第11話 巡回を減らせば死ぬ村がある
冬前共同備蓄の再計算は、帳簿の上ではまとまった。
第一区からは乾燥豆と灰麦粉。
南村からは薪。
北村は防寒具と薪の補填対象。
山間村二つには雪芋保存分と薪を優先輸送。
聖マルタ教会では炊き出しを週三回に増やす。
出した分、受け取った分、返す予定の分は、すべて共同備蓄貸付として記録する。
うん。
書類にすれば、ちゃんとしている。
けれど翌朝、ガルド・ライナーが持ってきた一枚の表を見て、私は思い知った。
物資は、帳簿の上を歩かない。
人が運ぶ。
馬が運ぶ。
雪の中を、実際に誰かが行かなければならない。
「冬季巡回表の組み替えです」
ガルドは、会議室の長机に地図を広げた。
ヴァルツェン領の北西部。
領都グラウフェルト。
北街道。
西砦。
山間村。
赤い線で巡回路が引かれている。
その線は、見ているだけで寒かった。
「共同備蓄の再配分により、山間村二つへ優先輸送が入ります。聖マルタ教会への薪と豆も増える。南村からの薪輸送も必要です。今の人員では、通常巡回を維持したままでは回りません」
私は地図を見下ろした。
赤い線。
青い印。
黒い数字。
巡回日。
護衛数。
馬の数。
積荷。
休息日。
その最後の欄で、目が止まった。
休息日。
少ない。
いや、少なすぎる。
「騎士団員の休みは?」
「減ります」
ガルドは即答した。
「どれくらい」
「二週間で、半日取れればよい方です」
「それは駄目です」
反射的に言っていた。
ガルドが顔を上げる。
ユリスが、書類を抱えたまま固まった。
私は自分の声の強さに驚きながらも、言葉を続けた。
「そんな勤務を続けたら、兵が倒れます」
「倒れぬよう組みます」
「二週間で半日では、倒れます」
現代日本人として、そこは譲れなかった。
いや、現代日本でも酷い働き方はいくらでもある。私だって、忙しい時期に睡眠時間を削って働いたことはある。
でも、雪山の巡回だ。
荷を運び、村を回り、盗賊や獣にも備える。
それをほぼ休みなしでやれというのは、さすがに無理がある。
兵も人間だ。
ガルドは静かに言った。
「巡回を減らせば、山間村が危険になります」
「分かっています」
「いいえ。まだ分かっておられません」
その言葉は、重かった。
以前の私なら、少しむっとしたかもしれない。
けれど、エレノア様の身体は反発しなかった。
それどころか、胸の奥に残る記憶が、ガルド・ライナーという男の現場勘を信用している。
彼は、雪の中で人が死ぬ場所を知っている人だ。
「説明してください」
私が言うと、ガルドは地図の西側を指した。
「ここが西寄りの山間村です。冬が深くなると、北側の谷道が凍ります。巡回が遅れれば、道の状態が分からない。道が分からなければ、次の輸送が止まる」
次に、少し南の線を指す。
「ここは獣が出ます。普段なら村の猟師が対応しますが、今年は雪芋腐敗の補填作業で人手が足りない」
さらに、西砦へ続く線。
「西砦の巡回を減らせば、国境沿いの流れ者が入りやすくなる。今すぐ大事にはなりませんが、冬の終わりに響きます」
彼は淡々と続けた。
「兵を休ませたいお気持ちは分かります。ですが、巡回を減らせば、先に死ぬのは兵ではなく村です」
私は言葉を失った。
兵を休ませたい。
それは間違っていない。
でも、そのために村が危険になるなら。
まただ。
また、どちらも守りたいものが並んでいる。
兵の身体。
山間村の命。
西砦の安全。
輸送路。
どれも削りたくない。
でも人員は足りない。
私は胸の奥へ呼びかけた。
エレノア様。
返事はない。
けれど、地図の上の古い印に視線が吸い寄せられた。
細い黒線。
通常巡回路とは別の、短い線。
「これは?」
私は指で示した。
ガルドが少し目を細める。
「旧猟師道です。昔は使っていましたが、今はほとんど使っていません。狭く、荷車は通れない」
「馬は?」
「一頭ずつなら。積荷は少量になります」
「人だけなら?」
「早いです。ただし、慣れない者には危険です」
頭の奥に、薄く記憶が浮かんだ。
エレノア様の記憶というより、帳簿と報告書の断片。
旧猟師道。
冬季偵察。
雪崩危険、低。
荷輸送には不適。
連絡路としては使用可。
「荷を運ぶ道と、確認に行く道を分けられませんか」
私は言った。
ガルドの視線が鋭くなる。
「偵察だけ旧猟師道を使う、という意味ですか」
「はい。物資輸送は通常道。ですが、道の状態確認と村への先触れは、旧猟師道を使って少人数で先に入る。そうすれば、輸送隊全体を何度も動かさずに済むのでは」
ユリスが地図を覗き込んだ。
