第10話 冬税の帳簿
聖マルタ教会の薪不足は、ひとまず処理できた。
城館予備分から二日分。
第三区穀倉事故対応費として二日分。
残り一日分は、教会内で火を使う部屋をまとめて調整する。
書類にすれば、それだけだった。
けれど、粥を煮るには薪がいる。
その当たり前のことが、頭から離れなかった。
祈りは人を立たせる。
でも、薪がなければ粥は煮えない。
そして薪は、祈っても増えない。
翌朝、ユリスが持ってきたのは、薪ではなく税の帳簿だった。
「冬前一時徴収の再計算、ですか」
私は机に置かれた厚い帳簿を見下ろした。
表紙には、古い筆跡でこう書かれている。
冬税整理帳。
その文字を見た瞬間、胸の奥がざわついた。
冬税。
王都で語られる冷血伯伝説の一つ。
エレノアはヴァルツェン領で冬前に重税を課し、領民から搾り取った。
それは、こちらの世界に来てから知った噂だった。
断罪後のエレノア様まで、王都では冷血伯という物語の中で語られているらしい。
本当にそんな単純な話だろうか。
今なら、そう思う。
でも今、私はその帳簿を前にしている。
噂ではなく、本物の数字として。
「今年も徴収するの?」
思わず聞いた。
ユリスが少し緊張した顔で頷く。
「はい。ただし、昨年と同じ規模ではありません。雪芋腐敗と聖マルタ教会の薪支出、王都献上の調整で、冬備え台帳の一部を再計算する必要が出ました」
私はページをめくった。
村ごとの記載。
戸数。
成人数。
乳幼児数。
病人。
妊婦。
備蓄量。
薪の共同置き場。
税の納入見込み。
免除対象。
減免対象。
細かい。
怖いくらい、細かい。
数字の密度に圧倒される。
でも、そこにあるのは金を取るためだけの帳簿ではなかった。
誰から取らないか。
どこを減らすか。
誰に配るか。
そのための帳簿だった。
「今回の不足分は」
「通常税ではなく、共同備蓄への物納で補う案が出ています」
「物納」
「はい。金銭ではなく、薪、乾燥豆、灰麦粉、雪芋の保存可能分などです」
ユリスは別紙を出した。
「ただ、村によって余裕が違います。第一区と南村は比較的出せますが、山間部と北村は厳しい。均等に取ると、弱い村から崩れます」
「均等では駄目」
言ってから、私は少し驚いた。
即答だった。
たぶん、エレノア様の判断が身体に残っている。
公平に見える均等徴収は、実際には不公平になる。
余裕のある村と、ぎりぎりの村から同じだけ取れば、弱い方が先に死ぬ。
「はい。以前の女伯様も、均等徴収を廃止されました」
ユリスが言った。
「ただ、その時に反発が出ました。特に第一区からは、『なぜ自分たちばかり多く出すのか』と」
「当然でしょうね」
裕福な村に多く負担を求める。
言葉にすれば簡単だ。
でも、その村の人たちにも生活がある。
努力して備えたのに、多く取られる。
そう感じてもおかしくない。
私は帳簿を見る。
第一区。
領都に近く、商人との取引も多い。
備蓄は比較的厚い。
南村。
収量は少なめだが、薪は出せる。
北村。
防寒具不足。
山間村。
輸送不安。
聖マルタ教会。
薪不足。
どこも余裕があるわけではない。
余裕が少し多いところから、少し多く取る。
ただ、それだけのことが、たまらなく重い。
「反発が出ますね」
「出ると思われます」
ユリスの声は硬かった。
「特に第一区の年長者たちは、昨年の冬前一時徴収を今も覚えています。結果として死者が減ったことは理解されていますが、あの時の負担感は残っています」
冬前一時徴収。
悪評の元。
私はエレノア様の私的業務記録を思い出した。
冬前一時徴収、実施。
第一区、反発大。
第三区、泣く者あり。
ハンナの娘、発熱。
ミーナが薬湯を届けた。
徴収量、予定の九割二分。
不足分は城館備蓄から補填。
私室暖炉用の薪を半減。
問題なし。
泣かれた。
計算上は、これで死者を減らせる。
計算上は。
あれは単なる記録ではなかった。
エレノア様の中に、本当に残っている痛みだった。
「女伯様」
