第六十八章:ここに……
カフェの掃除をしながらセレスはふと店内を見渡した。
ついこの間まで「勇者」として戦場を駆け巡っていた自分が、こうしてカフェで雑巾を片手にテーブルを拭いている。
──変わったな、私。
最初は慣れない皿洗いに戸惑い、注文を取ることにも緊張していた。
けれど、今ではそれが当たり前のようにできるようになっている。
「セレス、そっちは終わったか?」
ルシアスがカウンターの向こうから声をかける。
「うん、もうすぐ終わるよ」
以前なら「なんで私がこんなことを」と思っていたはずなのに、今では自然に体が動いている自分に気付く。
「なあ、ルシアス」
「なんだ?」
セレスは雑巾を絞りながら何気なく尋ねた。
「私、最近なんか変わった気がするんだ」
ルシアスは彼女をじっと見つめる。
「気付くのが遅いな」
「えっ?」
「お前はすでにここに馴染んでいる。最初の頃とは比べ物にならないほどに」
その言葉にセレスはドキリとした。
たしかに最初の頃は勇者としての誇りばかりが邪魔をして、カフェの仕事に対して本気になれなかった。
けれど、今ではお客さんが美味しそうに食べている姿を見て嬉しくなり、仕事にやりがいを感じるようになっていた。
──戦うことだけが私の役割じゃないんだ。
それが今の自分にとって最も大きな変化だった。
「ふーん、私、そんなに変わった?」
「変わった。だが、まだ完全に吹っ切れてはいないな」
ルシアスは冷静な口調で言う。
「……それはどういう意味?」
「まだどこかで“勇者”としての自分にしがみついているように見える」
鋭い指摘だった。
セレスは少し言葉に詰まりながらも、すぐに笑って誤魔化した。
「まあね。そう簡単に変われるわけないし」
「別にすぐに変わる必要はない。だが、お前がどこに向かうかは自分で決めることだ」
ルシアスの言葉はまるで自分自身にも言い聞かせているようだった。
「ふーん……ルシアスも変わったよね」
「俺が?」
「だって最初の頃はカフェの仕事なんて興味なさそうだったのに、今じゃ料理にまで挑戦してるじゃない」
「……ふん。俺はただやるべきことをやっているだけだ」
「でも、楽しそうじゃない?」
ルシアスは少しだけ口を引き締め何も言わなかった。
──そうだ、私も。
このカフェでの日々がなんだか楽しい。
誰かの笑顔のために働くことがこんなにも心を温かくするものだったなんて、勇者だった頃には思いもしなかった。
「ねぇ、ルシアス」
「なんだ?」
「これからも、私ここにいていいと思う?」
ルシアスは一瞬、言葉を詰まらせた。
カウンター越しにセレスと視線が交差する。
「……お前が決めることだ」
そう言った後、ルシアスは少しだけ沈黙した。
まるで何かを考えるように視線を落とし、低い声でぼそりと続ける。
「だが、俺は……お前がここにいてほしいとは思っている」
セレスの心臓が跳ねた。
「なっ……」
「何か問題でも?」
「……別にっ!」
セレスは慌てて顔を背ける。
「そうか」
ルシアスは何事もなかったようにまたグラスを拭き始めたが、彼の口元はほんの少しだけ緩んでいた。
セレスは頬を少し赤くしながら雑巾をぎゅっと握りしめる。
──この人、たまにこういうことをさらっと言う……!
自分に起こった変化はまだ言葉にはできないけれど。
カフェでの毎日がこれからも続いてほしいと願っている自分がいる。
それだけは確かだった。




