第36話 夜の記録者たち
男の名前は、聞かなかった。
聞けば、向こうが危険になる。
それが、この夜の暗黙のルールだった。
路地の奥、火鉢を囲んで六人と四人が向き合った。
老婆が仲介するように真ん中に座り、男と女と少年が、それぞれ少しずつ話し始めた。
俺は配信ウィンドウを開いた。
映像は路地の石畳と火鉢だけ。顔は映さない。声も少し変調をかける設定にした。
「……皇国では、三十年前から『発言統制令』が出ている」
男の声は落ち着いていた。
「公の場での体制批判は即拘束。私的な会話であっても、密告があれば調査対象になる。だから民は話さない。話せない」
「密告が横行しているのか」
「密告者には報奨が出る。隣人を売れば、食料の配給が増える。だから……誰も信用できない。家族でさえ、完全には」
《コメント:そんな国が……》
《コメント:隣人を売る国》
《コメント:聞いてるだけで息が詰まる》
女が続けた。
声は若い。二十代後半か、三十歳前後だろう。
「私は、記録をしています。発言統制令が出てから何人が拘束されたか。どんな理由で。その後どうなったか」
「どこに記録している」
女は少し迷ってから、足元の床板に手をかけた。
「……少しだけなら」
床板が外された。
その下に、薄い石版が何枚も重ねられていた。
日付。名前。拘束理由。戻ってきた者。戻らなかった者。
文字は小さかった。
でも、浅くはなかった。
消されないように、深く、細く、何度も削って刻まれていた。
「紙は燃やされます。声は消されます。でも、石なら少しだけ長く残る」
俺は何も言えなかった。
記録する者は、俺だけじゃなかった。
この国には、俺が来る前から、ずっと声を残そうとしていた人がいた。
俺の配信は、その声を外へ運ぶための道でしかない。
「……何年分ある」
「十五年分。私が始めたのは十五歳のときです。今は三十歳です」
十五歳から。
《コメント:……》
《コメント:十五年》
《コメント:俺も何かしなければいけない気がしてきた》
少年が、ずっと黙っていた。
俺は無理に話させなかった。
しばらく待った。
少年がようやく口を開いたのは、女が石版を戻した後だった。
「……父が、去年、拘束されました」
小さい声だった。
「理由は、市場で商人と話していたときに、食料の値段が高いと言ったからです。それを誰かが聞いていた」
「……今は」
「まだ、戻っていません」
少年の声は震えていなかった。
震えを、もう使い果たしたのかもしれない。
「……あなたの配信を見ました。共和国で、市民の声を外に出していた。だから……父のことも、外に出してほしいです」
「名前は出せない」
「分かっています。でも、こういうことが起きているということだけでも」
俺はうなずいた。
「届ける」
少年が、やっと顔を上げた。
火鉢の赤い光が、その目に映っていた。
《コメント:子どもが……》
《コメント:父親がいなくなった》
《コメント:秀直、頼む》
《スパチャ:15,000G この子の声を届けてください》
視聴者数が静かに増え続けていた。
《視聴者数:18,403人》
話が終わったのは、深夜だった。
男、女、少年の三人は、来たときと同じように音もなく消えた。
老婆だけが残って、また小さく火鉢の炭をつついた。
「……外に届くか」と老婆が聞いた。
「届ける」
「信じるよ。あんたの目が、ちゃんと見ている目をしているから」
「どんな目だ」
「逃げない目だ」
老婆はそれだけ言って、また歌い始めた。
さっきより少し大きく、それでも路地の外には漏れない音量で。
ソフィアが俺の隣で、耳をそっと伏せながら聴いていた。
ティアナが、目を閉じて旋律を覚えようとしている。
クリスティーナが、折れ耳を立てて、じっと前を向いていた。
ミリアムが小声で言った。
「……処女だもん、って関係ないですが……なんか、大事なものを見た気がします」
「何が大事だと思った」
「……声を持ち続けること、です。もん」
シャルロッタが静かに頷いた。
「……そうですわね」
珍しく、反論しなかった。
宿に戻って、配信を締めた。
《LIVE終了:#異世界配信 #皇国 #夜の記録者》
《視聴者数ピーク:18,403人》
《登録者数:22,100人》
布団に横になりながら、天井を見た。
十五年間、石版に刻み続けた女。
父を失った少年。
三十年、夜中にだけ歌い続けた老婆。
記録する者は、どこにでもいた。
俺が来る前から、すでにいた。
「……俺は、記録を届けるだけでいい」
それが今夜分かったことだった。
──遠い場所で、何かがこの気づきを静かに見ていた。
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