ユリスが、おずおずと口を開いた。
「今回の再計算について、村の代表を呼びますか」
呼ぶ。
説明する。
反発される。
場合によっては泣かれる。
逃げたい。
ものすごく逃げたい。
でも、説明せずに命令だけを出せば、また冷血伯になる。
いや、エレノア様はそれでも命令を出した。
必要なら嫌われた。
それで冬を越させた。
でも私は、もう少しだけ違う方法を探したい。
甘いかもしれない。
危ういかもしれない。
それでも、説明しないまま嫌われ役だけを背負うことが、正しいとは思えない。
「呼びます」
私は言った。
「第一区、南村、北村、山間村二つ。各代表を。聖マルタ教会からもシスター・マルタに来てもらってください。ガルドも同席を」
「騎士団長も、ですか」
「輸送と治安の話になります。現場の判断が必要です」
「かしこまりました」
ユリスは素早く書き留めた。
「説明資料を作ります。徴収額だけではなく、なぜその配分になるのか。何に使うのか。どこの不足を補うのか。全部」
言いながら、私は自分の胃が痛くなるのを感じた。
全部説明するのは、大変だ。
説明しても、納得されるとは限らない。
むしろ数字を見せたことで、余計に反発されるかもしれない。
でも、それでも。
腐ったものは、隠すと増える。
不足も、不満も、同じだ。
その日の午後、城館の会議室には重い空気が満ちていた。
第一区の代表は、恰幅のよい初老の男だった。
南村からは、日に焼けた農夫。
北村からは、毛皮の外套を着た細身の女。
山間村からは、老人と若い猟師。
聖マルタ教会のシスター・マルタ。
ガルド。
ユリス。
オルド。
そして私。
全員が席に着いている。
机の上には、冬備え台帳、薪配分表、雪芋腐敗報告、聖マルタ教会支出表、王都献上による圧迫分一覧。
見ただけで胃が重くなる。
私は席に座り、ゆっくり口を開いた。
「本日は、冬前共同備蓄の再計算について話します」
誰も喋らない。
だが、視線は重い。
第一区の男が、すでに不満を隠していない。
北村の女は、警戒している。
山間村の老人は、諦めたような顔をしている。
私は続けた。
「第三区穀倉の雪芋腐敗、聖マルタ教会の薪不足、王都への婚礼祝賀献上。この三つにより、冬備え台帳の一部を組み直す必要が出ました」
第一区の代表が、すぐに口を開いた。
「また第一区から多く取るということでしょうか」
早い。
来ると思っていたが、早い。
私は彼を見る。
「負担は増えます」
会議室の空気が揺れた。
「ただし、昨年と同じではありません。金銭ではなく、物納を中心にします。乾燥豆、薪、灰麦粉。各村の余剰と不足を見て、出せるものを変えます」
「出せる村から取る。そういうことでしょう」
「そうです」
私は逃げずに答えた。
第一区の代表の顔が硬くなる。
「我々は、備えてきました。女伯様の命令通り、薪も豆も雪芋も余分に用意した。なのに、備えた者から多く取られるなら、誰が来年備えるのです」
正論だった。
胸に刺さった。
努力した者から取る。
それは、制度への信頼を壊す。
私はすぐに答えられなかった。
ユリスが不安そうにこちらを見る。
ガルドは黙っている。
エレノア様。
胸の奥で呼びかけた。
返事はない。
でも、机の上の帳簿に視線が落ちる。
予備。
返還。
優先権。
記録。
私は息を吸った。
「第一区から出してもらう分は、徴収ではなく貸付扱いにします」
第一区の代表が眉を寄せた。
「貸付?」
「ええ。共同備蓄へ回した分は記録し、来春以降、北街道が開いた後の商人取引で優先補填します。また、来年の共同備蓄配分では、第一区に相応の優先権を付けます」
ユリスが慌ててメモを取る。
今、私も初めて口にした案だ。
でも、悪くないはず。
出した分が消えるのではなく、記録される。
協力が罰にならないようにする。
「それでも、今冬は減る」
第一区の男は厳しい顔で言った。
「はい」
私は頷いた。
「今冬は減ります。だから、無理な量は取りません」
「では、どこから」
