第8話 黒パンの店
灰麦と冬葡萄酒粕の保存菓子。
言葉にすると、なんとなく雰囲気はある。
北西辺境の祝い菓子。
雪深いヴァルツェン領で、冬を越すために作られた素朴な焼き菓子。
新王陛下と聖女リリアナ妃殿下の御代の安寧を祈って、王都へ届ける地味だけれど日持ちする品。
うん。
売り文句としては、悪くない。
問題は、実物がまだ存在していないことだった。
「……試作品って、どうやって作るんですかね」
私は執務室で、灰麦粉の見本袋を前にしてつぶやいた。
現代日本人として、焼き菓子は知っている。
クッキー、ビスケット、スコーン、クラッカー、パウンドケーキ。コンビニやスーパーでいくらでも買った。料理動画も見たことがある。小麦粉、バター、砂糖、卵。混ぜて焼く。ざっくり言えばそうだ。
でも、ここはヴァルツェン。
白い小麦粉は贅沢品。
砂糖も潤沢ではない。
バターも王都の焼き菓子ほど使えない。
主役は灰麦と冬葡萄酒粕。
どう考えても、素朴を通り越して固い何かができる未来しか見えない。
いや、固くても保存菓子ならいいのか。
兵糧っぽいやつ。
でも王都で売るなら、ただ固いだけでは駄目だ。
ロイ・ベルナーは商人だ。売れない品に販売権など持たせても意味がない。むしろ「女伯様は妙なものを押しつけてきた」と思われる。
それは困る。
エレノア様の信用を、灰麦菓子で削るわけにはいかない。
「女伯様、ハンナが参りました」
ミーナが扉の外から告げた。
「通して」
そう答えると、しばらくして一人の女性が入ってきた。
大柄ではないが、腕と肩にしっかり力のある人だった。年は四十前後だろうか。髪を布でまとめ、飾り気のない服に前掛けをつけている。指先には粉が残っていた。
ハンナ。
領都で黒パンを焼いている女。
領民代表としても扱いやすい人物。
そういう情報が頭に浮かぶ。
けれど、目の前の彼女は「代表」というより、もっと生活に近い人だった。
朝から火を起こし、粉をこね、焼き具合を見て、店先で客とやり合う人。
王都の噂より、今日の粉の質と薪の値段を見る人。
「女伯様」
ハンナは礼をした。
ぎこちないが、不作法ではない。
ただ、顔はこわばっている。
そりゃそうだ。
領主に呼び出されたパン屋である。
しかも相手は王都で冷血伯と呼ばれる女伯様。
怖いに決まっている。
「急に呼び立ててすみません」
言った瞬間、ハンナの目が丸くなった。
あ。
またやった。
でも、もう仕方ない。
私は最近、だんだん諦めてきた。
エレノア様の完全再現は無理だ。
できるだけ礼儀と威厳は保つ。
でも、必要なら謝るし、感謝もする。
それで周囲が「病後で柔らかくなった」と思うなら、もうその方向で押し通すしかない。
「い、いえ。女伯様のお呼びとあれば」
ハンナは少し戸惑いながら答えた。
私は机の上の袋を示す。
「灰麦粉と冬葡萄酒粕を使って、日持ちする焼き菓子を作りたいのです」
「焼き菓子、ですか」
「王都向けに。派手な菓子ではなく、ヴァルツェンらしい品として売る予定です」
ハンナの眉が上がった。
「王都に、灰麦の菓子を?」
「ええ」
「王都の方々は、白い粉と砂糖の菓子を食べるんじゃありませんか」
「その通りです」
「なら、灰麦なんぞ出したら、貧乏くさいと笑われますよ」
部屋の空気が少し張った。
ユリスが固まる。
ミーナも一瞬動きを止めた。
オルドは相変わらず静かだったが、視線だけがハンナに向いた。
ハンナ自身も、言ってからまずいと思ったらしい。
顔色が少し変わった。
私は彼女を見た。
怒る場面だろうか。
エレノア様なら、どう反応しただろう。
たぶん、無礼は咎める。
けれど、事実は事実として扱う。
なら、私もそうする。
「笑われる可能性はあります」
私がそう言うと、ハンナはさらに困惑した。
「だから、笑われない形にしたいのです。王都の真似ではなく、ヴァルツェンの品として」
