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断罪後の悪役令嬢も、私は推している  作者: Manabit
第二章 ヴァルツェンの冬

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第9話 祈りでは煮えない粥

 ハンナの店で試作を頼んでから、三日目の朝。


 城館の厨房には、薄く焼かれた灰色の菓子が並んでいた。


 北雪の灰麦菓子。


 灰麦粉に冬葡萄酒粕を練り、少量の蜂蜜と砕いた干し豆を加えて焼いた保存菓子は、思っていたよりもずっと地味だった。


 いや、最初から地味になるとは分かっていた。


 灰麦粉。


 冬葡萄酒粕。


 少量の蜂蜜。


 砕いた干し豆。


 塩。


 材料名の時点で、王都の白くて甘い菓子とは勝負する土俵が違う。


 ハンナの店の窯で焼かれ、今朝、城館へ届けられたそれは、丸くもなければ、花の形でもなかった。薄い板状の焼き菓子を、あえて小さく割ったものだ。


 色は灰色がかった茶色。


 香りは、悪くない。


 冬葡萄酒粕の甘い香りがふわりと立つ。噛むと最初に灰麦の素朴な香ばしさが来て、後から蜂蜜の甘みがほんの少しだけ残る。干し豆の砕いたものが、思ったよりいい歯応えを出していた。


「……これ、冬葡萄酒と合わせて出せますね」


 言ってから、私は少しだけ不安になった。


 酒に詳しいわけではない。


 少なくとも、私――遠野玲奈は、酒席で気の利いたことを言えるような人間ではなかった。付き合いで飲むことはあっても、産地だの香りだの余韻だのを語れる舌は持っていない。


