第10話後編:牙を剥く夜
廃井戸は、廃墟の南外れにあった。
石造りの縁が崩れ、蔦に覆われている。
中は空洞になっており、廃墟の地下通路に繋がっているとソフィアが言っていた。
「……ここです。昔、逃げる時に使いました」
「一人で?」
「……はい」
それ以上は聞かなかった。
縄を使って一人ずつ降りる。
底は膝まで水が溜まっており、暗くて何も見えない。
俺は《編集強化》スキルを応用して配信の夜視フィルターを起動した。
視界が薄緑に染まり、輪郭が浮かび上がる。
「前が見えます?」とソフィアが囁いた。
「スキルで補正してる。俺が先に行く。お前は後ろから索敵を続けてくれ」
「わかりました」
地下通路を進む。
天井が低く、腰を折って歩かなければならない。
足音が水の中に吸い込まれ、どこか遠くで滴る音がする。
五十メートルほど進んだ頃、ソフィアが俺の背中を軽くたたいた。
「……上から声がします。見張り二人、廃墟の一階を歩いてます」
「タイミングは?」
「今から二十秒後に背を向けます」
俺は石の段を静かに登り、扉の前で息を殺した。
十秒。
二十秒。
ソフィアが「今」と囁いた。
━━━━━
扉を押した。
蝶番が音を立てないよう、極限までゆっくりと。
廊下に出ると、二人の見張りの背中が見えた。
互いに話しながら、こちらに気づいていない。
ソフィアが音もなく横に並んだ。
目で合図した。
俺が右、ソフィアが左。
同時に動いた。
俺は錫杖の石突きで見張りの首筋を叩く。
軽い音とともに男が崩れ落ちた。
ソフィアは双剣の柄で左側の男の側頭部を打ち、同時に口元を押さえた。
二秒で二人。
声なし。
《コメント》(配信ウィンドウ極小化・ほぼ無音モード)
► 「…」
► 「すごい」
► 「プロかよ」
「奥はどこだ」
「一番奥の建物、廊下を真っ直ぐ進んで左です。でも」
「でも?」
「魔法障壁、まだ生きてます。夜明けまであと一時間くらい」
「待つか」
「……待てます。でも、中で何かあったら」
「動けるよう準備しておく。合図したら突入する」
ソフィアが頷いた。
━━━━━
廊下の暗がりで待つ間、俺の頭の中に別の場面が流れた。
ゼルティアの路地で、銀色の耳の少女を見かけた日のこと。
あの時、俺は通り過ぎた。
次は通り過ぎない、と決めた。
ヴェリシアでソフィアを買った。
今、廃墟の暗がりでミリアムを待っている。
(選択肢を間違えてはいない、はずだ)
でも、怖い。
相手は自分より強い。
俺はまだDランクだ。
「……ご主人さまぁ」
ソフィアが囁いた。
「なんだ」
「怖い顔してます」
「怖いから怖い顔してる」
「……わたしも怖いです。でも」
「でも?」
「ご主人さまが怖い顔してるの、初めて見ました。だから、ちょっと安心しました」
「なんでだ」
「ご主人さまも人間なんだって」
俺はしばらく黙った。
「……そりゃそうだ」
ソフィアがかすかに笑った気がした。
━━━━
一方、廃墟の奥の部屋で。
ミリアムは薄暗い壁際に縛られ、膝を抱えていた。
足首に浅い切り傷。
魔法護符が封じられており、スキルが使えない。
(……また、無茶した)
仲間の前では強がっていた。
「大丈夫、あたしが先に行く」とか、「逃げんなよ」とか。
でも本当は、あの瞬間、足が震えていた。
(どうして、いつもこうなるんだろ)
頭の奥に、あの日の記憶が浮かんだ。
森の中で盗賊に囲まれた時、突然現れた声。
「どけッ」と言って飛び込んできた背中。
何も言わずに手を差し伸べてくれた先輩。
「……せんぱい」
かすれた声が、暗い部屋に吸い込まれていった。
「来てくれるかな……」
護符の破損が進んでいる。
時間はあまり残っていない。
でも、その瞳だけは、まだ諦めていなかった。
━━━━
空が白み始めた頃、ソフィアが俺の袖を引いた。
「今です。障壁、落ちました」
「何分ある」
「三分か、四分か」
「十分だ。行くぞ」
俺たちは廊下を走った。
足音は殺さなかった。
もう隠れる必要はない。
左の扉を蹴破る。
中に二人いた。
「なんだっ!」
「侵入者!」
叫び声が上がると同時に、俺は錫杖を振るった。
打音・烈波。
衝撃波が部屋に広がり、二人が壁に叩きつけられる。
「ソフィア、左!」
「はいっ」
ソフィアが滑るように前に出て、双剣で残った一人の得物を弾いた。
鋭い突きが喉元に止まる。
「動くな」
男が動きを止めた。
俺は部屋の奥に目をやった。
壁際に、縄で縛られた小柄な人影が見えた。
「ミリアム」
人影が顔を上げた。
くせ毛のショートボブ。
アンバーブラウンの瞳が、俺を見た。
「……せんぱい」
声が、震えていた。
「来たぞ」
「……来てくれたんですね」
「ああ」
「……またですね」
「まただ」
ミリアムの背中に、うっすらと光が灯った。
俺の目にだけ見える、淡い紋様だった。
《SYSTEM》
《デスティニー結合度:10%》
《運命紋章①点灯》
(……なんだ、このシステム表示)
初めて見る項目だった。
《デスティニー観測》――スキル一覧にはあったが、
発動条件も効果も「不明」とだけ書いてあった。
ミリアムの背中の紋様は、俺にしか見えていない。
10%。何が10%なのか、まだわからない。
でも、この数字は――増えていく気がした。
━━━
縄を切り、ミリアムを支えて立たせる。
足首の傷は浅い。
自力で歩けるが、魔力封じの護符効果がまだ残っている。
「仲間は?」
「一人は逃げて……ギルドに辿り着いたはず……後は、わからない」
「生き残った子は今、医務室にいる」
「……生きてるんですね」
「ああ」
ミリアムが静かに息を吐いた。
「撤退します。障壁が戻る前に出る」
「……せんぱい、なんで来たんですか」
走りながら、聞いてきた。
「知り合いが連れ去られたから」
「……知り合い、ですか」
「他に何がある」
ミリアムが何か言いかけて、やめた。
廃井戸から地下通路を戻る。
水の中を三人で進む。
外に出ると、夜明けの光が林道を照らしていた。
《コメント》
► 「助けた!!」
► 「よかった……」
► 「泣いた」
► 「登録者数:4,203人↑」
「配信、まだしてたんですか」
ミリアムが俺の横顔を見た。
「してた」
「……見てる人、いるんですか」
「今四千人くらい」
「……四千人が、見てたんですか」
「うん」
ミリアムが少し黙ってから「……恥ずかしい」と言った。
「俺もそう思ってた、最初は」
「今は?」
「今は、俺の声が届く人間が四千人いると思ってる」
ミリアムが何も言わなかった。
ただ、俺の少し後ろを歩きながら、黙ってついてきた。
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