「……ヴァルツェンの品」
「白くて甘い菓子では勝てません。けれど、日持ちする、香りがある、冬の保存食として意味がある。そういう品なら、別の価値があります」
ハンナは、机の上の灰麦粉に目を落とした。
「それで、あたしに?」
「あなたは領民が食べる黒パンを焼いている。灰麦の扱いも知っている。城館の厨房だけで王都向けに整えれば、ヴァルツェンらしさが消えます」
そう言うと、ハンナはぽかんとした顔をした。
「女伯様が、うちの黒パンを知っておいでで?」
私は一瞬言葉に詰まった。
エレノア様の記憶にはある。
ハンナの店。
黒パン。
固いが、酸味が少なく、日持ちがよい。
冬前に配給用の試作を出したことがある。
ただし、エレノア様本人が店に頻繁に行ったわけではない。
帳簿と報告で知っていた。
「報告で読んでいます。あなたの店の黒パンは、冬季配給用として保存性が高い」
「……味は?」
ハンナが、少し挑むように聞いた。
私は正直に答えた。
「食べたことはありません」
ハンナの口元が、わずかに引きつった。
呆れたのかもしれない。
そりゃそうだ。
食べたこともないのに、領民の味を知る人に頼みます、などと言っている。
私は小さく息を吸った。
「だから、今日食べます」
「はい?」
「あなたの店へ行きます。黒パンと、普段の灰麦の焼き菓子を食べます。そのうえで試作を考えます」
今度こそ、部屋全体が止まった。
ユリスが、書類を落としかけた。
ミーナが目を見開く。
オルドが静かに眉を動かす。
ハンナは完全に固まった。
「女伯様が、うちの店へ?」
「問題がありますか」
「問題しかありませんよ。うちは貴族様が来るような店じゃありません。床も古いし、椅子も固いし、パンも黒いです」
「ヴァルツェンのパンでしょう」
「それは、そうですが」
「なら、知る必要があります」
口にしてから、胸の奥に少し冷たい感覚が走った。
エレノア様だろうか。
反対?
それとも確認?
精神世界の扉を思い浮かべる。
声はない。
でも、拒絶ではない。
私は続けた。
「領民が何を食べて冬を越しているのか、私は知るべきです」
ハンナの顔から、からかうような色が消えた。
彼女はしばらく私を見て、それから深く頭を下げた。
「……分かりました。たいしたものは出せませんが」
「たいしたものを見に行くのではありません」
私は立ち上がった。
「日常を見に行きます」
ハンナの店は、領都グラウフェルトの市場通りから一本入った場所にあった。
王都の菓子店のような華やかさはない。
木の看板。
石造りの小さな窯。
粉の匂いと、焼けた黒パンの香ばしさ。
店先には、丸い黒パン、細長いライ麦パン、灰麦の薄焼き、雪芋を混ぜた団子のようなものが並んでいた。
私は外套の襟を押さえながら、店の前に立った。
周囲の人々が、明らかに固まっている。
そりゃそうだ。
領主が突然、町のパン屋に来たのである。
しかも冷血伯。
通りの端で、買い物かごを持った女性がこちらを見ている。子供が母親の後ろに隠れる。老人が帽子を取って頭を下げる。
怖がられている。
でも、憎まれている感じではない。
怖い。
けれど、敵ではない。
その微妙な距離が、肌で分かった。
「女伯様、中へどうぞ」
ハンナが扉を開ける。
店内は狭かった。
王都の優雅な喫茶室とは真逆だ。
壁際に粗い木の棚。奥に窯。小さな卓が二つ。椅子は本当に固そうだった。
ミーナが一瞬、私を座らせてよいものか迷った顔をした。
「ここで大丈夫です」
私は一番近い椅子に座った。
固い。
たしかに固い。
でも、悪くない。
ハンナは黒パンを厚めに切り、木皿に乗せた。それから灰麦の薄焼き、雪芋団子、豆の煮込みを少し添える。
「普段の食事です。女伯様のお口に合うかは……」
言葉を濁すハンナに、私は頷いた。
「いただきます」
しまった。
完全に日本語の食前挨拶が出た。
ミーナが一瞬だけ目を瞬かせる。
