第28話 学者の地下室と、照らされた数字
グレゴール=ファルスの家は、リューゲンベルグの旧市街にあった。
表通りから外れた細い路地の奥。
石造りの二階建て、窓には重い木製の鎧戸。
表札も看板もない。外から見れば、ただの古い民家だ。
クリスティーナが扉を叩くと、しばらくして中から声がした。
「……クリスか。一人か?」
「違います。お客様を連れてきました」
「……何人だ」
「六人です」
長い沈黙。
「……多い」
「師匠、大丈夫ですから!」
グレゴール=ファルスは、六十代と思われる痩せた男だった。
白髪交じりの短髪、鋭い目、着古した外套。
元外交官という経歴が信じられないくらい質素な風貌だが、目だけが違う。
観察する目だ。ダリウスと同じ種類の目をしていた。
「……神酒秀直か。噂は聞いている」
「グレゴール先生。ダリウスからの紹介状を預かってきた」
紙を渡すと、彼は眼鏡をかけて丁寧に読んだ。
それから小さく溜め息をついた。
「あの頑固者が……」
「頑固なおじさんって言いましたよ、クリスティーナも」
「に、にゃっ!? 言ってません!」
「言ってた」
「師匠の前では言ってないのでカウントしないでください!」
《コメント:www》
《コメント:クリスティーナちゃんぶれないな》
グレゴールは俺たちを地下室に案内した。
石の階段を下りると、そこは壁一面が書類と資料で埋まった部屋だった。
棚に整理された束、床に積まれた統計書、壁に貼られた地図と数字。
亜人の人口分布、地域別の差別事案記録、帝国の政策変遷年表。
「……十二年分だ」とグレゴールが言った。「帝国が外交官を必要としなくなった後、俺はこれを続けてきた」
「外交官を辞めたのか」
「辞めさせられた。亜人保護の協定案を議会に提出したからだ。潰された。それだけだ」
淡々とした口調だった。
「今は在野の学者として記録を続けている。発表できる場所はほとんどない。帝国の情報管理が厳しくて、外部への発信は事実上不可能に近い」
「……だから俺の配信を使いたかったのか」
「クリスの発案だ。俺は半信半疑だったが、ダリウスが保証するなら信じる」
グレゴールが俺を見た。
「ただし、条件がある。数字は全て正確なものだ。誇張も省略もしない。お前が配信に乗せるなら、全て正確に伝えてくれ。数字は、曲げると死ぬ」
「……分かった」
「もう一つ。この場所は絶対に映すな。俺の顔も出すな。俺が排除されたら記録が止まる」
「了解した」
《コメント:この人、本物だ》
《コメント:12年……》
《コメント:秀直、この人の記録を外に出せるのか》
グレゴールが広げた資料の中に、一枚の統計表があった。
帝国内の亜人居住区の人口推移。
十年前と現在を比較した数字だ。
「復興の陰で、亜人居住区の人口が三割減っている。移住させられたのか、逃げたのか、あるいは……全てが分かっているわけじゃない。ただ、数字は確かだ」
「……帝国の復興は本物だと、街の人間が言っていた」
「本物だ。でも全員が復興しているわけじゃない。人族は復興した。亜人は、そこから取り残されている部分がある」
シャルロッタが資料を手に取って、眉をひそめた。
「これは……魔導学院の教科書には載っていない数字ですわ」
「載せないからな。帝国の公式発表とは別の数字だ」
ミリアムが隣で静かに資料を覗き込んでいる。
ソフィアは、自分の手を見ていた。
「……ソフィアみたいな子が、三割も……」
誰に言うでもない、小さな声だった。
「そういうことだ」とグレゴールが答えた。
その夜、俺は部屋で配信ウィンドウを開いた。
グレゴールの顔も場所も映さない。
でも、今日見た数字は記録できる。
「共和国では声を外に出した。帝国では、数字を照らす」
独り言のつもりだったが、配信ウィンドウが開いていた。
《視聴者数:7,844人》
《コメント:今日の配信見てた》
《コメント:帝国、深そう》
《コメント:秀直、大丈夫か?》
「大丈夫だ。記録するって決めてる」
《コメント:頼む》
《コメント:外から見てる俺たちに教えてくれ》
翌朝。
クリスティーナが宿に来たのは、朝食の途中だった。
