第1章:透明な指輪
油の浮いた味噌汁の表面を、お玉でぼんやりとすくい上げる。 ネギの輪切りが幾重にも重なり、円を描いて沈んでいくのを、智恵はただ見つめていた。
「智恵、醤油とって」
テレビのニュース番組に視線を向けたまま、夫の和彦が手を伸ばしてくる。智恵は黙って醤油差しを掴み、彼の手に握らせた。和彦は「サンキュ」とも言わず、目線すら合わせずに刺身の小皿へ黒い液体を注ぐ。
食卓の斜め向かいでは、十四歳になる娘の結衣が、スマホの画面を親指で高速でフリックしながら、片手で箸を動かしていた。耳には白いワイヤレスイヤホンが押し込まれている。
「結衣、ご飯のときくらいスマホ置きなさい」 「……ん」
返事とは呼べない生返事が返ってくるだけで、結衣の指先が止まることはない。
(まただ)
智恵は胸の奥で、小さく息を吐き出した。この家の中で、自分はどのような存在なのだろうか。
朝起きて、洗濯機を回し、二人の弁当を作り、掃除機をかけ、スーパーの特売日を狙って買い物に行き、夕飯を作る。四十二歳。日高智恵という人間は、この家をスムーズに回転させるための「潤滑油」であり、「便利な透明人間」だった。
薬指にはまったプラチナの結婚指輪を見つめる。 十五年前、左手の指を締め付けていたその金属は、今ではすっかり皮膚に馴染みすぎて、はめていることすら忘れてしまう。指輪も、そして指輪をはめている自分自身も、誰の目にも映っていないかのようだった。
「ごちそうさま。風呂、先に入るから」
和彦が立ち上がり、テレビがついたままの居間を去っていく。結衣も「ごちそうさまー」とボソリと呟くと、食器を下げることもなく自分の部屋へと消えていった。
リビングの戸口で、和彦は一度だけ振り返った。智恵が箸を置いたままなのに気づいたようだったが、声をかける代わりに視線を外した。何を言えばいいのか分からないまま、二人は長い年月を過ごしてきた。
残されたのは、冷めかけた味噌汁と、汚れのついた食器が並ぶ食卓。そして、四十二歳の智恵だけだった。
「……私の人生、あと何年これやるのかな」
ポツリと漏れ出た言葉は、誰に届くこともなく、静かなキッチンに吸い込まれて消えた。
洗剤の泡で真っ白になった自分の手を見つめながら、智恵の心には、冷たく乾いた風が吹き抜けていた。自分は生きている。けれど、誰も「自分」を見ていない。
この時の智恵はまだ知らなかった。 自分の中に眠るその小さな「飢え」が、やがて取り返しのつかない毒となって、自分と家族を呑み込んでいくことを。




