第百十一章:スパイ
王都の夜、レイヴンはヴァルムトの使者セドリック卿の滞在する屋敷へ向かっていた。
この屋敷は表向きは外交使節の宿舎として運営されているが、実際には王都の貴族を取り込むための拠点となっている。
セドリック卿はヴァルムト王直属の使者であり、王都の商業支配計画を統括する人物だ。
カイゼルはその実行役に過ぎず、全ての命令はセドリック卿から下されていた。
「……あの男に信用させるには慎重に言葉を選ばなければならない。」
レイヴンは屋敷の前に立ち深く息を吸った。
屋敷の扉をノックすると、ヴァルムトの紋章が刻まれた装飾が施された扉がゆっくりと開く。
中から現れた屋敷の従者はレイヴンの顔を確認すると無言で中へと案内した。
「久しいな、レイヴン。」
低く響く声とともに奥の部屋から男が姿を現す。
金髪に冷たい青の瞳を持つセドリック卿。
洗練された黒の軍服を纏い、その目はまるで全てを見透かすかのような鋭さを帯びていた。
レイヴンは沈黙のまま一礼して静かに口を開く。
「……お話ししたいことがあります。」
「ほう?」
セドリック卿は手に持っていた書類を机に置き椅子に腰掛けた。
その仕草には優雅さと冷徹さが同居している。
「カイゼルがこの国から逃げました。」
「知っている。」
セドリック卿は微かに笑う。
「カイゼルはお前を置いていったようだな。見捨てられたお前は主を失った駒というわけだ。」
レイヴンは感情を押し殺し淡々と続けた。
「彼が考えていた計画は失敗に終わりました。」
「そうか。」
セドリック卿は指を組みながらレイヴンを見据える。
「お前は何をしにここへ来た?」
「このままではヴァルムト全体の計画までもが頓挫しかねません。」
レイヴンは意図的に忠誠心ではなく合理性を強調した。
セドリック卿は感情論を嫌う。彼が評価するのは実利をもたらす者だ。
「それで?」
「私にセドリック様に使える機会をいただけないでしょうか。」
「……ふむ。」
セドリック卿はしばらく沈黙しゆっくりと立ち上がった。
「お前は何を考えている?」
「カフェ・アルカディアを内部から崩すことができそうです。」
セドリック卿の目が細められる。
「ほう?」
「私はカイゼルに見捨てられた部下として、あのカフェの連中に寝返ったフリをして接触しています」
「つまり?」
「彼らの私への警戒は薄れています。罠に嵌めることができるでしょう。」
セドリック卿は微笑んだ。
「なるほど。お前が裏切り者でないならば確かに悪くない提案だ。」
彼は手を机の上に置かれた一通の書状に伸ばす。
「この書状を持ってカフェ・アルカディアへ行け。」
レイヴンはそれを受け取りながら眉をひそめた。
「これは?」
「王都のある貴族がヴァルムトと密かに取引している証拠だ。」
「……私にこれをどうしろと?」
「それをカフェ・アルカディアへ届け、彼らにお前を協力者として認めさせろ。」
レイヴンの表情がわずかに揺れた。
「つまり……」
「お前はカフェ・アルカディアに潜り込み、ヴァルムトに有利な情報を持ち帰るんだ。」
室内の空気が変わる。
「私をスパイとして送り込むということですか?」
「そうだ。」
セドリック卿は満足そうに笑う。
「お前のヴァルムトへの忠誠心を試させてもらう。」
「……」
レイヴンはしばし沈黙した。
そして、ゆっくりと頷く。
「分かりました。」
セドリック卿は微かに微笑みながらレイヴンを見つめた。
「では、お前の価値を見せてもらおう。」
***
屋敷を出たレイヴンは冷たい夜風を浴びながら書状を握りしめた。
ヴァルムトの計画を潰すためにカフェ・アルカディアと手を組むと決めたばかりの自分が今度はヴァルムトからの “スパイ”としての役割を与えられるとは皮肉な話だった。
レイヴンは夜空を見上げて一息つき、そしてカフェ・アルカディアに向かって走り出した。




