第5話:スラムの邂逅、銀耳の少女
ヴェリシアに来て三日目。
宿と公国ギルドへの登録を済ませ、俺はようやく「街を歩く」時間を確保した。
《LIVE開始》
「おはようございます。今日はヴェリシア散策配信です」
#異世界配信 #公国観光 #スラム潜入 #撮れ高ありそう
視聴者数:489人 登録者:1,203人
「この都市、でかすぎて三日経っても全部回れてないです。
今日は商業区から外れた路地裏を歩いてみます。
いわゆるスラム地区ってやつですね。動画映えしそうなので」
配信コンテンツとして面白そう、という計算は確かにあった。
でも、もう一つ理由があった。
ゼルティアの路地で見た、銀色の耳の少女のことが、まだ頭にある。
あの時、俺は通り過ぎた。
「次は通り過ぎない」と自分に言い聞かせながら、結局もう一度会うことはなかった。
(……同じような場所に、同じような子が、いるかもしれない)
根拠のない予感だった。
でも、足はメインストリートから外れていった。
《コメント》
► 「スラム配信か……大丈夫?」
► 「気をつけてください」
► 「何かありそうな予感」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
路地に入ると、空気が変わった。
石畳は割れ、壁には黒ずんだ染みが広がっている。
干した布が頭上を覆い、光が届きにくい。
通り過ぎる人間の目が、みんな少し伏し目がちだ。
「ヴェリシアは豊かな交易都市ですが、こういう場所もあります。
どんな都市にも、光の届かない場所がある」
《コメント》
► 「リアルだな」
► 「こういうとこちゃんと映してくれるの好き」
► 「でも危なくない?」
「気配察知スキルはONにしてます。周囲の敵意は今のところ低い」
路地を進んでいくと、瓦礫の向こうに人影が見えた。
俺の足が、止まった。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
陽の光が斜めに差し込む、その下に。
ひとりの少女が、桶の前にしゃがんでいた。
銀髪。
犬耳。
小さなしっぽ。
粗末な桶に張られたぬるま湯は、すでに幾度も使われて濁っている。
その中に指先を落としながら、少女はひたすらに静かに――自分の体を洗っていた。
銀髪はまだところどころに泥が残り、毛先が水に溶けるようにほどけていく。
濡れた犬耳がぴくりと動いた。
しっぽも、動くか動かないかの微細な揺れを見せていた。
ふと、伏せがちだったまつげがかすかに震え、少女の瞳が一瞬だけこちらを向いた。
左目が紅。
右目が、氷緑。
そこには怯えと困惑、そして微かな安堵のような感情が交錯していた。
だが表情はすぐに戻り、また静かに視線を落とす。
白く洗われつつある肩、こわばった指、傷の残る足首。
そして首に巻かれた、鎖の痕。
(……また、通り過ぎるのか)
俺の足は動かなかった。
ゼルティアの路地で見た時と同じだ。
あの時は「確信がない」と言い訳して通り過ぎた。
今回は?
