第34話 凍土の門、声なき国
北へ向かうほど、空気が変わった。
帝国の山岳を越え、街道が北方へ伸びるにつれて、木々が減り、草が薄くなり、風が鋭くなる。
五日間の旅の末、ゴードゥ皇国の国境が見えてきた。
「……寒い」
クリスティーナが外套を両腕で抱えて言った。
「言ったぞ、寒いと」
「言われてましたけど、想像の三倍寒いです……! 猫耳が痛い……!」
「猫耳が痛いのか」
「寒いと痛むんです……!」
ソフィアが「犬耳は大丈夫です! むしろ気持ちいいです!」と耳をぴこぴこさせた。
クリスティーナが「羨ましい……!」と縮こまった。
「シャルロッタ、防寒魔法は」
「準備できていますわ。全員分の持続型結界です。ただし、魔力消費が大きいので、戦闘時は切れる可能性がありますわ」
「了解だ」
ミリアムが首元にスカーフを巻き直しながら「皇国、怖い感じがします……もん」と言った。
ティアナが「うちも怖い。でも、お兄ちゃんがいるから大丈夫!」と秀直の腕にしがみついた。
「離れろ、歩けない」
「えー」
皇国の国境検問は、帝国とは比較にならなかった。
衛兵の数が多い。
全員が重武装で、表情がない。
会話を交わす様子もなく、ただ機械的に仕事をこなす。
「目的」
「冒険者として入国する。義勇試練への参加を希望している」
「所持品検査」
荷物を全て開けさせられた。
書類、食料、武器、魔法道具。一つ一つ確認される。
「……配信機材は」
俺の視界に広がっている配信ウィンドウのことだ。スキルなので形はないが、衛兵には分からない。
「俺のスキルだ。物理的な機材はない」
「……スキルの内容は」
「記録と配信だ。情報管理局への届出を希望する」
衛兵が上官らしき男を呼んだ。
話し合いが続いた。
《コメント:帝国より厳しい》
《コメント:通れるのかな》
《コメント:秀直、緊張してる?》
「……義勇兵登録証と、他国の勲章を提示しろ」
翠光章、義勇の証、烈光の証。三枚を並べた。
上官が目を細めた。
「……連邦、共和国、帝国。三カ国を回ってきたか」
「そうだ」
「目的は何だ」
「五大国を回ること。それだけだ」
長い沈黙。
「……配信活動は、皇国の情報管理規定に従え。国家の安全に関わる情報の発信は禁止する。違反すれば即座に拘束する」
「了解した」
「通れ」
スピィナーダは、要塞だった。
首都という概念が、他の国とは根本的に違う。
城壁が三重に重なり、その全てに武装した兵士が配置されている。
市街地は城壁の内側に収まっていて、外に広がる余地がない。
空が狭い。建物が高く密集しているせいで、真昼でも路地に陽光が届かない。
「……息が詰まりますわ」とシャルロッタが小声で言った。
「声のトーンを下げろ。全員」
皆が自然に声を落とした。
街の人間が、こちらを見ない。
目線が全て、下を向いている。
商店の主人も、通行人も、子どもさえも。
「……ご主人さまぁ」とソフィアが小声で俺の袖を引いた。
「どうした」
「みんなの耳が……痛そうです」
「耳?」
「音が、すごく小さいんです。街なのに。こんな静かな街、初めてです」
俺は改めて周囲を意識した。
確かに、音がない。
街の喧騒というものが、存在していない。
人が動いている。商売をしている。でも声が出ていない。
《コメント:怖い》
《コメント:これが独裁国家か》
《コメント:民が声を出せない国》
情報管理局で届出を済ませた。
対応した役人は事務的だったが、配信活動の制限について長々と説明した。要約すると「政府を批判する内容は全て禁止。皇国の体制に疑問を呈する発言も禁止。違反した場合は即日拘束」だ。
「分かった」と俺は答えた。
《コメント:制限きつすぎる》
《コメント:これじゃ記録できないじゃないか》
でも、何も言わなかった。
今は言う場面じゃない。
宿に荷物を置いてから、一人で街を歩いた。
配信ウィンドウは開いているが、コメントを読む余裕がない。
目で街を見ることに集中する。
老人が、荷車を引いている。
重そうだ。誰も手伝わない。
老人自身も、助けを求めない。
子どもが路地の端で遊んでいる。
ただし声を出していない。無言で石を並べている。
女性が市場で食料を買っている。
売り手と買い手の間に、一言も会話がない。
「……声がない国だ」
つぶやきが、冷たい空気に溶けた。
《コメント:秀直、何を感じてる》
《コメント:この国、壊れてる》
《コメント:でも人は生きてる》
「人は生きてる。ただ、声を出す場所がない」
夕方、宿に戻ると、クリスティーナが火の前で暖を取っていた。
「……師匠、街はどうでしたか」
「声がなかった」
「……私も感じました。帝国の亜人居住区より、もっと重い」
「何が違うと思う」
クリスティーナが考えた。
「……帝国の亜人居住区には、壁画がありました。声を出せなくても、描くことはしていた。でもここは……何もない。壁が、ただの壁です」
「いい観察だ」
「さすししょ……」
「今は使っていい」
「え? いいんですか」
「いい観察をしたから」
クリスティーナが少し嬉しそうな顔をした。
「……私、成長してますか」
「してる」
「さすししょ……!!」
「二回使うな」
《コメント:クリスティーナちゃんぶれない》
《コメント:重い空気の中で笑えた》
夜、六人が集まって話した。
「皇国で何ができるか整理する」と俺が切り出した。
「配信の制限が厳しいですわ」とシャルロッタが言った。「政府批判は禁止。体制への疑問も禁止。何が記録できるんですの」
「人が生きていることは記録できる」
「……それだけで?」
「今日の街を見た。声がない。壁画もない。でも人はいる。それを映すだけで、外の人間には伝わる」
ミリアムが「……共和国のナローアみたいに、内部から協力してくれる人はいますか……もん」とおずおずと言った。
「探す。帝国の皇帝が言っていた。閉じているものには内側の圧力がある、と」
「……火種がある、ってことですか」
「ある。必ず」
ソフィアが耳をひくひくさせた。
「……ご主人さまぁ、さっきから、なんか聞こえます。壁の向こうから」
「何が聞こえる」
「……歌、みたいなもの。でも、とても小さい」
全員が静まった。
壁の向こう。
隣の部屋か、外の路地か。
確かに、かすかに何かが聞こえる。
「……声だ」
俺は立ち上がった。
──どこか遠い場所で、何かがこの夜の声を聞き届けた。
少しでも続きが気になったら、ブックマーク・評価・いいねで応援していただけると励みになります。