北村の女が低く言った。
「北村には、もう出せる毛皮も薪も多くありません。防寒具も足りません」
「北村からは取りません」
私は言った。
女の目がわずかに見開かれた。
「むしろ、防寒具と薪の補填対象です」
第一区の男が苦い顔をする。
「つまり、我々が出して北村へ回る」
「一部は」
正直に言う。
「北村と山間村へ回ります。聖マルタ教会にも回します」
「王都への献上で削れた分も、我々が埋めるのですか」
その言葉に、胸の奥がざわりとした。
王都への献上。
新王陛下と聖女リリアナ妃殿下の御成婚。
祝福のために削れたもの。
私は言葉を選ぶ。
「王都献上で圧迫された分は、別記録にしています。今回の共同備蓄貸付とは分けます」
「分けてどうなります」
「後で分からなくなるのが一番困るからです」
私は机上の一覧を示した。
「何が雪芋腐敗の影響か。何が教会炊き出しの影響か。何が王都献上の影響か。混ぜれば、誰の負担で何を守ったのか分からなくなる」
室内が静かになった。
「分からなくなれば、次も同じことが起きます。だから分けます」
山間村の老人が、ゆっくり口を開いた。
「女伯様。わしらは、今年も越せますか」
その問いは、静かだった。
責める言葉ではない。
ただ、本当に知りたいという声だった。
私はすぐに「越せます」と言いそうになった。
でも、止めた。
簡単に約束してはいけない。
越せるかどうかは、天候にも、雪にも、輸送にも、病にも左右される。
エレノア様なら、きっと安易な慰めを言わない。
私は帳簿を見る。
数字。
配分。
予備。
巡回。
ガルドの方へ視線を向ける。
「ガルド。西寄りの山間村への輸送は」
「今のうちに二回入れれば持ちます。一回では足りません。三回は危険です」
「二回分の護衛は」
「出せます。ただし、西砦の巡回を一日ずらす」
「その危険は」
「小さいが、ないとは言えません」
ガルドらしい答えだ。
ないとは言わない。
でも、小さい。
「分かりました」
私は老人を見る。
「越せるようにします。そのために、今ここで配分を変えます。ただし、今年は余裕がありません。各村に、我慢してもらうところがあります」
老人は、静かに頷いた。
「分かりました」
その声が、思ったより重かった。
次にシスター・マルタが口を開いた。
「聖マルタ教会は、炊き出しの回数を増やせます。ただし、薪と豆をいただければ、です」
「豆は第一区と南村から。薪は城館予備と南村から回します」
南村の農夫が苦い顔をした。
「薪なら出せます。だが、馬が足りん」
「輸送は騎士団と商人組合に割り振ります。ロイ・ベルナーにも話を通します」
第一区の代表が不機嫌そうに言った。
「結局、商人にも借りを作る」
「作ります」
「借りばかりですな」
「記録に残る借りなら、返せます」
言った瞬間、部屋の空気が少し変わった。
たぶん、これはエレノア様の言い方だった。
でも、私の気持ちでもある。
曖昧な善意に頼るより、借りとして記録する。
その方がずっと誠実だ。
「第一区からの物納は、乾燥豆と灰麦粉を中心に。薪は無理に出さない。出した分は共同備蓄貸付として記録し、来春の取引優先権を付けます」
ユリスが書き取る。
「南村からは薪。ただし輸送人員は出さなくていい。騎士団と商人組合で運びます」
ガルドが頷く。
「北村は受け取り側。ただし防寒具の修繕作業を城館へ一部出してください。献上外套の残布を使います」
北村の女が、少しだけ顔を上げた。
「作業なら出せます」
「山間村には、雪芋保存分と薪を優先輸送。二回に分けます。受け取り記録を必ず残して」
老人と猟師が頷く。
「聖マルタ教会は、炊き出しを週二回から三回へ。ただし、病児と乳幼児優先。大人向けは薄めてもいいので、回数を確保してください」
シスター・マルタが静かに礼をした。
「承知しました」
私は全員を見渡した。
「これは、誰か一人の善意では回りません。どこか一つの村だけの犠牲にもできません。出した分、削った分、先送りした分、すべて記録します」
