第百五章:呪刻
カフェ・アルカディアの空気が重くなった。
ライナー・グレイブは握りしめた拳を小さく震わせながら、深く息を吐いた。
「……私が“夜影の商人”と契約を結んだのは事実です。」
彼の言葉に店内の静寂が深まる。
「しかし、その契約は単なる商取引ではありませんでした。」
ライナーは袖をまくり上げ腕を晒した。
そこには——黒い紋様が刻まれていた。
まるで蛇のように蠢くそれは時折かすかに発光し、肌に根付いているかのようだった。
「……っ!」
ミリアが息を呑んだ。
「これは……」
エヴァンの瞳が鋭くなる。
「“呪刻”……か。」
ルシアスが静かに言った。
「呪刻?」
店主が尋ねるとルシアスはゆっくりと頷いた。
「黒魔術の中でも“支配”に分類される術だ。これが刻まれた者は何らかの強制力に従わされる。下手に解除しようとすれば術者にその動きが察知されて最悪の場合——」
「……命を落とすんでしょうね。」
ライナーは苦笑しながら続きを言った。
「つまり、契約を結んだ瞬間お前は“夜影の商人”の支配下に入ったわけになるのか。」
セレスが低く呟く。
「はい。契約自体は確かに魅力的でした。だが、私はそこに“罠”が仕掛けられていることに気づかなかった……。」
ライナーは拳を握りしめた。
「私が契約を結んでから商売は順調でした。しかしある日、同じ契約を結んだ商人の一人が突然倒れそのまま意識を失ったのです。彼はうわ言のように言っていました——“支払いの時が来た”と。」
「……つまり、何らかの“代償”が発生する。」
エヴァンが鋭く分析する。
「おそらく。」
ライナーは頷く。
「ですが、私はまだ何の影響も受けていません。」
「それはお前がまだ“本当の意味での代償”を支払う段階に至っていないからだろう。」
ルシアスが冷静に言った。
「だが、それも時間の問題……か。」
店主は腕を組んだ。
「はい。」
ライナーは顔を曇らせた。
「……なら、急ぐ必要があるな。」
ルシアスが立ち上がり呪刻をじっと見つめる。
「お前は“夜影の商人”と直接会ったことはあるのか?」
エヴァンが尋ねる。
「いいえ。」
ライナーは首を振る。
「契約を取り仕切ったのは“レイヴン”という仲介人でした。」
「レイヴン……」
ルシアスが静かに繰り返した。
「彼は黒いローブを纏い常に顔を隠していました。言葉の端々に妙な説得力があり、私は気づけば契約を結んでいた……。」
「……そのレイヴンが契約を解除する鍵になるかもしれないな。」
エヴァンが分析する。
「ええ。しかし彼は簡単には姿を現しません。」
ライナーは苦々しく言った。
「となると——」
店主はゆっくりと口を開いた。
「レイヴンを“おびき寄せる”必要があるな。」
その言葉に全員が一斉に店主を見た。
「……そんなこと可能なの?」
ミリアが不安げに聞く。
「契約を解除したがっていると気づかれればライナーは即座に狙われるぞ。」
セレスも慎重に言った。
「確かに奴らにとって契約を解除しようとする者は邪魔者だ。」
ルシアスがゆっくりと頷く。
「だが……もしライナーが“さらに有利な契約”を望んでいると見せかけたら?」
「なるほど。」
エヴァンが理解したように頷く。
「契約を深めようとしている“有望な商人”ならレイヴンも警戒はしない。」
「でも、それって……」
ミリアが息を飲む。
「嘘をついていることがバレたら?」
「その時は、その時だ。」
ルシアスがニヤリと笑った。
「俺たちがそう簡単にやられるなんてことはありえない。そうだよな、セレス?」
「……確かに。」
セレスが苦笑した。
「では、作戦はこうだ。」
店主が静かに言った。
「ライナー、お前は“夜影の商人”とのさらなる契約を望んでいるという情報を流す。できるだけそれをさりげなく自然に王都の商人たちに広めるんだ。」
「……つまり私が“エサ”になるわけですね。」
ライナーは苦笑した。
「そういうことだ。」
エヴァンが淡々と続ける。
「だが、ただ待つのではなく俺たちも動く。契約を結んだ商人たちの動向を調べてレイヴンの行動パターンを探る。」
「もし本当にレイヴンが接触してきたら……?」
ミリアが不安げに尋ねる。
「その時は罠にかけるだけだ。」
ルシアスが楽しげに笑った。
「カフェ・アルカディアはただのカフェじゃないからな。」
ライナーはしばらく沈黙した後、ゆっくりと頷いた。
「……わかりました。」
彼の目にはもはや迷いはなかった。
「私の商会と私自身の未来のためにも——この呪われた契約を終わらせるために協力させていただきます。」
店主は静かに彼を見つめゆっくりと手を差し出した。
「よし、ならば計画を進めよう。」
ライナーがその手を握り返した瞬間——カフェ・アルカディアの仲間たちは新たな戦いの幕を開けることとなった。
“夜影の商人”の正体を暴くための策謀が今始まる——。




