第7話 約束を違えぬ女伯
第三区穀倉の雪芋腐敗は、ひとまず隠さずに済んだ。
腐ったものは廃棄する。
傷み始めたものは炊き出しと乾燥粉に回す。
保存できるものは山間村へ優先輸送する。
書類にすれば、それだけだった。
けれど、現場に行った私は知ってしまった。
腐った雪芋には匂いがある。
湿った床板には、踏んだ瞬間の嫌な沈み方がある。
倉番の顔には、処分を恐れる色がある。
帳簿の数字の向こうには、人がいる。
それを知った翌朝、今度は別の数字が私の前に置かれた。
「冬葡萄酒の契約分、ですか」
私は執務室の机に置かれた契約書を見下ろした。
ヴァルツェン領の若手文官、ユリス・バルクが少し硬い顔で頷く。年は若いが、冬備え台帳や契約書の整理を任されているあたり、かなり優秀なのだと思う。
「はい。王都への献上分として上位樽十五、中位樽五を確保したため、ベルナー商会との契約分に影響が出ます」
ベルナー商会。
ロイ・ベルナー。
ヴァルツェン領の商人代表。
名前を聞いた瞬間、頭の奥にぼんやりと情報が浮かぶ。
抜け目がない。
金勘定に厳しい。
王都との相場差をよく知っている。
けれど、ヴァルツェンを見捨てない。
エレノア様との取引では甘い利益は出ないが、約束を違えられたことはない。
最後の一文が、妙に強く残った。
約束を違えられたことはない。
その評価は、商人にとってかなり重い。
「契約内容を」
「上位樽六樽を冬季前に引き渡し。代金の一部はすでに前払い済みです。ベルナー商会は、その冬葡萄酒を王都の貴族向けに流す予定でした」
「こちらが王都献上に回したことで、六樽すべては渡せない」
「はい。現状、三樽なら渡せます。ただし残り三樽は来春以降の振り替えか、代替品の提示が必要です」
私は契約書をめくった。
違約金の項目。
納品期限。
品質保証。
来年分の優先交渉権。
文字は読める。
意味も分かる。
ただし、胃が痛い。
これ、完全にこちら都合の契約変更だ。
王都の婚礼祝賀献上命令が理由とはいえ、商人から見れば「約束した品を出せなくなりました」と言われるわけである。
現代日本なら、取引先から怒りのメールが来る案件だ。
いや、異世界でも怒られる。
絶対怒られる。
「ロイ・ベルナーは、すでに城館に?」
「はい。先ほど到着されました。かなり……その」
ユリスが言い淀む。
「怒っている?」
「表向きは、非常に礼儀正しく」
つまり怒っている。
大人の怒り方だ。
私は心の中で呻いた。
こういうのが一番怖い。
机を叩いて怒鳴る人より、丁寧に笑って数字を出してくる人の方が怖い。
「女伯様」
控えていたオルドが静かに口を開いた。
「ロイ・ベルナーは、女伯様との取引において厳しい相手です。ですが、理の通らぬ要求はいたしません」
「分かりました」
分かったと言ったが、分かっていない。
交渉などしたことがない。
会社員時代、取引先との調整くらいはした。納期をずらしてください、すみません、こちらの確認不足です、みたいなメールなら何度も書いた。
でも、これは違う。
領地の特産品。
商人組合との信用。
王都との販路。
冬の現金収入。
一つ間違えると、来年のヴァルツェンの財政に響く。
私が黙っていると、胸の奥に冷たい感覚が走った。
エレノア様だ。
声はしない。
でも、身体が契約書のある項目に視線を落とす。
来年分優先交渉権。
品質保証。
輸送費負担。
王都相場。
私は小さく息を吸った。
「交渉は、私が行います」
ユリスが顔を上げた。
「女伯様自らでございますか」
「こちらから契約変更を願う以上、文官だけに任せるべきではありません」
言いながら、私は心の中でエレノア様に確認する。
これで合っていますか。
返事はない。
ただ、胸の奥の冷たさが少しだけ収まった。
たぶん、大きくは間違っていない。
「ユリス、契約書と在庫表を。オルドは同席を。ミーナ、お茶をお願い。ベルナー氏には、待たせたことを詫びて通してください」
「かしこまりました」
ミーナが礼をして出ていく。
その背中を見ながら、私は自分の指先を見下ろした。
震えてはいない。
エレノア様の身体は、こういう時に本当に強い。
内心は、逃げたい。
商人怖い。
交渉怖い。
推しの信用を私が壊したらどうしよう。
でも、外側の女伯様は背筋を伸ばしている。
なら、私も座るしかない。
ロイ・ベルナーは、笑顔の男だった。
年齢は四十前後だろうか。
上質だが派手すぎない濃茶の上着。太すぎず細すぎない指には、商人らしい計算高さが見える。髪は後ろへ撫でつけられ、目元には柔らかな皺がある。
けれど、その笑顔は、にこやかな刃物みたいだった。
「女伯様。ご快癒、何よりでございます」
彼は丁寧に礼をした。
「心配をかけました」