 けれど、冬葡萄酒はヴァルツェンの特産品だ。


 エレノア様の身体には、献上品として、取引品として、樽ごとの品質を見てきた記憶が残っている。


 甘すぎない灰麦菓子なら、酒席の端に置いても浮かない。


 たぶん、そういう判断だった。


 ハンナは腰に手を当てて笑った。


「菓子というより、つまみですね」


「王都の小劇場や酒場で売るなら、その方がいいかもしれません」


「貴族様の茶会には向きませんよ」


「そこでは勝負しません」


 白い砂糖菓子と並べたら、北雪の灰麦菓子はきっと見劣りする。


 でも、劇場帰りに少しつまむものとして。


 冬葡萄酒の横に添える、北西の珍しい保存菓子として。


 売り方を間違えなければ、たぶん戦える。


 ロイ・ベルナーは喜ぶだろう。


 少なくとも、商売の話にはなる。


 そう思っていたところへ、城館からの使いが来た。


「女伯様。聖マルタ教会より、急ぎの報告です」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が沈んだ。


 最近、急ぎの報告に良い知らせが混ざっていた試しがない。


 城館へ戻ると、ユリスがすでに書類を広げて待っていた。


 ヴァルツェン領の若手文官である彼は、最近、私の前で少しだけ声が出るようになってきた。まだ緊張はしている。けれど、数字を説明する時の目は以前より落ち着いている。


 成長している。


 などと、偉そうに思ってしまった。


 私こそ領主一年生どころか、異世界領主数日目なのに。


「聖マルタ教会の薪が、予定より早く減っています」


 ユリスはそう言った。


「理由は」


「孤児院に一時保護された子供が増えたことと、雪芋腐敗分の炊き出しを教会側で一部引き受けたためです。厨房の火を多く使っています」


「どれくらい足りないの」


「このままですと、次の定期配給まで五日分不足します」


 五日。


 たった五日。


 そう思ってはいけない。


 冬の五日は、命に関わる。


「すぐ追加しましょう」


 私は反射的に言った。


 ユリスが口を開きかけ、止まった。


 オルドが控えたまま、静かに視線を落とす。


 あ。


 まただ。


 私はすぐに出したくなる。


 足りないなら足せばいい。


 寒いなら薪を送ればいい。


 子供がいるなら、なおさら。


 でも、それができないから、みんな困っている。


「……追加する場合、どこを削ることになりますか」


 言い直すと、ユリスは少しだけほっとしたように書類を示した。


「城館予備分から出すことはできます。ただし、城館分は例年の大雪時に、避難者を受け入れるための予備でもあります」


「他は」


「山間村向けの共同薪置き場から前倒しする案があります。ですが、ガルド団長からは反対が出ると思われます」


「山間村の方が冷えるから?」


「はい。特に西寄りの村は、日照が短い上、輸送も遅れがちです」


 聖マルタ教会。


 孤児院。


 子供たち。


 山間村。


 老人。


 病人。


 どちらも寒い。


 どちらも削りたくない。


 なのに、薪は有限。


 祈っても増えない。


 私は机の上の配分表を見る。


 薪の束数。


 配給日。


 使用見込み。


 予備。


 数字は冷たい。


 でも、その冷たさの向こうに、人がいる。


「シスター・マルタは、城館に?」


「はい。控えの間でお待ちです」


「通して」


 しばらくして入ってきたのは、年配の修道女だった。


 小柄で、白髪をきっちり布で覆っている。顔には深い皺があるが、目は穏やかで強い。


 聖マルタ教会を預かる修道女。


 孤児院の管理者。


 祈りだけでは冬は越せないことを知っている人。


「女伯様」


 シスター・マルタは丁寧に礼をした。


「急な願い出、申し訳ございません」


「状況は聞きました。薪が五日分不足すると」


「はい。こちらの見込みが甘うございました」


 責められるのを覚悟した声だった。


 私は首を横に振る。


「雪芋の炊き出しを引き受けてもらった影響もあります。教会だけの責任ではありません」


 シスター・マルタは、わずかに目を見開いた。


「……女伯様が、そのように仰るとは」


 また言われた。


 でも今は気にしない。


「子供たちの状態は」


「今のところ、熱を出している子が三人。咳のある子が五人。大きな病ではありませんが、冷えれば悪くなります」


 私は唇を結んだ。


 今すぐ薪を出したい。


 城館の暖炉を全部消してでも、送りたい。


 そう思う。


 けれど、それが領地全体として正しいのかは別だ。


 私は胸の奥へ呼びかけた。


 エレノア様。


 返事はない。


 だが、身体が自然に別の書類へ手を伸ばした。


 孤児院支出記録。


 最低支出制度。


 薪、豆、薬草、麦粉。


 あった。


 エレノア様が、過去に固定した支出だ。


「ユリス。聖マルタ教会への最低支出表を」


「はい」


 ユリスがすぐに差し出した。


 そこには、月ごとの最低配分量が記されていた。


 薪。


 乾燥豆。


 灰麦粉。


 薬草。


 乳幼児数、病人数に応じた追加基準。


 私はその表を見て、胸が熱くなった。


 エレノア様は、ちゃんと見ていた。


 優しい言葉はなかったかもしれない。


 でも、制度として残していた。


「シスター・マルタ。この基準で、現在の子供の数なら追加配分の対象になりますね」


 シスターは静かに頷いた。