ハンナも首を傾げた。
でも、私はごまかすように黒パンを手に取った。
硬い。
ずっしりしている。
噛むと、酸味と香ばしさが広がった。白パンのようにふわふわではない。むしろ顎を使う。けれど、噛んでいるうちに甘みが出る。
これは、食事のパンだ。
腹にたまるパン。
冬を越すパン。
「おいしい」
自然に言葉が出た。
ハンナが固まった。
「……女伯様」
「硬いけれど、噛むほど味が出ます。豆の煮込みにも合います」
私は豆の煮込みを少しつけて食べた。
塩気と豆の甘み。
黒パンに染みる。
派手ではない。
でも、毎日食べるにはこういう味がいい。
いや、推しの身体で何を普通に食レポしているんだ、私は。
でも、本当においしい。
「雪芋団子も」
私は小さな団子を口に入れた。
もちもち、というより、ほくほくしている。灰麦粉が混ざっていて、少しざらつく。香ばしい。塩気がある。
「これ、焼き菓子に近づけられますか」
ハンナはようやく我に返った。
「甘くするなら、蜂蜜か干し果実が要ります。ですが、王都向けにするなら冬葡萄酒粕を練って、薄く焼く方が香りは出ます。厚くすると固くなりすぎる」
「日持ちは」
「薄焼きなら持ちます。ただ、割れやすい」
「割れても小袋で売るなら?」
ロイとの会話を思い出しながら言う。
「酒場や劇場の客がつまむ菓子として、割れた形を前提にできます」
ハンナは目を細めた。
「なるほど。綺麗な丸菓子じゃなく、欠片で売るんですね」
「ええ。薄く焼いた灰麦菓子。冬葡萄酒の香り。少し塩を効かせてもいいかもしれません」
「甘くない菓子ですか」
「王都の甘い菓子と違う方が、かえって印象に残るかもしれません」
ハンナはしばらく考え込み、それから窯の方を見た。
「試せます。蜂蜜をほんの少し、冬葡萄酒粕、灰麦粉、砕いた干し豆を少し。酒のつまみにもなる」
「お願いします」
「ですが、女伯様」
ハンナは、私をまっすぐ見た。
「これは王都の菓子にはなりませんよ。どこまでいっても、ヴァルツェンの食べ物です」
「それでいいのです」
「王都で笑われても?」
「笑わせておけばいい」
言ってから、自分で少し驚いた。
エレノア様の声だった。
冷たく、静かで、少しだけ突き放す声。
でも、中身は私の気持ちだった。
「王都の白パンにはなれません。なる必要もありません。ヴァルツェンの冬を越す味として出します」
ハンナは、私をじっと見た。
その顔から、最初の緊張が少しずつ抜けていく。
「女伯様は、変わりましたね」
まただ。
今日は何度言われるのか。
私は黒パンを置き、彼女を見る。
「そう見えますか」
「見えます」
ハンナは遠慮なく言った。
「前の女伯様なら、うちの椅子に座って黒パンを食べるなんてしませんでした」
「そうでしょうね」
「でも、前の女伯様なら、冬前の粉の配分は絶対に間違えませんでした」
私は黙った。
「怖い方でした。今も怖いですが」
今も怖いのか。
まあ、外見はエレノア様だし、仕方ない。
「けど、あの方が来てから、うちの子は冬に腹を減らして泣かなくなりました」
ハンナの声は、淡々としていた。
けれど、そこには生活の実感があった。
「冬税の時は、泣きましたよ。なんで今取るんだって。うちも苦しかった。でも、その後で粉の配分が整って、薪の共同置き場ができて、孤児院にも豆が届くようになった」
冬税。
王都で語られる悪評の一つ。
冷血伯が冬前に重税を課し、領民から搾り取った。
私は、その話を知っている。
でも今、目の前のハンナは別の現実を語っている。
「恨まなかったのですか」
思わず聞いてしまった。
ハンナは少し笑った。
「恨みましたよ、その時は」
正直な答えだった。
「女伯様の命令書を見て、冷たい方だと思いました。けれど、その冬に死んだ子供が少なかった。翌年はもっと少なかった。なら、こっちは考え直すしかない」
胸が詰まった。
