第六十九章:何者に
カフェの閉店後ルシアスは静かにカウンターの奥でグラスを拭いていた。
セレスが「ここにいてもいいかな」と言った言葉がまだ頭の中に残っている。
──ここにいてほしいとは思っている。
まさかそんな言葉を自分が口にするとは思わなかった。
けれど、嘘ではなかった。
「……俺は、変わったのか?」
呟くように問いかける。
このカフェに来る前の自分を思い返す。
あの時はすべてに決着がつき、俺は魔王としての役割を失った。
魔王として従えていた魔族たちも今はそれぞれの道を歩み始めている。
俺だけが何者でもなくなった。
だからこそ店主に誘われるままここいる。
世界を知るために。
だが──
「ただの観察者でいるつもりだった」
ルシアスは手の中のグラスをゆっくりと棚に戻した。
最初はこのカフェでの生活も一時的なものだと思っていた。
人間の営みを知るためにしばらくここに身を置くだけのつもりだった。
それが今ではどうだ。
俺は料理を覚え、接客を覚え、客の反応を気にするようになった。
さらにはセレスと日常を共にし、彼女の変化を感じ取るようになった。
──なぜ、こんなにも関わってしまった?
「ルシアス?」
不意に店主の声がした。
「何か考え事か?」
「……いや、別に」
ルシアスはそう答えたが店主はわずかに微笑んだ。
「お前もすっかりここの一員になったな」
「……ふん、そうは思わない」
「そうか?」
店主はコーヒーを淹れながら続ける。
「料理に興味を持ち、客の反応を見て気にするようになり、今日もセレスの言葉に対して真剣に考え込んでいる。これがここの一員でなくて何なんだ?」
ルシアスは黙った。
否定できない。
確かに、俺はここにいる。
以前の俺ならこんなふうに人間たちと日々を過ごすことはありえなかった。
戦場で剣を振るい、絶対的な支配を目指していた自分が──
「……俺は、何者になったんだろうな」
「何者でもないのかもしれないし、何者にでもなれるのかもしれない」
店主は静かにコーヒーを差し出す。
「ただ一つ言えるのは、お前は今、確かに“ここ”にいるということだ」
ルシアスはカップを手に取りゆっくりと香りを嗅いだ。
このカフェの香り。
最初は気にも留めていなかったが、今では落ち着く匂いだと感じるようになっていた。
「……そうだな」
静かにコーヒーを口に運ぶ。
苦味の奥に微かに優しい甘さを感じた。