「はい。ただ、今回は雪芋の炊き出し分が重なっておりますので、基準外かと」


「基準を見直します」


 ユリスが顔を上げた。


「女伯様」


「炊き出しを教会に依頼した場合、その燃料は教会支出ではなく領政支出として扱うべきです」


 言いながら、私は少しずつ分かってきた。


 教会が善意で炊き出しを受ける。


 その結果、教会の薪が減る。


 それを「教会の管理不足」として扱えば、次から教会は協力しにくくなる。


 善意にただ乗りしてはいけない。


 祈りにも、人手にも、薪が必要だ。


「雪芋腐敗対応の炊き出しに使用した薪は、第三区穀倉事故対応費に振り替えます」


「事故対応費、ですか」


「ええ。腐敗分を処理するための緊急支出です。聖マルタ教会の通常配分とは分ける」


 シスター・マルタは、深く息を吐いた。


 それは安堵の息だった。


「感謝いたします、女伯様」


「ただし」


 私は言った。


「不足五日分の全量を城館から出すことはできません」


 シスターの表情が引き締まる。


 ユリスもペンを構えた。


「城館予備分から二日分。第三区事故対応費として、炊き出し使用分を二日分。残り一日分は、教会内で火を使う時間をまとめて調整してください」


「火をまとめる、でございますか」


「調理と暖房を分けすぎない。大部屋を優先して、小部屋は日中閉じる。病児と乳幼児を暖かい部屋へ集める」


 これは、たぶん現代人としての感覚だ。


 暖房効率。


 部屋をまとめる。


 エネルギーを分散させない。


 けれど、この世界でも通じるはずだ。


 シスター・マルタは少し考え、頷いた。


「可能です。少々窮屈にはなりますが、子供たちは一部屋に集められます」


「窮屈でも、暖かい方がいい」


「はい」


「薬草は足りていますか」


「咳止めに使う薬草が少し心もとなく」


「ユリス、薬草庫の残量を確認。城館備蓄から出せるか見て」


「かしこまりました」


 私はそこで一度息をついた。


 全部は出せない。


 でも、見捨てない。


 その線を探す。


 これが、エレノア様のやってきたことなのだろう。


「それから、今後、領政側の依頼で教会に炊き出しや保護を依頼する場合、燃料と人員負担を別項目で記録します。善意で処理してはいけません」


 シスター・マルタの目が、静かに揺れた。


「女伯様」


「何でしょう」


「祈りは、人を立たせます」


 彼女はゆっくりと言った。


「けれど、粥を煮るには薪が要ります」


 胸に、その言葉が落ちた。


 祈りでは煮えない粥。


 王都の教会は、聖女リリアナ妃殿下の慈悲を語る。


 でも、地方の教会では、薪と鍋と豆と人手が必要だ。


 シスター・マルタは、それを知っている。


「その通りです」


 私は頷いた。


「祈りを否定するつもりはありません。ですが、薪を数えます」


「それでこそ、女伯様です」


 シスター・マルタは、少しだけ微笑んだ。


「厳しい方です。けれど、聖マルタ教会の粥鍋を空にされたことはありません」


 私は何も言えなくなった。


 まただ。


 エレノア様の痕跡。


 言葉ではなく、配分表に残った善意。


 怖がられている。


 でも、信じられている。


 商人には、約束を違えない人。


 領民には、冬を越させる方。


 教会には、優しい言葉はなくても粥を切らさない人。


 王都の冷血伯とは、あまりにも違う。


 シスター・マルタが退室したあと、私は椅子に座ったまましばらく動けなかった。


 ユリスが静かに書類を整理している。


 オルドが私の前に温かい茶を置いた。


「女伯様」


「何?」


「先ほどの処理、以前の女伯様であれば、もう少し早く裁断なさったでしょう」


「……そうでしょうね」


「ですが、今日の処理も悪くありません」


 私はオルドを見た。


 彼の表情は変わらない。


 けれど、声は少しだけ柔らかかった。


「教会の善意を支出として記録する。良い修正でございます」


「これまでの私は、そうしていませんでしたか」


「必要があれば、いずれなさったでしょう。ただ、女伯様はご自分から善意という言葉をお使いになる方ではありませんでした」


 私は茶器を見下ろす。


「私は、甘いでしょうか」


「甘さはございます」


 即答だった。


 わりと刺さる。


「ですが、甘さをそのまま命令にしないのであれば、補いにもなります」


 オルドは静かに続けた。


「女伯様は、これまで多くを切り捨てることで守ってこられました。今の女伯様は、切り捨てる前に一度拾おうとなさる」


「それは、危険ですか」


「時には」


「ですよね」


「ですが、時には必要でございます」


 私は少しだけ息を吐いた。


 オルドの言葉は、褒めているのか警告しているのか分からない。


 たぶん、両方だ。


 その夜、私は精神世界の扉の前に立った。


 扉の隙間からは、いつもより少し暖炉の光が漏れている。


 中にいるエレノア様の気配も、以前より分かりやすくなっていた。


「聖マルタ教会の薪の件、処理しました」


「……聞いています」


 返事が早い。


 少し驚いた。


「聞いていたんですか」


「領地の支出です」


「なるほど」


 実にエレノア様らしい。


 私は扉の前に座った。


「教会の通常配分から削るのではなく、第三区穀倉事故対応費として振り替えました。城館予備分から二日分、事故対応費で二日分。残り一日分は、教会内で火を使う部屋をまとめて節約してもらいます」


