第18話 泣かないお嬢様と、孤児院の朝
夜が深くなってから、廊下に人の気配がした。
俺は部屋の窓際でログの整理をしていた。
今日の配信データを振り返りながら、明日の動画タイトルを考えていた。
ソフィアはとっくに眠っている。
毛布の下でしっぽが一度だけ動いて、また静かになった。
廊下の気配は動かなかった。
誰かが立ち止まっている。
俺は扉を静かに開けた。
シャルロッタが廊下の窓の前に立っていた。
薄紫のローブをまとったまま、手に紙を持っている。
くしゃくしゃになった、何度も読み返したらしい紙だ。
目が赤かった。
でも、泣いてはいなかった。
俺と目が合った瞬間、シャルロッタは「……み、見ていましたのっ?」と声を上げた。
「今開けた」
「……でしたら、さっさと部屋に戻りなさいっ」
「お前が廊下に立ってた」
「……わたくしの、勝手ですわ」
「そうだな」
俺は廊下に出た。
シャルロッタの隣の窓枠に背を預けた。
「……なにをしていますの」
「お前と同じ方向を見てる」
「……意味がわかりませんわ」
「夜の街を見てる」
シャルロッタが口を閉じた。
しばらく、二人とも黙った。
ヴェリシアの夜景が窓の外に広がっている。
石造りの建物の間を縫うように灯りが散って、遠くで酒場の音楽が聞こえる。
「……その紙」
「……なんですの」
「実家からか」
シャルロッタの指先が、紙をぎゅっと握った。
「……見ていたんですか」
「くしゃくしゃだから、何度も読んだのかと思っただけだ」
沈黙。
シャルロッタが窓の外に視線を戻した。
「……父が、倒れたと聞いていましたの。でも、この手紙では……完治の見込みが薄いと。それと、家の財産は、ほとんど残っていないと」
「……そうか」
「使用人は全員解雇されました。屋敷も売りに出されるかもしれないと、執事が書いていましたの」
「……そうか」
「……魔導学院の学費は、次の月には払えなくなります。退学は確定ですわ。実質はとっくに退学のようなものですけれど」
「それでもまだ在籍してたのか」
「……籍だけは残していていただいていたんです。院長先生が、わたくしのことを……」
シャルロッタが言葉を切った。
一瞬だけ、唇が震えた。
でも、すぐに真っ直ぐに結んだ。
「……とにかく、これで全部終わりですわ。名家の令嬢も、主席の肩書きも。わたくしには何も残りません」
「魔法は残る」
シャルロッタが俺を見た。
「……魔法が、なんですの」
「六属性の基礎魔法全種、上位魔法は火と氷が得意。回復補助も一通り。お前が自分で言ってた」
「……それが何だと言うんですの」
「肩書きも財産も家名も全部なくなっても、その魔法はなくならない。お前のものだ」
シャルロッタが黙った。
長い沈黙だった。
「……あなたって、ほんとうに、変な方ですわね」
「よく言われる」
「……慰めているつもりですか」
「事実を言ってる」
「……そうですか」
シャルロッタが窓の外に目を向けた。
しばらく経って、ぽつりと言った。
「……ひとりは、さみしいの……だから……そばにいて……もいいでしょ……」
声が、ほとんど聞こえないくらい小さかった。
俺は「いいぞ」と答えた。
シャルロッタがこちらを向かなかった。
でも、紙を握っていた指が、少しだけ緩んだ。
「……明日も、ついていってあげますわ」
「ありがとう」
「……感謝しなさいっ」
「してる」
「……っ」
シャルロッタが廊下の向こうに歩いていった。
背筋はまっすぐだった。
足取りだけが、少し軽かった。
俺は部屋に戻って、窓を閉めた。
ソフィアが薄目を開けた。
「……ご主人さまぁ、寒くなかったですか」
「平気だ」
「……シャルロッタさん、泣いてましたか」
「泣いてなかった」
「そうですか」
ソフィアがまた目を閉じた。
「……でも、よかったです」
「何が」
「……ひとりじゃなかったから」
しっぽが一度だけ揺れた。
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翌朝、ティアナが広場の前で待っていた。
桜色のセーターにラベンダーのプリーツスカート、カーディガン風のマントを羽織っている。
街着スタイルだが、髪には昨夜と同じ花の飾りがついていた。
「お兄さん!」
