第45話 法王の声、第三の試練
翌朝。
エリナが迎えに来た。
「法王猊下が、お会いになると言っております」
女神像の広場を横切り、その奥にある小さな聖堂へ案内された。
聖堂は外から見るより大きかった。
天井が高く、石の柱が並んでいる。
祭壇の前に、一人の女性が跪いていた。
法王だった。
三十代前半だろう。
栗色の髪が肩まで垂れていて、白い法衣を着ている。
顔は美しいが、憔悴の影が濃い。
三週間、像の傍を離れられなかった女性の顔だ。
気配で俺たちが入ってきたことに気づいたのだろう、立ち上がって振り向いた。
目が合った。
「……来てくれましたね」
声は思ったより穏やかだった。
「神酒秀直です」
「知っています。ずっと配信を見ていました」
「……ここでも見られていたか」
「鎖国していても、情報は入ってきます。あなたの配信は、示教国内の一部の者も見ていました。私もその一人です」
「第三の試練です」と法王が言った。
「どんな試練だ」
「問います。あなたが今まで記録してきたものを、今ここで全て話してください。連邦から、今日までの全て」
「……全部か」
「全部です。配信で話したこと、話さなかったこと、感じたこと、迷ったこと。全部を」
俺は少し考えた。
「時間がかかる」
「構いません。ここには時間があります」
俺は話し始めた。
一時間以上、話した。
連邦でソフィアと出会ったこと。
通り過ぎようとして、通り過ぎなかったこと。
シャルロッタを石段から拾ったこと。
共和国でダリウスに会ったこと。
「記録する」という言葉を口にしたとき、それが本当に自分の仕事だと気づいたこと。
帝国でグレゴールの十二年分の記録を見たこと。
クリスティーナが打算で来て、打算じゃない部分で残ったこと。
皇国で老婆の歌を聞いたこと。
広場で三十年分の声が出た瞬間のこと。
そして公国の評議員に「視聴者が証人だ」と言ったこと。
法王は黙って聞いていた。
途中で何度か目が潤んでいたが、何も言わなかった。
話し終えた。
「……以上です」
法王が息をついた。
「一つだけ聞かせてください。あなたは、なぜ記録し続けたのですか。危険を冒してまで」
「好きなことで生きていくためです」
「記録することが、好きなことですか」
「記録することが、俺を誰かと繋げてくれます。見てくれる人がいる。その人たちと繋がっていると、一人じゃない気がします。それが好きで続けてきました」
法王が、長い沈黙の後に言った。
「……第三の試練、合格です」
《コメント:全部話せた》
《コメント:「一人じゃない」が答えだったのか》
《コメント:泣いてる》
「次の試練はいつですか」
「明日です。今日はゆっくり休んでください。……あなたと話せて良かった。三週間、この場所で一人でいましたから」
「法王も一人じゃなかったですか」とソフィアが言った。
法王が、初めて微笑んだ。
「……そうね。あなたたちが来てくれた」
しばらくの間、聖堂に静かな空気が流れた。
ティアナが「法王様……歌は好きですか?」と聞いた。
法王が少し驚いた顔をした。
「……好きです。なぜですか」
「うち、皇国で聞いた歌が頭から離れなくて。三十年間禁止されていた歌で。ここでも歌っていいですか、小さく」
「……もちろん」
ティアナが、静かに歌い始めた。
言葉は皇国のものだが、旋律は示教国の聖堂の天井に溶けていく。
法王の目が、少し潤んだ。
「……この旋律、知っています」とエリナが小声で言った。「示教国の古い子守唄と、同じ流れです」
「本当に、歌は国境を越えるんですね」とクリスティーナが言った。
「……そうですね」と法王が答えた。「あなたたちが来るまで、私はそんなことを考える余裕もありませんでした」
歌が終わった。
聖堂が、少し明るくなった気がした。
女神像の光だ。
窓の向こうで、脈動が少し強くなっている。
「……像が、喜んでいるみたいです」とソフィアが言った。
法王が窓を見た。
「……そうかもしれません」
宿坊に戻る途中、法王が俺を呼び止めた。
「一つだけ、個人的なことを聞いていいですか」
「どうぞ」
「……孤独が怖いと思ったことはありますか」
俺は少し考えた。
「ある。転生したとき、最初は一人だった。言葉も分からない、知り合いもいない。あのときが一番怖かった」
「でも今は?」
「今は三万人が見てくれている。仲間が五人いる。怖くなくなった、というより……一人だと感じる時間が減った」
法王がゆっくりとうなずいた。
「……私は三週間、一人でここにいました。怖かった。でも今日、あなたの話を聞いて……孤独ではなかった部分もあったかもしれないと、思いました」
「どういう意味だ」
「あなたの配信を見ていましたから。共和国から、帝国から、皇国から。遠くの声が、ここまで届いていた。……私は一人でしたが、遠くに声がいた」
俺は何も言わなかった。
でも、その言葉は、胸に刻まれた。
記録は届く。
声は届く。
たとえ鎖国している国の法王にも。
「……明日の試練、覚悟しておきます」
法王が微笑んだ。
「怖がっていい。怖さを知っている人が、この先に行けます」
──その夜。
遠い場所で、何かがこの会話を静かに聞いていた。
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