「悪くありません」


 今日も評価をいただいた。


 私は少しだけ口元を押さえた。


 でも、今日は騒がない。


「シスター・マルタが言っていました。祈りは人を立たせます。けれど、粥を煮るには薪が要ります、って」


 扉の向こうが静かになった。


「地方教会らしい言葉です」


「王都教会とは違いますか」


「違います」


 エレノア様の声が、少し冷えた。


「王都教会は理念を語ります。象徴を掲げます。聖女リリアナ様の慈悲、王家の祝福、救済の光。どれも不要とは言いません」


「はい」


「ですが、地方では、粥を煮る薪が先です」


 その声には、過去の疲労が滲んでいた。


 たぶんエレノア様は、王都で何度もこれを言ったのだ。


 理念だけでは人は救えない。


 奇跡だけでは冬は越せない。


 でも、その言葉は冷たいと受け取られた。


「エレノア様」


「何ですか」


「あなたは、聖女リリアナ様の力を否定していたわけではないんですよね」


 扉の向こうの気配が止まった。


 踏み込んだ。


 そう感じた。


 でも、聞かなければならない気がした。


「リリアナ様本人を嫌っていたというより、その周りで、聖女様の慈悲なら何でも通る、みたいな空気になるのが怖かったんですよね」


 長い沈黙。


 私は息を潜めた。


 やがて、エレノア様の声がした。


「聖女リリアナ様は、善良な方です」


 その一言は、痛いほど静かだった。


「苦しむ者を見れば、手を差し伸べる。傷を癒やす力もある。人々が救いを見出すのも理解できます」


「はい」


「ですが、善意は仕組みにしなければ続きません。奇跡にも限りがあります。力を使えば、彼女自身も疲弊する」


 私は黙って聞いた。


「それを言う者が、必要でした」


「その役を、あなたがやった」


「結果として、そうなりました」


 結果として。


 その言い方が、あまりにエレノア様らしかった。


 自分が背負った、とすら言わない。


 気づいたらそうなっていた、必要だからやった、そんな言い方。


「でも、誰も分かってくれなかった」


 私がそう言うと、扉の向こうから返事はなかった。


 代わりに、かすかな紙の音がした。


「……分かってもらう努力を、怠ったのかもしれません」


 小さな声だった。


「そんな」


「王太子殿下にも、聖女リリアナ様にも、私は説明するより先に止めました。危険なものを止めるには、早い方がいい。そう判断した」


「でも、説明している時間がないこともありますよ」


「それでも、伝わらなければ、ただの妨害です」


 私は言葉に詰まった。


 エレノア様は、自分の正しさだけに逃げない。


 そこが苦しい。


 全部王都が悪い、リリアナ様が悪い、アルベルト陛下が悪い。


 そう言ってくれた方が、私の怒りは楽だった。


 でも、この人は言わない。


 相手の善意も、自分の説明不足も、全部数えようとする。


 腐った雪芋と同じように。


「私は、それでもあなたが一人で悪役になる必要はなかったと思います」


 私は言った。


「説明が足りなかったとしても、全部をあなた一人に押しつけていい理由にはなりません」


「……あなたは、いつもそう言いますね」


「何度でも言います」


 扉の向こうで、小さく息を吐く音がした。


 困っている。


 でも、拒絶ではない。


「それから」


「まだ何か」


「シスター・マルタが、あなたは優しい言葉をくれないけれど、粥鍋を空にしたことはない、と言っていました」


 沈黙。


「また、そういう報告を」


「大事な報告です」


「領政報告ではありません」


「私的業務記録には残します」


「……私的すぎます」


 少しだけ、声に呆れが混ざった。


 私は笑いそうになる。


「エレノア様が受け取らないので、記録に残します」


「受け取らないのではありません。扱いに困るのです」


 私は目を瞬いた。


 扱いに困る。


 今、かなり本音っぽいものが出た。


「では、困ってください」


「玲奈」


「はい」


「あなたは、時々本当に意地が悪い」


「推しに似たのかもしれません」


「似ていません」


 即答。


 でも、前ほど冷たくはない。


 扉の隙間から漏れる暖炉の光が、少しだけ揺れた気がした。


 現実に戻った私は、私的業務記録を開いた。


 聖マルタ教会、薪不足報告。


 不足、五日分。


 原因。


 孤児院一時保護児童増。


 第三区穀倉腐敗分の炊き出し引き受けによる薪消費増。


 対応。


 城館予備分より二日分。


 第三区穀倉事故対応費として二日分。


 残一日分は教会内火元集約により調整。


 病児、乳幼児を大部屋へ集約。


 咳止め薬草、城館薬草庫より確認。


 今後、領政依頼による教会炊き出しは、燃料・人員負担を別項目で記録。


 そこまで書いて、私はペンを止めた。


 そして、一行加えた。


 祈りは人を立たせる。けれど、粥を煮るには薪が要る。


 これはシスター・マルタの言葉。


 そして、エレノア様がずっと見てきた現実。


 私はその一文を見つめた。


 王都では、きっと聖女リリアナ妃殿下の慈愛が歌われている。


 大聖堂では祈りが捧げられ、祝祭では花が撒かれ、劇場では愛と奇跡が語られる。


 それは美しい。


 たぶん、本当に人を救う瞬間もある。


 でも、ヴァルツェンでは薪が要る。


 豆が要る。


 薬草が要る。


 火をつける人が要る。


 鍋を洗う人が要る。


 粥をよそう手が要る。


 そのすべてを数えていた人が、冷血伯と呼ばれた。


 私はペンを置き、窓の外を見た。


 雪は降り続いている。


 聖マルタ教会の孤児院では、今ごろ子供たちが一つの大部屋に集められているだろう。


 少し窮屈でも、暖かい部屋で。


 粥の鍋から湯気が立っているといい。


 私は胸の奥へ、そっと呼びかけた。


 エレノア様。


 今日もあなたの領地では、粥が煮えています。


 祈りだけではなく。


 あなたが残した配分表と、薪で。

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