】は、智恵のアドバイスを受け取った直後に、自分のアカウントを消去して「実行」へと走り去ってしまったのだ。

智恵は青ざめた顔で、液晶画面を見つめ続けた。

自分が放った言葉。 軽はずみに書いた、残酷な『正解』。

それが今、暗闇のどこかで、現実の誰かの家庭を、誰かの人生を、音を立てて破壊しようとしている。

静まり返ったリビング。 カチ、カチと、壁掛け時計の針が時を刻む音だけが響いていた。

智恵は自分の両手を見据えた。 その手は、冷たく震えていた。

誰かを救う神の手。 あるいは、誰かの人生を破滅へ追い込む悪魔の手。

ノエルという毒は、すでに智恵の血の中に完全に回っていた。やめることなど、もうできはしないのだ。

深夜二時。 暗闇の中で、パソコンの液晶画面だけが、智恵の青白い顔を静かに照らし続けていた。


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