「おはようございます! 昨日の資料、追加で持ってきました!」
「朝から元気だな」
「朝が得意なんです! 猫なのに!」
「猫なのに、か」
「あ、いや、猫耳なんで……えへへ」
ソフィアが「一緒ですね! ソフィアも朝が得意です!」と手を挙げた。
クリスティーナが目を輝かせた。
「わあ、犬耳さんと猫耳さんが並んでる……! かわいい……!」
「ありがとうございます!」
「いや、あなたもかわいいですよ!? お互いに!」
「えへへ♪」
「えへへ♪」
ミリアムが「動物コンビだ……もん」と呟いた。
シャルロッタが「はしたないですわっ」と窘めようとして、自分も笑いかけていた。
ティアナが「うちも混ぜてよ〜」と割り込んだ。
《コメント:賑やかになった》
《コメント:クリスティーナちゃん馴染むの早い》
《コメント:帝国なのに平和》
食事が終わって、クリスティーナと俺が二人で話す時間ができた。
「昨日、師匠の資料を見てどう思いましたか」
「重いと思った」
「……それだけですか?」
「それだけじゃないが、今言葉にできることはそれだけだ」
クリスティーナが少し考えた。
「私は、ずっとこの数字の中にいたので……感覚が麻痺してる部分があるかもしれないです。でも昨日、あなたのパーティの犬耳の子が『ソフィアみたいな子が三割も』って言ったとき……改めて、数字の向こうに人がいるんだって感じました」
「……ソフィアがそう思わせたか」
「はい。だから……あなたのパーティが来てよかったと、思ってます」
折れ耳が少し動いた。照れているのかもしれない。
「打算で来たんじゃなかったのか」
「打算もありましたっ! でも今は本当のことを言ってます! 信じてください!」
「信じる」
「……本当ですか?」
「お前が嘘をつくには、顔が正直すぎる」
クリスティーナが真っ赤になった。
「にゃ……っ!! もう、意地悪言わないでください!!」
《コメント:FLAG02来た?》
《コメント:秀直の褒め方が不器用すぎる》
《コメント:でもクリスティーナちゃんは嬉しそう》
昼過ぎ、配信を回しながら亜人居住区の近くを歩いた。
クリスティーナが案内してくれた。
旧市街の端、城壁の内側でも陽当たりの悪い区画。
人の往来は少なく、建物は古く、修繕の手が入っていない。
「この区画、復興工事の対象から外れてるんです」とクリスティーナが言った。
「意図的に?」
「……確認は取れていません。でも師匠は、意図的だと見ています」
石畳の端で、老いた亜人の女性がじっとこちらを見ていた。
耳が長い。ハーフエルフだろう。
俺は立ち止まって、カメラを彼女には向けなかった。
「……映さないのか」とクリスティーナが聞いた。
「許可なく顔は映さない」
クリスティーナが少し黙ってから、「そういう人なんですね」と言った。
「共和国でもそうしてた」
「……ダリウスさんが、あなたを信頼する理由が分かりました」
《コメント:秀直、ちゃんとしてる》
《コメント:配信倫理持ってる》
《コメント:帝国アーク、深くなりそう》
夕方。
宿に戻る道で、クリスティーナが急に足を止めた。
前方に、帝国の衛兵が三人立っていた。
亜人居住区から出てきた男を取り囲んでいる。
亜人の男は、頭を下げたまま動かない。
クリスティーナの折れ耳が、ぴたりと伏せた。
「……よくある光景です」と彼女が低い声で言った。「身分証の確認という名目で。亜人は頻繁に止められる」
俺はカメラを向けた。
顔ではなく、背景として。光景として。
《視聴者数:9,203人》
《コメント:……》
《コメント:これが帝国の現実か》
《コメント:記録してくれ秀直》
しばらくして、男は解放された。
衛兵たちは何事もなかったように歩き去った。
男はしばらくその場に立ち尽くしてから、静かに歩き出した。
「……記録した」と俺は言った。
クリスティーナが、小さく頷いた。
──その夜、配信を閉じてから。
どこか遠い場所で、何かがこの光景を聞き届けた。
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