第35話 凍土に燃える、小さな声
壁の向こうの声は、歌だった。
宿の外、路地の奥。
声は小さく、途切れ途切れで、まるで息を潜めながら歌っているようだった。
それでも確かに、旋律があった。
俺は外套を羽織って、一人で外に出た。
路地は暗い。街灯の数が少ない。
石畳が霜で白くなっていて、足音が立ちやすい。
できるだけ音を立てないように歩く。
声は、路地の突き当たりから聞こえていた。
老婆だった。
石段に腰を下ろして、小さな火鉢を抱えている。
白髪を頭の後ろで束ねて、分厚い外套に包まれている。
目は閉じていて、口だけが小さく動いている。
歌は、方言が混じっていた。
意味は完全には分からないが、旋律は分かる。
子守唄のような、穏やかな流れの歌だ。
俺は近くの石に腰を下ろした。
老婆が目を開けた。
驚いた様子はなかった。
「……外の人間か」
「そうだ」
「邪魔しに来たか」
「歌を聴きに来た」
老婆は少しの間俺を見てから、また目を閉じた。
歌が再開した。
《視聴者数:9,203人》
《コメント:シーン》
《コメント:なんか泣けてきた》
《コメント:この人、誰?》
俺はカメラを老婆の顔には向けなかった。
ただ、路地の光景を映した。霜の石畳、小さな火鉢、白い息。
歌が終わった。
「……今のは何という歌だ」
「昔の歌だ。今は禁止されている」
「なぜ」
「先代の皇帝を称える歌だから。今の君主には都合が悪い」
老婆は火鉢の炭を細い棒でつついた。
「外の人間には分からんだろうが、この国では昔から歌われてきた歌というものがある。畑で、家で、市場で。みんなが歌っていた。それが今は……禁止だ」
「いつから」
「三十年前から。今の君主が即位してすぐだ」
三十年。
「……三十年、歌えなかったのか」
「昼間はな。夜中に一人で歌うくらいは、見逃してもらっている」
老婆が空を見上げた。
皇国の夜空は、星が鋭い。冷たく、遠い。
「あんた、配信とやらをするんだろう。さっきから何かを映してるみたいだが」
「……映している。でも、あなたの顔は映していない」
「歌は映してもいい。声は録れているか」
「録れている」
老婆が少し笑った。
「ならいい。この歌が外に出るなら……三十年分の値打ちがある」
《コメント:……》
《コメント:三十年》
《コメント:声を禁じた国》
《コメント:この人の歌、ずっと聴いていたい》
《スパチャ:8,000G ありがとう、秀直》
視聴者数が静かに増えていった。
派手な演出も、ドラマチックな展開もない。
ただ、老婆の歌と、凍土の夜と、細い煙が上がる火鉢だけがある。
それだけで、何かが伝わっていた。
《視聴者数:14,302人》
老婆が再び俺を見た。
「あんた、何をしに来た。この国に」
「記録しに来た」
「何を記録する」
「人が生きていることを」
老婆が少し考えた。
「……帝国の配信者が来たという噂は聞いていた。連邦から共和国、帝国を回ってきたとも」
「噂が届いているのか」
「この国に入る商人が教えてくれた。情報管理は厳しいが、商人の口まで止めることはできん」
「……そうか」
「あんたの配信を見た者がいる。皇国内でも。許可なく見ることは禁止されているが……こっそりと見ている者がいる」
俺はそれを聞いて、少し黙った。
「……見えていないと思っていた」
「見えている。あんたが共和国でナローアの話を配信したとき、この街でそれを見て泣いた者がいた。自分たちのことのように」
《コメント:皇国の民も見てたのか》
《コメント:届いてたんだ》
《コメント:秀直、知らなかっただけで届いてた》
「……知らなかった」
「届いていた。ただ、声を返せなかっただけだ」
老婆がまた空を見上げた。
「あんたがここに来たことを、知っている者がいる。会いたいと言っている者も。ただ、昼間は会えない。夜中しか動けない者たちだ」
「……案内してもらえるか」
「その気があるなら、明晩。この場所で待て」
宿に戻ると、全員が起きて待っていた。
「どうでしたか」とクリスティーナが聞いた。
「火種があった」
「……やっぱり」
「明晩、人に会う。お前たちも来い」
ソフィアが「歌、聴こえてましたよ。部屋まで」と言った。
「どう聞こえた」
「……かなしい歌でしたが、きれいでした。消えなかった歌、みたいな感じがしました」
ティアナが「うち、あの歌知ってる気がする」と言った。
「なぜ」
「孤児院で、先生がよく歌ってたのと……旋律が似てる。違う言葉で、でも同じ流れの歌」
「どこで覚えた歌なんだろうな」
「分かりません。でも……歌って、国境を越えるんですね」
ミリアムが「そうですね……もん」と小さく言った。
シャルロッタが「詩文と音楽の伝播については魔導学院でも研究されていますわ。ただ、こういう形で実感するとは……」と言いかけて、言葉を止めた。
「どうした」
「……少し、感動しました。はしたないですが」
「感動するのははしたくない」
「む……そうですわね」
《コメント:シャルロッタちゃん素直》
《コメント:皇国アーク良くなりそう》
翌日の昼間は、街の表層を配信した。
市場、広場、城壁の外縁。
昨夜見たものと、昼間の光景の差を記録した。
昼間の皇国は、表向きは機能している。
食料が売られ、人が動き、兵が巡回する。
でも声がない。目線が下を向いている。
「皇国は機能しています。でも、何かが違う」
配信しながら言った。
「昨夜、禁止されている歌を夜中に一人で歌っていた老婆に会いました。三十年、昼間には歌えなかった。でも歌い続けていた」
《コメント:昨夜の話か》
《コメント:老婆さん、今日も元気かな》
「この国の民が声を出せないのは、声がないからじゃない。声を出す場所がないからだ。昨夜、それを教えてもらいました」
《コメント:皇帝は何を考えてるんだろう》
《コメント:早く変わってほしい》
《コメント:秀直、貫いてくれ》
「貫く、か」
俺は呟いた。
帝国の皇帝が「閉じているものには内側の圧力がある」と言っていた。
老婆の歌が、それだ。
夜中の路地の声が、それだ。
三十年分の圧力が、この国の内側に溜まっている。
「……探す。もっと深くまで」
夜。
また路地の突き当たりへ向かった。
今度は六人で。
老婆が待っていた。
隣に、三人の人影があった。
四十代の男、二十代の女、そして十代の少年。
全員が厚い外套で顔を隠していた。
「……来たか」と老婆が言った。
「来た」
「紹介しよう。この国で、細々と記録を続けている者たちだ」
男が口を開いた。
「……あなたの配信を、見ていました」
静かな声だった。
「共和国でのナローアの話。帝国での亜人問題。……この国でも、同じことがある。もっとひどい形で」
「話してくれるか」
「話せます。ただし、顔も名前も出せない」
「条件は同じだ。お前たちが話す内容を、俺が判断して配信に乗せる。顔も名前も出さない」
男は少しの間、仲間と目を合わせた。
それから俺を見た。
「……信じます」
《コメント:ついに内部の声が》
《コメント:皇国アーク本番だ》
《コメント:頼む秀直》
ソフィアの耳が、真剣にぴたりと止まった。
クリスティーナの折れ耳が、しっかりと立った。
ミリアムが赤縁メガネの奥で、目を細めた。
路地の奥で、小さな火鉢の炎が揺れていた。
凍土の夜に、声が集まり始めた。
──その声を、遠い場所の何かが静かに聞き届けた。
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