今回も、確信なんてない。
でも、「次は通り過ぎない」と決めたのは俺自身だ。
俺はそこに立ち続けた。
声もかけず、手も伸ばさず。
ただ、その場にいることだけが、今の俺にできる意思表示だった。
水が滴る音だけが響く中、ふたりは沈黙のまま、ひとつの時間を共有していた。
《コメント》
► 「……」
► 「配信者さん、動かないんだ」
► 「なんかわかる気がする」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
「おう、にいさん。そいつ、気に入ったのかい?」
静寂を破ったのは、低くしゃがれた男の声だった。
振り返ると、首元に赤いスカーフを巻いた中年の男が立っていた。
腰には縄と短剣、背中には名簿らしき帳面。
目が細く、値踏みするような視線がこちらを舐めた。
「……D礼商人か」
口をついて出た言葉に、路地の空気が微かに変わった。
路地の奥にいた老婆が視線を伏せ、手元の洗濯に戻る。
通りを歩いていた若者たちが声を潜め、遠巻きに通り過ぎる。
誰もが知っていて、誰もが関わらないふりをする。
それが、この都市の不文律だ。
「ご名答。今日だけ特別価格でご奉仕中だ。どうだい、そいつ。
動きは鈍いが、まだ若い。耳も尾もついてるし、見た目は悪くない。
愛玩でも労働でも……」
「値段は」
俺の声は、意識より先に口から出ていた。
男が目を細めた。
「見る目あるな。人族じゃないが……金貨八枚でどうだ。書類つき、保証なし、返品不可だがな」
俺は財布を確認した。
金貨九枚と銀貨数枚。
ヴェリシアに来てからの護衛報酬と、配信の投げ銭換算分だ。
残高はギリギリになるが、宿代の一週間分は残る。
(本当にいいのか)
自問した。
知らない子だ。
この国の法律が何かも知らない。
買った後どうするかも、まだ何も決まっていない。
でも。
(次は通り過ぎない、と決めた)
「……買う」
自分でも驚くくらい、落ち着いた声が出た。
「その子を、俺にくれ」
《コメント》
► 「えっ」
► 「買うの!?」
► 「……いや、でも」
► 「その選択肢しかないよな」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
男は「さすが異国のあんちゃん、決断が早い」と笑いながら帳面を開いた。
紙と印章、形式的なやりとりが済んで、金貨八枚が男の手に渡る。
少女の首の拘束具が外された。
カチャリ、と小さな音がした。
その瞬間、少女の犬耳がかすかに震えた。
指先がほんのわずかに動いた。
自由の感触を確かめるように。
微かに開かれた瞳の奥に、わずかな光が差し込んでいた。
陽光が濁った水面にきらめく一瞬のような、かすかで壊れやすい輝き。
疑念と希望が、揺れながら同居していた。
俺は少女の前に、ゆっくりとしゃがんだ。
目線を合わせるために。
「俺は神酒秀直。冒険者で、配信者だ」
少女は答えなかった。
俯いたまま、身を固くしている。
「一つだけ言っておく。俺はお前に何かを強制するつもりはない。嫌だったら逃げていい」
沈黙。
「ただ、行くところがないなら、しばらく一緒に来い。それだけだ」
長い間があった。
やがて少女の耳が、ほんの少しだけ、上を向いた。
《コメント》
► 「耳が動いた……」
► 「良かった」
► 「泣いてる(俺が)」
► 「登録者数:1,441人↑」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
その夜、宿に戻ってから配信を終了した。
少女はまだ何も喋らない。
ただ、俺の少し後ろをついて歩いていた。
鎖の痕が残る手首。
まだ少し濁ったままの、銀色の髪。
宿の部屋に入ると、少女は壁際に立ったまま動かなかった。
ベッドを示しても、首を振る。
俺は床に毛布を敷いた。
「そっちで寝る。お前がベッドを使え」
また、首を振る。
「……じゃあ、好きにしろ」
結局、少女は壁際で膝を抱えて夜を明かした。
俺はベッドに横になりながら、今日一日を振り返った。
金貨八枚、今の手持ちのほぼ全部。
それで何を買ったのか、まだよくわかっていない。
でも、通り過ぎなかったことだけは、正解だと思っている。
《配信終了》
本日の視聴者ピーク:2,108人
登録者数:1,441人(+238↑)
「おやすみなさい」
配信を切った。
部屋の窓から、ヴェリシアの夜景が見える。
無数の灯りが、黒い街の輪郭を浮かび上がらせていた。
壁際から、小さな寝息が聞こえてきた。
――「次は通り過ぎない」という約束を、誰にも言わずに守った男を、どこかで何かが見ていた。
少しでも続きが気になったら、ブックマーク・評価・いいねで応援していただけると励みになります。