王都では、冷血伯の悪評として残った出来事。
でも、この土地では、苦いが必要だった記憶として残っている。
エレノア様。
聞こえていますか。
あなたを恨んだ人も、ちゃんと見ています。
あなたが何を残したか。
「冷血伯って噂は、ここにも届いています」
ハンナは黒パンを棚に戻しながら言った。
「聖女様をいじめたとか、王子様を操ったとか、王都じゃいろいろ言ってるそうですね」
ミーナが少し身じろぎした。
私は手を止めた。
「あなたは、それを信じていますか」
「さあ」
ハンナは肩をすくめた。
「王都のことは分かりません。聖女様をいじめたかどうかも、王子様をどうしたかも。けど、あたしらにとって大事なのは、今年の粉と薪です」
その言葉が、店の中に落ちた。
「あたしらは、優しい物語じゃ冬を越せません。冷血でも何でもいい。うちの子は、女伯様のおかげで去年の冬を越したんです」
私は息を止めた。
冷血でも何でもいい。
それは優しい言葉ではない。
でも、信頼の言葉だった。
王都の華やかな称賛より、ずっと重い。
私は、何も言えなかった。
ハンナは少し照れくさそうに鼻を鳴らした。
「まあ、今の女伯様は、黒パン食べておいしいって言うので、別の意味で怖いですがね」
店内の空気が少し緩んだ。
ミーナが口元を押さえる。
ユリスは笑っていいのか迷っている。
私は真面目に答えた。
「本当においしかったので」
「それが怖いんですよ」
ハンナは笑った。
今度は、ちゃんと笑っていた。
その後、私たちは試作品の方針を決めた。
灰麦粉。
冬葡萄酒粕。
少量の蜂蜜。
砕いた干し豆。
塩。
薄く伸ばして焼き、あえて割って小袋に入れる。
名前はまだ未定。
ロイに見せる時は「ヴァルツェン冬焼き」とでも仮称をつけることになった。
正直、地味だ。
地味すぎる。
でも、それがいい気がした。
城館へ戻る馬車の中、私は外の通りを見ていた。
市場通りには、黒パンを抱えた人がいる。
薪を背負った少年がいる。
雪芋を袋に詰める老人がいる。
誰も華やかではない。
でも、生活がある。
エレノア様が守ってきたもの。
王都では物語にならなかったもの。
その夜、精神世界の扉の前に立つと、私は最初に言った。
「黒パン、おいしかったです」
扉の向こうが、しばらく沈黙した。
返答に困っているのが伝わってくる。
「……そうですか」
「はい。硬かったけど、噛むほど味が出ました。豆の煮込みにも合いました」
「なぜ、私に食事の感想を」
「あなたの領地の味なので」
扉の向こうで、紙の音が止まった。
「ハンナさんが言っていました。冬税の時は恨んだそうです。でも、その後で粉の配分が整って、薪の共同置き場ができて、孤児院にも豆が届くようになったって」
返事はない。
私は扉に触れないまま、少しだけ近づいた。
「冷血でも何でもいい。うちの子は、女伯様のおかげで去年の冬を越したんだ、って」
扉の向こうが、静まり返った。
沈黙が長い。
私は言い過ぎたかと思った。
でも、これは伝えたかった。
エレノア様が、自分では受け取れなかった言葉だから。
「あなたは、恨まれているだけじゃありません」
私は静かに言った。
「怖がられてはいます。たぶん今も。でも、それだけじゃない。ちゃんと、信じられています」
「……領民は、結果を見るものです」
ようやく声がした。
低く、かすれていた。
「はい」
「私個人を、信じているわけではありません」
「そうでしょうか」
「そうです。彼らが信じているのは、冬を越せた事実です」
「でも、その事実を作ったのは、あなたです」
返事はない。
「エレノア様。あなたが冷血伯と呼ばれたことは、消えません。でも、ヴァルツェンでは別の名前で覚えられています」
「別の名前?」
「冬を越させる方」
扉の向こうで、ほんの微かに息を呑む音がした。
「ハンナさんは、そういう意味のことを言っていました」
「……大げさです」