「先触れが通れば、村側で受け入れ準備もできます。荷下ろしの時間も減ります」
ガルドはしばらく黙った。
怒っているのか、考えているのか。
私は息を詰めて待つ。
「使える者が限られます」
「猟師出身の兵は?」
「三人います」
「村の猟師に協力を頼めますか」
「頼めますが、村の人手も削る」
「完全な同行ではなく、道案内だけでも」
ガルドは腕を組んだ。
「……不可能ではありません」
その言葉に、少しだけ息が抜けた。
不可能ではない。
ヴァルツェンでは、だいたい希望の言葉だ。
「ただし、危険はあります」
「分かっています」
「旧猟師道で事故が起きれば、救助にさらに人員を取られる」
「では、天候条件を決めましょう。雪が強い日、風が強い日は使わない。二人一組。片方は必ず経験者。戻り時刻を決めて、遅れれば捜索」
言いながら、私はどこまでが自分の考えで、どこからがエレノア様の残した判断なのか分からなくなっていた。
でも、悪くないはずだ。
少なくとも、全部を力任せに回すよりは。
ガルドは、私をじっと見た。
「以前の女伯様なら、通常巡回を維持しろと命じたでしょう」
部屋の空気が少し止まる。
私は静かに答えた。
「そうでしょうね」
「それが一番確実です」
「ええ」
「ですが、兵は削れます」
「だから、別の道を使います」
「危険な道です」
「危険を記録して、条件を決めます」
ガルドは少しだけ眉を動かした。
「女伯様は、変わられましたな」
「最近よく言われます」
「柔らかくなった、という意味だけではありません」
私は彼を見る。
ガルドは地図へ視線を落としたまま言った。
「以前の女伯様は、最短で死者を減らす命令を出された。今の女伯様は、命令を出す前に、減らせる負担を探される」
「それは、悪いことですか」
「時と場合によります」
これも最近よく聞く答えだ。
「今回は」
私は聞いた。
ガルドはしばらく黙り、やがて短く言った。
「試す価値はあります」
それだけで、十分だった。
巡回表の組み替えは、想像以上に複雑だった。
旧猟師道を使う先触れ班。
通常道を使う輸送班。
西砦の最低巡回。
聖マルタ教会への薪運び。
南村からの薪輸送。
山間村二つへの雪芋と薪の搬入。
全部がつながっている。
一つ動かすと、別の場所が歪む。
ユリスは途中から早口になり、インクを何度もつけ直した。
「先触れ班を二日前に出すなら、輸送隊は翌朝に出発できます。ただし、先触れ班の戻りが遅れた場合、輸送隊は待機。待機すると馬の飼葉が余計に必要です」
「飼葉の残量は」
「西厩舎分は足ります。東厩舎からは回せません。王都献上品の輸送準備で使っています」
「また王都」
思わず小さく漏れた。
ユリスが気まずそうに俯く。
私は首を振った。
「続けて」
「はい。聖マルタ教会への薪は、南村から直接運ぶより、城館を経由した方が記録は楽です。ただし、距離は伸びます」
「記録の楽さより、薪の到着を優先」
「かしこまりました」
「ただし、南村から教会へ直接運ぶ分も、城館帳簿に写しを残す」
「はい」
ガルドが口を挟む。
「直接輸送には騎士を一人つけます。村人だけで運ばせれば、途中で揉める」
「揉める?」
「薪は目に見える。寒い家の前を通れば、分けろと言う者が出る」
胸が重くなる。
そうか。
薪は、通るだけでも不満を生む。
「では、輸送時は封印札をつけてください。聖マルタ教会分と明記します」
「札など、剥がされれば終わりです」
「でも、ないよりいい。横取りした時に言い逃れできない」
ガルドは少しだけ口元を動かした。
笑った、のだろうか。
「そうですな。言い逃れできぬのは良い」
怖い。
でも頼もしい。
昼過ぎまでかかって、ようやく巡回表の仮案ができた。
兵の休息日は、二週間で半日から、一日半まで戻せた。
それでも少ない。
少なすぎる。
けれど、ガルドは「これなら持つ」と言った。
「持たせる、ではなく?」
私が聞くと、彼は少し考えた。
「持ちます。天候が崩れなければ」
「崩れた場合は」
「その時は、また組み直します」
即答だった。
そうか。
冬は、一度決めた表の通りには動かない。
雪が降れば変わる。
風が強ければ変わる。
病人が出れば変わる。
獣が出ても、王都から追加命令が来ても、全部変わる。
決めることより、組み直し続けることが大事なのだ。
「女伯様」
ユリスが、少し疲れた顔で言った。
「この巡回表、冬備え台帳に組み込みますか」
「ええ。村別備蓄と連動させて」
「すると、かなり複雑になります」
「複雑でも、別々に見るよりましです」
