第五十六章:勇者と呼ばれる私
ルシアスがカフェで働くようになって、しばらくの時間が経った。
最初は興味本位で動いていた彼も、今ではすっかり店に馴染んでいる。
“店主”と呼ばれ始めた管理者と共に客の対応をし、コーヒーを淹れ、時には会話まで交わしている。
最初にこの店に来た頃、ルシアスはただそこにいるだけだった。
けれど、今は違う。
彼はこの場所に”居場所”を作り始めていた。
そして、それを見ている私は――どうしようもなくもやもやしていた。
変わっていく魔王、変わらない私
カフェの片隅で私は本を読んでいた。
いや、本当は読めていなかった。
視線はページの上を滑るが、内容はまったく頭に入らない。
視線の端ではルシアスが客と話しているのが見える。
「お前、最近表情が柔らかくなったな」
常連の客が笑いながら言った。
「……そんなことはない」
ルシアスは不機嫌そうに眉をひそめるが、相手は気にしない。
「いや、前はもっと鋭かったぞ。今のお前は、普通に”ここにいる”って感じだ」
ルシアスは返答せず、コーヒーを差し出す。
相手は笑いながら受け取り軽く手を振って席に戻った。
――ここにいる。
私はその言葉がなぜか強く引っかかった。
“ここにいる”とは、どういうことだろう?
私はずっと”勇者”だった。
“魔王を倒すために生まれた者”
“戦い続ける運命を背負った者”
“この世界を救う者”
私はそれ以外の何者でもなかった。
だが、今。
魔王は”魔王でない生き方”を始めた。
管理者は”管理者でない生き方”を選んだ。
でも、私は?
私はまだ”勇者”のまま、何も変わっていない。
私の名前は?
「勇者」
私は、その言葉が呼ばれるたびに、少しだけ違和感を覚えるようになっていた。
店主も、ルシアスも、誰もが私を”勇者”と呼ぶ。
それは私がそういう存在だから。
でも――私はそれ以外の何者かになれるのだろうか?
「……私の名前、知ってる?」
ふと、私は呟いていた。
カウンターの奥でコーヒーを淹れていた店主が手を止める。
ルシアスも、私の言葉に目を向けた。
「名前?」
「うん。“勇者”じゃなくて、私の”名前”」
店主が静かに考え込む。
「……確かに、お前の名前をちゃんと呼んだことはなかったな」
ルシアスも腕を組み、私をじっと見つめる。
「勇者としてお前を見てきたからな。だが、お前自身がどう生きるかはまた別の話か」
私は少し戸惑いながらも頷いた。
「私、“勇者”じゃなくて……普通に、名前で呼ばれたい気がする」
店主が小さく微笑む。
「なら、教えてくれ」
私は少し迷った後、口を開いた。
「……セレス」
「セレス、か」
ルシアスがゆっくりとその名を繰り返す。
店主もそれを口にした。
「いい名前だな」
私は少しだけ肩の力を抜いた。
“勇者”ではなく、“セレス”と呼ばれることが、こんなにも違うものなのかと思いながら。
「セレス」
店主がもう一度、その名を呼ぶ。
「ここにいていい。何かを見つけるまで焦らなくていいんだ」
私は小さく息をついて、カフェの静かな空気を感じた。
今はまだ答えが出ない。
でも、少しだけ前に進めた気がした。