声が震えそうになる。
でも、震えなかった。
エレノア様の身体が、私を支えてくれている。
「不満は出るでしょう。恨まれることもあるでしょう。それでも、今年の冬を越すために必要な配分です」
会議室に沈黙が落ちた。
第一区の代表は、まだ納得しきっていない顔だった。
当然だ。
いくら貸付扱いにしても、今ある物が減るのは事実だ。
彼はゆっくり息を吐いた。
「女伯様」
「何でしょう」
「昨年、うちの者は女伯様を恨みました」
「……そうでしょうね」
「今年も、恨む者はいるでしょう」
「はい」
「ですが、昨年、死者が減ったのも事実です」
彼はそう言って、深く頭を下げた。
「記録に残るというなら、出しましょう。ただし、必ず返していただく」
「必ず記録します。返せる形を作ります」
「言質をいただきました」
「ええ」
商人みたいな言い方だと思った。
でも、嫌いではない。
会議が終わる頃には、私は全身が重くなっていた。
泣かれはしなかった。
怒鳴られもしなかった。
けれど、不満は残った。
それでいいのだと思う。
全員が笑顔で納得する配分など、たぶん嘘だ。
誰かの冬を守るために、誰かに負担を頼む。
その苦さを消してはいけない。
会議室を出ると、ユリスが書類を抱えたまま、ぽつりと言った。
「女伯様。今日の記録様式ですが、共同備蓄貸付として新しく項目を作ります」
「お願いします」
「出した側、受け取った側、返済予定、補填方法、すべて分けます」
「ええ」
「……以前の冬税整理帳には、返済予定の欄はありませんでした」
私は足を止めた。
「そう」
「はい。徴収と配分の記録はありました。ですが、出した側への感情の戻し方までは……」
ユリスは言葉を探すように俯いた。
「すみません。うまく言えません」
「いいえ。分かります」
出したものを返す。
それだけではない。
協力したことが損にならないようにする。
我慢した村が、次の年も備えようと思えるようにする。
これはたぶん、玲奈の感覚だ。
でも、エレノア様の制度にも接続できる。
「ユリス」
「はい」
「今回の様式ができたら、昨年の冬税整理帳も見直してください」
「昨年のものも、ですか」
「ええ。今さら返せないものもあるでしょう。でも、何がどこから出たのか、もう一度見たい」
「かしこまりました」
ユリスの声には、少しだけ力があった。
その夜、私は精神世界の扉の前にいた。
扉の隙間から、暖炉の光が細く漏れている。
最近、その光が少しずつ強くなっている気がする。
気のせいかもしれない。
でも、そう思いたかった。
「冬前共同備蓄の再計算をしました」
私が言うと、扉の向こうからすぐに声がした。
「見ていました」
「やっぱり」
「領地の税です」
「ですよね」
私は扉の前に座った。
「第一区からの物納は、徴収ではなく貸付扱いにしました。来春の取引優先権と備蓄配分で補填する形にします」
「……危ういですね」
「はい」
「貸付にすれば、返済の義務が発生します。春に収量が落ちれば、また帳簿が苦しくなる」
「分かっています」
「それでも、そうしたのですか」
「はい」
私は膝の上で手を握った。
「出した村が、来年備える気をなくすのが怖かったんです。備えた人が損をする制度に見えたら、続かないと思って」
扉の向こうは静かだった。
「以前のあなたのやり方が間違っていたという意味ではありません」
私は急いで言った。
「たぶん、その時は早く集めないといけなかった。説明する時間も、制度を整える余裕もなかった。だから徴収として処理した。それで死者が減った」
返事はない。
「でも、泣かれたんですよね」
扉の向こうの空気が、わずかに冷えた。
私は続けた。
「第三区で、泣く人がいた。ハンナさんの娘さんが熱を出した。ミーナさんが薬湯を届けた。あなたは私室の暖炉用の薪を半減した」
「……見たのですか」
「記録を、少し」
沈黙。
「ごめんなさい。勝手に」
「記録は、読むために残したものです」
