第百七章:ヴァルムト
王都の夜は深く冷たい霧が街を包み込んでいた。
カフェ・アルカディアを後にしたルシアスたちは、レイヴンの案内で“夜影の商人”の拠点へと向かっていた。
「ずいぶんと用心深いな。」
ルシアスが歩きながらレイヴンに声をかける。
「当然だ。我々の“主”は容易に会える存在ではない。」
レイヴンは淡々と答えた。
「貴様らがいくら力を持とうとそれは関係ない。我々は我々のルールで動く。」
「随分と強気だな。」
ルシアスはその言葉の裏にある“何か”を感じ取っていた。
黒魔術まで使う組織がただの闇商人に過ぎないはずがない。
「ところで、レイヴン。」
エヴァンが静かに尋ねる。
「お前の“主”は一体どんなやつなんだ?」
「……お前たち自身の目で確かめることだな。」
レイヴンは微かに笑った。
そして王都のはずれ、人の気配がほとんどない路地裏に入った。
レイヴンは静かに立ち止まると古びた建物の壁に手をかざした。
すると——影が波紋のように揺れ、異質な空間が現れる。
「……これは。」
ミリアが思わず息を呑む。
「ここだ。」
レイヴンはそう言うと自らその影の中へと消えていった。
ルシアスとエヴァンは視線を交わし足を踏み入れる。
店主とセレス、ミリアもそれに続いた。
***
次の瞬間、彼らは異質な空間へと足を踏み入れた。
天井は高く、まるで洞窟のような空間。
黒曜石のような石畳が敷かれ、壁には無数の蝋燭が揺らめいている。
その中央に——一つの大きな円卓があった。
その円卓の向こう側。そこには一人の男が座っていた。
「……ようこそ、カフェ・アルカディアの店主よ。」
低く響く声。
影が揺らめく中、その男は静かに彼らを見つめていた。
「お前が“夜影の商人”の主か。」
ルシアスが腕を組みながら言う。
「私の名はカイゼル。」
男はゆっくりと名乗った。
「私はここグランヘイム王国の西の国、ヴァルムトの商業を統べる者だ。」
カイゼル——王都の商人たちの間で聞いたことのない名前だった。
彼は王都の人間ではなくヴァルムトの商業を支配する大商人だという。
「ヴァルムト……?」
ミリアが小さく呟く。
ヴァルムトは王都と交易関係にあるがどちらかと言えば競争相手でもある。
この王都にまで手を伸ばす理由は何なのか——店主たちはその点を警戒していた。
カイゼルは薄く笑みを浮かべながら彼らを鋭く見つめた。
「貴様らは何のためにここに来た?」
ルシアスがニヤリと笑った。
「お前が商人達と結んでいる“契約”について少し詳しく聞きたくてな。」
「契約、か。」
カイゼルは脚を組みながらゆっくりと椅子にもたれかかる。
「我々の契約が気になるのか?ただの好奇心で近づいたのであれば身の程をわきまえたほうがいい。」
店内の空気が一瞬にして張り詰める。
「まあ、俺たちがここに来た理由は単純だ。」
ルシアスが飄々とした口調で言う。
「“魂の契約”ってやつに興味があってな。聞くところによると、成功と引き換えに相応の代償を払う仕組みらしいじゃないか。」
カイゼルは薄く笑みを浮かべる。
「商売というものは何かを得るためには何かを差し出さねばならない。代償のない成功などこの世に存在しない。」
「そうだろうな。ただ、その成功も仕組まれた一時的に有利な条件の取引があっただけじゃないか?」
エヴァンが冷静に頷く。
「そして契約を結んだ商人たちの中には“消えた”人もいるらしいな?」
その言葉にカイゼルは表情を変えずに脚を組んだまま続ける。
「ふむ……確かにいくつかの取引では予期せぬ“問題”が発生することもある。だがそれは契約の本質ではない。」
「単刀直入に言おう。」
店主がカイゼルをじっと見つめる。
「お前の目的は何だ?」
その問いに、カイゼルはしばし沈黙した。
そして——静かに微笑んだ。
「目的か……。」
カイゼルは笑みを保ったまま店主を見つめながら静かに言った。
「商人達が儲けるために自ら望んで契約をしたのだ。お前たちには関係のないことだ。」
エヴァンが眉をひそめる。
「商人達が有利な条件で取引をした相手はヴァルムトにある商会が多いことには気付いていた。だが、ヴァルムトの商人達が自分に不利益な取引を進んでするとは思えない。そんなことができるとしたら裏にもっと大きな力を持った誰かが関与しているんじゃないか?」
「お金の面もそうだが黒魔術の呪刻は商人だけでできることではないな。このグランヘイム王国には黒魔術を使える魔法組織はない。ヴァルムトが国として計画的に動いているんだろ?」
ルシアスは全てを察し、カイゼルに尋ねた。
***
——カイゼルの本当の目的は王都の商業を支配し、その基盤を乗っ取ることだった。
しかし、それは彼自身の野望ではなくヴァルムトの王からの命令だった。
ヴァルムト王はこのグランヘイム王国を“経済的に”侵略し、戦争をすることなく支配しようと考えていた。ヴィクトール侯爵が失脚したとはいえ、元魔王と元勇者がいる国を力で支配することは難しいからだ。そのための“先兵”としてカイゼルが送り込まれたのだ。
商人達に有利な取引を持ち掛ける代わりに彼らを支配する契約を結び、徐々に王都の商業を牛耳る狙いだった。
***
「そこまで気付いているとは……。ただのカフェの店員とは思えない推察力だな。」
カイゼルはわずかに動揺してエヴァンに向かって言った。
「元魔王のルシアスや元勇者のセレスのことばかり気にしていたようだが、うちのカフェには他にも優秀な仲間がたくさんいる。元軍の情報参謀のエヴァンもその一人だ。」
店主はカイゼルに詰め寄りながら言った。
次の瞬間——
黒いローブをまとった何者かがカイゼルの影から静かに姿を現した。
「なんだお前は?」
ルシアスが尋ねる。おそらく転移系の魔法と思われるが初めて見る種類のものだった。
「お前たちのことを侮っていたわけではないがここまでとはな。ここから先のことは私だけでは決められないから一度引かせてもらおう。」
カイゼルは微笑み、黒いローブに包まれると自身の影に沈んで消えてしまった。
——残されたレイヴンはカイゼルに見捨てられたことを悟り、手に持っている小瓶の液体を飲もうとしていた。