私は地図を見る。
物資。
人。
馬。
道。
薪。
粥。
全部、つながっている。
「物があっても、届かなければないのと同じです」
そう言うと、ガルドが静かに頷いた。
「その通りです」
短い言葉だった。
けれど、少しだけ認められた気がした。
会議が終わり、ガルドが退出しようとした時、私は呼び止めた。
「ガルド」
「はい」
「兵に、温かい食事を増やせませんか」
彼は振り返った。
「食事ですか」
「巡回前後だけでも。雪芋腐敗分で炊き出しに回せるものがありました。完全な保存には向かないけれど、今週中なら使える。騎士団の巡回前後に、温かい粥か煮込みを出せないかと」
ガルドは何も言わなかった。
ユリスが少し考え込む。
「傷み始めの雪芋のうち、乾燥粉に回さない分なら可能です。ただ、聖マルタ教会と領都炊き出し分を削らない範囲で」
「削らない範囲で」
私は念を押した。
「兵も冬を越す人間です。休みを十分に増やせないなら、せめて食事を」
ガルドは、しばらく私を見ていた。
それから、深くはないが、確かに頭を下げた。
「兵に伝えます」
「いえ、伝えなくていいです」
「なぜです」
「女伯様の温情、みたいにされると困るので。巡回維持のための措置です」
言った瞬間、ガルドが今度こそ少し笑った。
「それでこそ、女伯様です」
褒められたのか、からかわれたのか。
たぶん両方だ。
その夜、私は精神世界の扉の前に立った。
扉の隙間からは、いつものように暖炉の光が漏れている。
少しずつ、部屋の中の気配が近くなっている気がした。
「冬季巡回表を組み替えました」
「聞いています」
また早い。
「領地の巡回だからですか」
「当然です」
はいはい、そうですよね。
私は扉の前に座った。
「ガルドさんに、まだ分かっていないと言われました」
「その通りです」
「容赦ない」
「事実です」
エレノア様の声は淡々としている。
でも、前ほど突き放す感じではない。
「兵を休ませたいと思いました」
「必要な視点です」
私は顔を上げた。
「必要なんですか」
「兵も資源です」
「資源」
その言い方がエレノア様らしすぎて、少し苦笑しそうになった。
「兵が倒れれば、巡回は止まります。巡回が止まれば村が危険になる。兵の休息は情ではなく、維持管理です」
「そういう言い方、エレノア様ですね」
「何か問題が?」
「いえ。好きです」
扉の向こうが沈黙した。
しまった。
今のはちょっと直球すぎた。
「……あなたは」
「はい」
「そういう言葉を、軽く使いすぎます」
「軽くないです」
「なお悪いです」
私は口元を押さえた。
怒られた。
でも、前より会話が近い。
「旧猟師道を先触れに使う案にしました。荷の輸送と道の確認を分けます。天候条件、二人一組、戻り時刻、経験者同行を規則にします」
「悪くありません」
その言葉に、胸が少し温かくなる。
「ただし、旧猟師道は過信しないこと。あそこは雪が浅く見えて、足元が凍ります」
「知っているんですか」
「報告で読みました」
「行ったことは?」
「ありません」
少し意外だった。
エレノア様なら、すべて現地を見ているような気がしていた。
「行けなかったのですか」
「領主が旧猟師道まで出れば、護衛に余計な負担が出ます」
「……そういう理由ですか」
「他に何が?」
私は少し黙った。
この人は、行きたくなかったとは言わない。
行ってみたかったとも言わない。
全部、負担と責任で数える。
「いつか、見に行きましょう」
「何を」
「旧猟師道」
「危険です」
「安全な季節に」
「必要がありません」
「私が見たいです」
扉の向こうが、また沈黙した。
困っている。
これは困っている沈黙だ。
「……あなたは、領主の視察を遠足のように言いますね」
「遠足ではありません。視察です」
「今、見たいと言いました」
「視察意欲です」
「詭弁です」
私は少し笑った。
エレノア様と、こういう話ができるようになっている。
最初は返事すらなかった人が。
推しとは何ですか、と困惑していた人が。
今は、私の詭弁に突っ込んでいる。
それだけで、十分すぎるほど嬉しい。
「それから、兵の巡回前後に温かい食事を出すようにしました。雪芋の傷み始めで、保存に向かない分を使います。聖マルタ教会と領都炊き出し分は削りません」
「良い判断です」
え。
今、すごく普通に褒められた。
私は一瞬固まった。
「……ありがとうございます」
「兵の士気は巡回効率に関わります。温食は有効です」
「あ、はい。そういう理由ですよね」
「他に何が?」
「いえ、何でもありません」
