第百章:名前
——夢の中、カフェ・アルカディアは眩いほどの活気に満ちていた。
煌々とした照明の下、客席はほぼ満席で商人たちが楽しげに取引を交わし貴族たちが贅沢な料理を堪能していた。香ばしい料理の香りが店内に漂いホールには楽しげな笑い声が響き渡る。
店主はカウンターの奥に立ち、いつものように穏やかな笑みを浮かべながら店の様子を見守っていた。
「なかなか繁盛してるじゃないか。」
ルシアスが隣に腰を下ろしながらワインを片手に微笑んだ。
「これもお前のおかげだよ。」
店主は軽く肩をすくめる。
「いや、それだけじゃない。」
ルシアスはグラスを傾けながら奥のホールで忙しく動く仲間たちを見やる。
「ミリアはホールを完璧に仕切っているし、エヴァンはこの店を情報の拠点として機能させ始めた。そしてエリオットの料理は……まあ、相変わらず奇跡のような効果を持っている。」
「本当にね。」
セレスがカウンターの反対側で頷いた。
「店主がこの店を開かなかったら、私たちはここに集まることもなかったわ。」
「店主!」
奥からミリアの明るい声が響いた。
「ワインの追加、お願い!」
「了解。」
店主は慣れた手つきでボトルを取りグラスに注ぐ。いつもの仕事だ。いつもの店の風景だ。なのに——。
「……おかしいな。」
ふと違和感を覚えた。
確かにこれは「カフェ・アルカディア」の日常の光景のはずだ。
だが、何かが妙に「作られたもの」のような感覚があった。
空間がどこか現実離れしている。
店の空気は確かに賑やかだがどこか「均一」すぎる。
そして——
「店主。」
エヴァンがふと声をかけてきた。
「カフェの組織図を作成しているんだが店主の名前を教えてくれないか?ルシアスやセレスに聞いても店主は店主だとしか教えてくれなくて……」
「……え?」
店主は息を呑んだ。
——そうだ。誰も今まで俺のことを名前で呼んだことがない。いや、そういえば俺はなぜか自分の名前を今まで名乗ったことすらない。そして、誰も俺の名前に関心がないのか聞かれることすらなかった。
このカフェにいる従業員や客、それだけじゃなく今まで関わった人達全てがまるでそれが「当然であるかのように」、ただ「店主」だったり「管理者」としか呼ばない。
「お前は——」
「……誰だ?」
ルシアスの声が低く響いた。
店内の光景が一瞬にしてぐらりと歪む。
周囲が滲み、闇に飲まれていく。
——そして、店主は暗闇の中に一人立っていた。
***
「……っ!!」
ガバッと飛び起きた。
「……夢、か。」
店主は荒い息を吐きながら寝台に座り込んだ。
額にはじっとりと汗が滲んでいる。
窓の外にはまだ深い夜の闇が広がっていた。
カフェの中は静かで皆が眠りについている。
店主は額を拭いながらぼんやりと夢の中の違和感を思い返した。
「誰も……俺の名前を知らない?」
当たり前のように「店主」と呼ばれることに今まで疑問を抱いたことはなかった。
しかし、改めて考えてみると——。
「……俺の名前は。」
言おうとして喉が詰まる。
まるで「口に出すことが許されない」かのように言葉が出てこなかった。
「これは……どういうことだ?」
店主はふと自分の手を見下ろした。
手のひらには夢の最後に感じた感覚がまだ残っているような気がした。
——まるで「名前を言うこと自体が禁忌」かのような奇妙な感覚。
「……いや、まさか。」
首を振って立ち上がり窓を開けた。
ひんやりとした夜風が火照った肌を冷やしてくれる。
「きっと疲れてるだけだ。」
そう自分に言い聞かせた。
だが、心の奥底で何かが囁いていた。
店主は目を閉じゆっくりと深呼吸する。
「なんで今まで気付かなかったんだ……。」
この夜を境に店主の名前を誰も知らないことへの違和感が高まり、徐々に店主自身も異常を感じ始めることになる——
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