第五十八章:変わる距離間
「おはよう、セレス」
店の奥から戻ると、店主がもう一度自然に声をかけてくる。
「……お、おはよう」
私は何気なく返事をするけれど、ほんの一瞬だけ心臓が跳ねた。
昨日までは何とも思わなかったのに、今朝は違う。
名前を呼ばれることが、こんなにも意識してしまうことだったなんて。
──落ち着け、私!
なんでもないふりをしてカウンターに向かう。
すると、ルシアスがコーヒーを淹れながら、ちらりとこちらを見た。
「珍しいな、お前が朝からここにいるとは」
「べ、別に珍しくないわよ!」
つい、声が裏返る。
ルシアスは眉を少し上げてから、すぐに口角をわずかに上げる。
「そうか。なら、今日もゆっくりしていけ」
そんな風に気軽に言われると、なんだか居心地が悪い。
昨日までは普通だったのに、今は違う。
だって、今までただの”魔王”だと思っていたルシアスが、今はカフェの見習いとして働いている。
なんでもそつなくこなすのに、時々妙に不器用で、客と話す時にはどこかぎこちなさが残っている。
それなのに、私には随分と自然に話しかけてくるようになった。
「セレス、ちょっと」
カウンターの向こうからルシアスが手招きする。
「な、何?」
「コーヒーの香りを比べてみろ。こっちと、こっち。どっちが強い?」
私は何気なくカウンターに寄り、目の前に置かれた二つのカップを覗き込む。
すぅっ、と息を吸い込んでみる。
「あー、こっちのほうが濃い……かも?」
「だろうな。豆の挽き方を変えたんだ」
ルシアスが少し満足げに頷く。
でも、私はそんなことより、別のことが気になっていた。
──近い。
ルシアスの顔が、すぐ近くにある。
カウンター越しだからそんなに意識しなくてもいいはずなのに、何故か妙に気になる。
彼の銀色の髪、鋭くもどこか落ち着いた瞳。
魔王として戦っていた頃は、ただの恐ろしい敵だったのに……。
「……どうした?」
「べ、別に……。」
私は慌てて顔を背ける。
ルシアスは不思議そうに私を見つめたあと、何も言わずにまた作業に戻った。
おかしい。私、なんでこんなに動揺してるの?
「セレス、今日もここで過ごすのか?」
今度は店主が私に声をかけてくる。
「え? うん、まぁ……」
「それなら、試しにカウンターの中に入ってみるか?」
「えっ?」
店主の突然の提案に、私は思わず固まる。
「ルシアスが働いてるのを見てたんだろ? ちょっと体験してみるのも悪くない」
「え、えーっと……」
ルシアスがちらっと私を見て、口元にわずかな笑みを浮かべた。
「初心者には皿洗いからだな」
「ちょ、ちょっと!? 私はまだ働くなんて──」
「なら、座ってるだけか?」
ルシアスの何気ない一言に、私は言葉を詰まらせる。
座っているだけ──今の私は、本当にそれでいいの?
私は、何かを探しているはずなのに。
「……分かった、ちょっとだけ、ね」
私は意を決して立ち上がり、エプロンを手に取った。
すると、店主が微笑む。
「似合ってるぞ、セレス」
「っ!!!」
私は顔を真っ赤にしながら、慌ててカウンターの奥へと入った。
「お前、随分と素直になったな」
ルシアスの何気ない言葉に、私はまた真っ赤になった。
「い、今だけだから!!」
店主は微笑みながら、静かに呟く。
「セレスが変わっていくのは、見てて面白いな」
──恥ずかしくて逃げ出したい……