でも、私は知っている。
エレノア様は、必要性がなければ動かないふりをする。
でも、その必要性の中には、ちゃんと人が入っている。
兵も倒れてはいけない。
村も死なせてはいけない。
だから温かい食事は、情ではなく制度になる。
「エレノア様」
「何ですか」
「今日、ガルドさんに言われました。以前の女伯様は、最短で死者を減らす命令を出した。今の女伯様は、命令を出す前に減らせる負担を探しているって」
扉の向こうは静かだった。
「それを聞いて、少し怖くなりました」
「なぜ」
「私が負担を探している間に、判断が遅れたらどうしようって」
これは本音だった。
優しくしたい。
説明したい。
減らせる負担を探したい。
でも、そのせいで命令が遅れたら。
エレノア様なら救えた人を、私が迷って死なせたら。
「玲奈」
扉の向こうから、名前を呼ばれた。
その声は静かだった。
その一言で、胸の奥が変に跳ねた。
玲奈。
以前にも一度、そう呼ばれたことはある。
でも今のそれは、慰めでも拒絶でもなく、仕事の途中で当たり前みたいに呼ばれた名前だった。
まずい。
こういうところで喜んでいる場合ではない。
けれど、推しに名前を呼ばれたファンの心臓は、領地運営中でも勝手に跳ねる。
「迷う時間と、遅らせてはいけない時間は違います」
「違う」
「はい。判断前に確認すべき時間は必要です。ただし、締切を越えれば害になる。あなたに必要なのは、迷わないことではなく、迷ってよい時間を決めることです」
私は息を呑んだ。
迷ってよい時間を決める。
「今回で言えば」
「巡回表は明朝までに正式な命令書にして、騎士団へ通達してください。旧猟師道の使用条件も文書にすること。口頭では崩れます」
「はい」
「冬税も同じです。説明の時間は必要でした。しかし雪が来る前に物資が動かなければ意味がない」
「はい」
「あなたは、すべてを感情で先送りしているわけではありません。ですが、感情に時間を取られる傾向はあります」
「耳が痛いです」
「痛いなら覚えなさい」
厳しい。
でもありがたい。
私は深く頷いた。
「覚えます」
「なら、旧猟師道の使用条件も文書にすること。口頭では崩れます」
「はい」
「兵への温食は、特別恩恵にしないこと。巡回維持のための定例措置として記録しなさい」
「はい」
「ガルドには、事故時の撤退判断を明文化させること。現場に任せると、無理をします」
ガルドさん、たぶん無理する。
ものすごく分かる。
「分かりました」
私は一つずつ覚えた。
いや、覚えるだけでは足りない。
戻ったら書く。
ユリスに伝える。
文書にする。
それが、領地を動かすということだ。
「エレノア様」
「まだ何か」
「ありがとうございます。今日も助かりました」
「必要な助言をしただけです」
「それでも、ありがとうございます」
扉の向こうから返事はなかった。
でも、沈黙は柔らかかった。
現実に戻った私は、すぐに私的業務記録を開いた。
冬季巡回表、仮組み替え。
要因。
共同備蓄再配分。
山間村二村への優先輸送。
聖マルタ教会への薪・豆輸送増。
南村からの薪搬出。
王都献上準備による馬・飼葉圧迫。
対応。
巡回表、明朝までに正式命令書として発行。
旧猟師道を先触れ班に限定使用。
二人一組。
一名は経験者必須。
使用条件、弱風・小雪以下。
戻り時刻を明記。
遅延時は輸送隊待機、捜索判断はガルド。
通常道は物資輸送に使用。
西砦巡回は最低限維持。
兵の休息、一日半確保。
巡回前後に温食を支給。
雪芋傷み始め分を使用。ただし聖マルタ教会および領都炊き出し分は削らない。
巡回維持のための定例措置として記録。
事故時の撤退判断を明文化。
そこまで書いて、私は一行空けた。
そして、エレノア様の言葉を書き足した。
迷わないことではなく、迷ってよい時間を決めること。
ペン先が止まる。
また一つ、学んだ。
優しさは、遅れていい理由にはならない。
けれど、早く決めることだけが正しいわけでもない。
迷うなら、いつまで迷うかを決める。
それが、領主の仕事。
窓の外では、雪が細く降っていた。
明朝、巡回表は命令書になる。
旧猟師道を通る者がいる。
薪を運ぶ者がいる。
山間村で待つ者がいる。
聖マルタ教会では、粥を待つ子供たちがいる。
帳簿は、動き出せば足音になる。
馬の蹄になる。
凍った道を踏む靴音になる。
私は目を閉じ、胸の奥へ静かに呼びかけた。
エレノア様。
明日、あなたの巡回表が少し変わります。
でも、あなたが守ろうとしたものは変えません。
村も。
兵も。
この冬を、越させます。