ティアナが走り寄ってきた。
「おはよう」
「おはようございますっ。……あの、今日もまた来てくれるかなって、思って」
「来ると言ったからな」
「えへへ」
ティアナが照れた顔で笑った。
それからソフィアを見て「おはようございます、耳の子さん」と言った。
「……ソフィアです、です」
「ソフィアさん! 今日もふわふわですね♪」
ソフィアの耳がぴんと立った。
「……そ、そうですか」
「触っても……」
「やさしくなら」
「わあ♪」
ティアナがソフィアの耳をそっと撫でた。
ソフィアが目を細めた。
俺は少し離れてそれを見ながら、昨夜のことを頭の隅に置いた。
(……配信に乗せる前に、一度あの子の事情を聞いた方がいいな)
「ティアナ」
「はい?」
「孤児院、今日行くか」
ティアナが目を丸くした。
「……行くつもりでしたが、なんでわかったんですか」
「昨日の帰り際に荷物を確認してたから。食料品が入ってた」
「……さすがです、お兄さん」
「一緒に行っていいか」
「……なんで行くんですか?」
「報告した昨日の配信、視聴者からスパチャが来てる。孤児院向けに使いたい」
ティアナの動きが止まった。
「……すぱちゃ、って」
「投げ銭みたいなものだ。お前の歌を聴いた人たちが送ってくれた」
ティアナがゆっくりと口を開けた。
「……ティアナの、歌を聴いた人たちが……?」
「ああ」
「……どのくらいですか」
「金貨換算で二枚と少し」
ティアナの顔が、みるみる赤くなった。
「……に、にまいっ」
「孤児院に持っていく。お前の分はお前で決めていい」
「ぜんぶ孤児院に……持っていきますっ!」
「お前の分くらいとっておけ」
「でも、ティアナのせいで皆さんが送ってくれたんだから、全部、孤児院に使いたいんです」
俺はしばらくティアナを見た。
「……わかった」
「ありがとうございますっ……」
ティアナの目が潤んでいた。
「泣くなよ」
「泣いてません……っ」
泣いていた。
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孤児院は、ヴェリシアの外れにある石造りの建物だった。
「聖月孤児院」という看板が、入口の石柱に刻まれている。
庭には子供たちが数人、まだ朝早いのに走り回っていた。
「ティアナ姉ちゃんだ!」
子供たちが一斉に駆け寄ってきた。
ティアナが「おはよう!」と言って腕を広げた。
三人四人が一度に抱きついてきて、ティアナが笑いながらよろけた。
「ちょっと、みんな重いっ!」
「ティアナ姉ちゃん、その人たちだれ?」
「お友達だよ。あのね、みんなに渡したいものがあって来たんだ」
子供たちが俺とソフィアを見た。
ソフィアの犬耳を見た瞬間、全員の目が同時に輝いた。
「耳!!」
「本物!?」
「触っていい!?」
ソフィアがものすごい速度で子供たちに囲まれた。
「……や、やさしくしてください……」
俺は院長先生に挨拶して、事情を説明した。
六十代くらいの、背の低い女性だった。
目が細くて優しく、話を聞きながら何度もゆっくり頷いた。
「……ティアナの歌を、そんなにたくさんの方が聴いてくださったんですね」
「昨夜だけで二千人近く」
「そうですか……」
院長先生がティアナの方を見た。
「あの子は、いつも自分のことは後回しで。歌でお金を稼いでは、ここに持ってきてくれるんです。私が受け取らないと言っても、聞かなくて」
「そういう子ですね」
「……あなた方が足を止めてくださって、本当によかった。あの子の歌は、もっとたくさんの人に聴いてもらうべきなんです。ずっとそう思っていたんですが、一人では限界があって」
「これからも配信に乗せていいですか。本人の許可は取ります」
「もちろんです。……どうか、よろしくお願いします」
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金貨二枚と少しを院長先生に渡した。
院長先生が「これは多すぎます」と言った。
俺は「視聴者から預かったものです。使い道はそちらで決めてください」と言った。
院長先生が深く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
庭では、ソフィアが子供たちに完全に捕まっていた。
