第六十一章:ルシアスとセレス
カフェの閉店後、カウンターの奥でコーヒーのカップを片付けながらふと視線を上げる。
セレスが店主と談笑しながらテーブルを拭いていた。
「もう少し、ここにいてもいいかなって思ってる」
彼女がそう言った時、妙に納得している自分がいた。
あの騒動の後このカフェに足を踏み入れた時には、俺は今みたいにカフェの仕事をするなんて想像もしていなかった。ただ、店主と共に知識の探究をする前の準備くらいに思っていた。それなのに思いのほか新たな気付きが多く真剣になっている自分がいた。
けれど、セレスは目的がないままいつの間にか”自分の意思”でここに残ると言った。
それが、俺には少しだけ意外だった。
最初にここへ来た時のセレスは、ただの”勇者”だった。
戦いのために生まれ、使命のために生きてきた者。
力がすべてであり、それ以外の生き方を知らない者。
だが、今のセレスは少しずつ変わってきている。
店主に言われるまま皿を洗い、客の対応を学び、ささやかな日常に戸惑いながらも順応している。
最初はただの”勇者”だった女が、今は”カフェの見習い”になりつつある。
「お前、思ったより楽しんでたな」
俺がそう言った時、セレスは驚いたような顔をしていた。
本人は気づいていないのかもしれない。
でも、確かに彼女はこの場所に馴染み始めている。
それが、なぜか俺の中で引っかかる。
俺は、セレスのことをどう思っているのだろう。
最初は、ただの”勇者”と”魔王”という関係だった。
戦場では敵として向かい合い、互いに剣を交えた。
それが今では一緒にコーヒーを淹れ、カウンターの中で仕事をしている。
そして、俺は時々セレスを目で追っていることに気づく。
「なんでだ?」
自分に問いかけるが明確な答えは出てこない。
ただ、一つだけ分かっていることがある。
このカフェに来てから俺は確実に変わった。
支配することしか知らなかった俺が“働く”という選択肢を持つようになった。
戦場では見えなかった”人の営み”を知り、少しずつ興味を持つようになった。
そしてそんな俺の隣に今はセレスがいる。
彼女もまた、この場所で”何か”を探している。
その姿が、妙に気になる。
「おい、ルシアス」
店主の声に我に返る。
「ん?」
「そろそろ閉めるぞ」
「ああ……分かった」
俺は手に持っていたカップをシンクに戻し、軽く伸びをした。
セレスはテーブルを拭き終え、椅子を整えている。
「疲れたか?」
俺が何気なく尋ねると、セレスは少し考え込んだ後、小さく頷いた。
「うん。でも……」
「でも?」
「戦ってばかりいた毎日と違ってここは笑顔が溢れていて、なんだか心地よい疲れだなって」
セレスは少し照れくさそうに笑う。
「……そうか」
俺は、それ以上何も言わなかった。
ただ、その気持ちはよく分かる気がした。
「お前、変わったな」
俺がそう言うと、セレスは驚いた顔をした。
「え?」
「勇者として過ごすお前だったら、きっとこんな気持ちを知ることは一生なかったんじゃないかな」
「……そう、かも」
セレスは少し考え込んでから、小さく微笑んだ。
「ルシアスも、変わったよね」
「俺が?」
「うん。前のあなたなら、こんなふうにカフェで働くなんて想像もできなかった」
「……それはそうだろう。でも今は魔王ではなく、俺はただのルシアスだ」
俺たちはそれ以上何も言わずにカフェを出た。
夜の風が心地よく肌を撫でる。
俺は静かに空を見上げた。