エレノア様の声は静かだった。
でも、少しだけ硬かった。
「ただし、感傷のためではありません」
「分かっています」
「いいえ。あなたは感傷に寄りすぎます」
「はい」
否定できない。
「でも、感傷だけで終わらせません」
私は扉を見つめた。
「だから、昨年の冬税整理帳も見直します。どこから何を取って、どこへ配って、何が残って、何が返せなかったのか。今さら全部は返せなくても、見なかったことにはしません」
扉の向こうから、長い沈黙が返ってきた。
私は少し怖くなった。
踏み込みすぎただろうか。
エレノア様の失敗を掘り返しているように聞こえただろうか。
けれど、やがて声がした。
「私は、当時、返すことを考えていませんでした」
小さな声だった。
「集めること。配ること。死者を減らすこと。それだけで手一杯だった」
「はい」
「出した者が、次も備えようと思えるか。そこまで、見ていませんでした」
胸が痛んだ。
それは、告白だった。
エレノア様は、自分の不足を認めている。
冷血伯と呼ばれた人が、自分はそこまで見ていなかったと、扉の向こうで言っている。
「それは、あなた一人で背負う量じゃなかったからです」
私は言った。
「全部一人でやっていたら、漏れます。どんなに有能でも」
「……あなたは、またそう言う」
「何度でも言います」
扉の向こうで、かすかに布が擦れる音がした。
「今日の判断は」
エレノア様が言った。
「甘いです」
「はい」
「ですが、続ける制度としては、必要かもしれません」
私は目を見開いた。
褒められた。
いや、評価だ。
たぶん、エレノア様ならそう言う。
「ありがとうございます」
「喜ばないでください。問題は春です。返済可能な補填方法を三案、今週中に作りなさい」
「三案」
「一つでは潰れます。春の収量、北街道の開通時期、王都からの追加要求。条件が変われば使えません」
「はい」
厳しい。
でも、少し嬉しい。
未来の話をしている。
春の話だ。
エレノア様が、春のことを話している。
それだけで、胸が熱くなる。
「エレノア様」
「何ですか」
「春の話をしましたね」
扉の向こうが静かになった。
「今、春までの補填方法を考えろって」
「領地運営上、当然です」
「はい。当然です」
私は笑いそうになった。
「でも、嬉しいです」
「理解し難い」
「春の話をするということは、そこまで続く前提じゃないですか」
返事はなかった。
でも、扉の隙間の暖炉の光が、少しだけ揺れた。
私はその光を見ないようにして、そっと言った。
「一緒に、春まで持たせましょう」
長い沈黙の後、エレノア様は小さく答えた。
「……まずは、冬を越すことです」
「はい」
現実に戻った私は、私的業務記録を開いた。
冬前共同備蓄、再計算。
要因。
第三区穀倉、雪芋腐敗。
聖マルタ教会、薪消費増。
王都婚礼祝賀献上による備蓄圧迫。
対応。
第一区より乾燥豆、灰麦粉を共同備蓄貸付として受領。
南村より薪を受領。輸送人員負担なし。
北村は防寒具・薪の補填対象。献上外套残布の修繕作業を担当。
山間村二村へ、雪芋保存分と薪を優先輸送。二回。
聖マルタ教会、炊き出し週三回。病児、乳幼児優先。
共同備蓄貸付、新様式作成。
出した側、受け取った側、補填予定、返済方法を記録。
昨年の冬税整理帳、再確認。
そこまで書いて、私はペンを止めた。
そして、一行足した。
備えた者が、次も備えようと思える制度にすること。
それは、私の言葉だった。
エレノア様の帳簿に、私の言葉が混ざっていく。
それが正しいのか、まだ分からない。
でも、私たちは共同統治を始めた。
なら、記録も少しずつ変わっていくのかもしれない。
暖炉の火が揺れる。
窓の外では、雪が静かに降っている。
ヴァルツェンの冬は長い。
まだ始まったばかりだ。
でも今日は、春という言葉が出た。
ほんの少しだけ先の季節。
エレノア様が、そこまで見た。
私はそれだけで、今夜の寒さを少しだけ耐えられる気がした。