両側から耳を引っ張られながら、ソフィアが「やさしく……やさしくしてください……」と言っていた。
ティアナが俺の隣に来た。
「……お兄さん」
「なんだ」
「ありがとうございます」
「礼は視聴者に言え」
「でも、足を止めたのはお兄さんです」
「……そうだな」
ティアナが庭を見た。
子供たちがソフィアと走り回っている。
「……ここの子たちは、みんな、わたしみたいな子です」
「孤児院育ちってことか」
「はい。ここにいれば安全だし、ご飯も食べられる。でも……たまに、孤独になるんです」
「どういうことだ」
「自分の居場所って、本当にここでいいのかなって。ここを出たら、どこに行けばいいのかなって」
ティアナが静かに言った。
「……ティアナも、ずっとそれを考えてました。歌いながら、ずっと」
「今は?」
ティアナが俺を見た。
「……今は、少しだけ、わかった気がします」
「何が」
「居場所って、場所じゃなくて、人なのかもしれないって」
俺はしばらく、その言葉を受け取った。
「……そうかもな」
「お兄さんも、そう思いますか?」
「俺は転生した時、誰もいなかった。場所も知らなかった。でも、少しずつ人が増えた。それが今は居場所になってる気がする」
ティアナが「そうですね」と言った。
それから少し考えて「……ティアナも、もっと広いところで歌ってみたいです」と言った。
「広いところ?」
「お兄さんの配信で、千人とか二千人に届いたじゃないですか。あれが、すごく……嬉しかったんです」
「もっとやるか」
「……してもいいんですか」
「許可はもらった」
ティアナの顔がぱっと明るくなった。
「……じゃあ、またお願いします!」
「条件がある」
「はい」
「歌の前に俺の配信で紹介させてくれ。名前と顔は出さない。でも、声は出す」
「声だけで……いいんですか」
「声が一番の武器だろ」
ティアナがふわっと笑った。
「……お兄ちゃんって、なんか」
「なんか?」
「……ちゃんと見てくれてますね」
「声フェチなだけかもしれない」
「え」
「冗談だ」
「……顔、まっかですよ」
「だから違う」
「えへへ♪」
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孤児院を出る頃には昼前になっていた。
ソフィアが子供たちに見送られながら歩いてきた。
耳がすこし乱れている。
「……たくさん触られました」
「お疲れ様」
「でも、楽しかったです」
ソフィアがしっぽを揺らした。
「……あの子たち、ソフィアが帰るの、すごく惜しんでくれました」
「また来るか」
「……行ってもいいですか」
「いい」
ソフィアの耳がぴんと立った。
「やったぁ♪」
ティアナが「また来てください」と手を振った。
ソフィアが「また来ます、です」と手を振り返した。
石畳を三人で歩いた。
「……お兄さん」とティアナが言った。
「なんだ」
「また夜、歌いますね」
「聴きに行く」
「……じゃあ、あのね」
ティアナが少し足を止めた。
「……ぎゅって、してくれたら……もうちょっと、うたえるかも……?」
甘え顔で上目遣いをしてきた。
ソフィアが耳をぴんと立てたまま俺を見た。
「……ご主人さまぁ」
「なんだ」
「どうするんですか」
「どうもしない」
「……え」とティアナが言った。
「帰って昼飯食べてから夜の準備する」
「……お兄ちゃんって、ほんとチョロくない……」
「チョロくなくていい」
「……ちょっとくらいチョロくていいと思います♪」
ティアナがぷっと笑った。
ソフィアが「……ご主人さまぁは鋼鉄ですね」と言った。
「褒めてるのか」
「褒めてます、です」
三人で、石畳を歩いた。
夜になれば、またティアナの歌が広場に響く。
その前に。
俺の胸の中に、もう一つのことが引っかかっていた。
(シャルロッタ、今日もついてくるな)
来るとわかっていた。
「ついていってあげますわ」と言っていたから。
あの子の「ごめんなさい」は、まだ終わっていない。
そして昨夜の、小さな声も、まだ答えてない。
――夜が来るのを、俺は少し待ち遠しいと思っていた。
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