「そうやってすぐ小さくする」
「事実です」
「いいえ。これは評価です」
前にエレノア様が私へ言った言葉を、少しだけ返した。
扉の向こうから、困ったような沈黙が返ってきた。
「あなたは、時々意地が悪い」
「推しに似たのかもしれません」
「似ていません」
「そうですか?」
「似ていません」
強めに否定された。
私は少し笑った。
でも、すぐに真面目な声に戻した。
「保存菓子の試作は、ハンナさんが協力してくれることになりました。灰麦粉、冬葡萄酒粕、蜂蜜少し、砕いた干し豆、塩。薄く焼いて、割ったものを小袋にします」
「割ったものを?」
「はい。綺麗な丸菓子ではなく、つまめる欠片にします。酒場や小劇場で売るなら、その方が扱いやすいと」
「ロイ・ベルナーが好みそうです」
「私もそう思います」
扉の向こうで、少しだけ空気が和らいだ。
「名前は仮で、ヴァルツェン冬焼き」
「地味ですね」
「地味です」
「王都で売るには、もう少し整えなさい」
「やっぱりそう思います?」
「冬焼き、では保存食に聞こえます。祝いの品として売るなら、北雪焼き、あるいは冬葡萄灰麦菓子」
「冬葡萄灰麦菓子は説明的すぎませんか」
「説明は重要です」
「確かに」
私は少し考えた。
「北雪の灰麦菓子、とか」
「悪くありません」
推しから、悪くありません、いただきました。
私は内心で小さく拳を握った。
「では、試作品はそれで進めます」
「味見は」
「私がします」
「あなたは甘い評価をしそうです」
「失礼な。食べ物には正直です」
「黒パンをおいしいと言ったのでしょう」
「あれは本当においしかったです」
扉の向こうから、返事はなかった。
でも、少しだけ困惑している気配がした。
冷血伯エレノア様。
領民の黒パンを褒められて、反応に困っている。
可愛い。
いや、言わない。
言ったら扉が閉まる。
「エレノア様」
「何ですか」
「いつか、一緒に食べましょう」
扉の向こうが、静かになった。
「黒パンも、灰麦菓子も。あなたの領地の味ですから」
「……私は」
声が小さくなった。
「味など、分からなくても困りません」
「困ります」
「困りません」
「私が困ります」
言い切ると、扉の向こうで小さな沈黙があった。
「なぜ、あなたが」
「推しには、おいしいものを食べてほしいので」
「また、それですか」
「はい。またそれです」
返事はなかった。
けれど、扉は閉まらなかった。
現実に戻ったあと、私は私的業務記録を開いた。
ハンナの店、訪問。
黒パン、灰麦薄焼き、雪芋団子、豆煮込みを確認。
黒パン、保存性高。酸味少。日常食として有用。
灰麦菓子試作方針。
灰麦粉、冬葡萄酒粕、少量蜂蜜、干し豆、塩。
薄焼き後、欠片として小袋化。
仮称、北雪の灰麦菓子。
ロイ・ベルナーへ三日後提示。
そこまで書いて、私は少しだけ迷い、また一行を書き足した。
領民は、王都の物語ではなく、今年の粉と薪を見ている。
それはハンナの言葉だった。
そして、ヴァルツェンという領地そのものの言葉でもあった。
王都では、エレノア様は冷血伯と呼ばれる。
でも、この土地では違う。
怖がられている。
恨まれたこともある。
それでも、信じられている。
冬を越させる方として。
私はペンを置いた。
暖炉の火が、いつもより少しだけ明るく見えた。
明日は、北雪の灰麦菓子の試作が始まる。
きっと地味だ。
きっと王都の菓子には勝てない。
でも、それでいい。
ヴァルツェンは、王都になる必要はない。
エレノア様も、王都の物語に戻る必要はない。
この土地には、この土地の味がある。
硬くて、黒くて、噛むほど味が出る。
私は窓の外の雪を見ながら、そっと呟いた。
「エレノア様」
声は暖炉の音に混ざる。
「あなたの領地、ちゃんとおいしいですよ」
返事はなかった。
でも胸の奥で、扉の隙間から漏れる暖炉の火が、ほんの少しだけ強くなった気がした。