そう返した瞬間、ロイの目がほんの少しだけ動いた。
しまった。
またか。
エレノア様は、たぶん商人にこんな素直な言い方をしない。
でも、言ってしまったものは仕方ない。
ロイは一拍置いてから、笑みを深めた。
「これは、珍しいお言葉をいただきました。雪でも深くなりそうですな」
軽口。
でも、探っている。
私は頷いた。
「雪は困ります。ですので、用件を進めましょう」
「相変わらず、お早い」
ロイは椅子に座ると、机の上の契約書へ視線を落とした。
「冬葡萄酒の件、と伺っております」
「ええ。王都への婚礼祝賀献上により、契約分六樽すべてを予定通り納めることが難しくなりました」
言った。
言ってしまった。
ロイは笑顔のまま、指先で帽子の縁を撫でた。
「なるほど。王都の祝福は、商人の帳簿にも降ってくるわけですな」
嫌味だ。
でも正論だ。
私は受け止めるしかない。
「こちらの都合であることは承知しています」
「女伯様がそう仰るとは」
「事実です」
「事実でございますな」
ロイは笑っている。
しかし目は笑っていない。
「ベルナー商会は、上位樽六樽を前提に王都貴族と話を進めております。ヴァルツェンの冬葡萄酒は、今年の婚礼景気で高値がつく。そこに間に合わせるため、こちらも馬車、人員、護衛を押さえました」
「はい」
「それが半分になるとなれば、損は小さくありません」
「承知しています」
「では、違約金を」
来た。
私は契約書を見る。
違約金は払えなくはない。
でも払えば、橋梁補修費と聖マルタ教会の冬支出に響く。
王都献上。
雪芋腐敗。
今度は違約金。
少しずつ削られていく。
王都の華やかな祝福の影で、地方の帳簿が薄くなっていく。
怒りが湧いた。
でも、ここで怒ってはいけない。
怒る相手はロイではない。
彼は契約通りの話をしているだけだ。
私は息を整えた。
「違約金を満額支払えば、ヴァルツェンの冬支出に影響が出ます」
「それは、こちらの問題ではありません」
「ええ。あなたの問題ではありません」
ロイの眉がわずかに上がった。
私は続けた。
「だからこそ、代替案を提示します」
「伺いましょう」
「今年は三樽を予定通り納品。残り三樽については、来春の第一仕込みから上位樽を優先的に割り当てます。その際、通常より一割低い価格で提供します」
ロイは笑顔のまま黙った。
私はさらに続ける。
「加えて、来年分の冬葡萄酒について、ベルナー商会に王都向け優先交渉権を与えます。ただし、契約数量には上限を設けます。領内取引と備蓄を圧迫しない範囲で」
「一割低い価格、優先交渉権。悪くはありませんが、今年の婚礼景気は今年だけです」
「承知しています」
「来年の利益で、今年の穴が埋まるとは限りません」
「では、今年の代替品として、灰麦菓子と冬葡萄酒粕を使った保存菓子の販売権を付けます」
言った瞬間、私は自分で驚いた。
何それ。
いや、分かる。
灰麦菓子。
ヴァルツェンの寒冷地穀物、灰麦を使った焼き菓子。素朴で日持ちする。冬葡萄酒粕を練り込めば、香りが出る。
王都では珍しい。
婚礼の華やかな菓子には及ばないが、「北西辺境の祝い菓子」として売れる可能性がある。
この発想は、エレノア様だ。
いや、エレノア様の知識に、私の現代人的な「代替商品」感覚が混ざったのかもしれない。
ロイの笑顔が、少しだけ変わった。
初めて、商人の目になった。
「保存菓子ですか」
「白パンや砂糖菓子ほど華やかではありません。ただし、婚礼で王都が華やかなものに飽きた頃、地方色のある品は珍しがられます」
「女伯様が、そのような売り文句を?」
しまった。
少し現代人っぽかったか。
でも、引けない。
「王都は物語を好みます」
これは、エレノア様の記憶にもある。
レイグラードは、芸術と祝祭と噂の都。
美しいもの、感動的な物語、愛の勝利を好む。
「ならば、ヴァルツェンの品にも物語を付ければよい。雪深い北西で作られた、冬を越すための菓子。新王陛下と聖女リリアナ妃殿下の御代の安寧を祈る、質素だが日持ちする祝い菓子として」
口にしてから、胸が少し痛んだ。
まただ。
また聖女リリアナ妃殿下の名を使う。
王都の祝福に合わせた言葉を選ぶ。
嫌だ。
でも、売れるなら使う。
それで領地の穴が少しでも埋まるなら。
ロイは、しばらく私を見ていた。
「……以前の女伯様なら、保存菓子の販路など、商人に考えろと仰ったでしょうな」
部屋の空気が止まった。
ユリスが固まる。
オルドは動かない。
私はロイを見た。
踏み込まれた。
この人も、違和感に気づいている。
商人だから、人の変化に敏感なのだろう。
私は迷った。
どう返す。
病後だから?
考えを改めたから?
それとも黙る?
胸の奥で、扉の向こうのエレノア様の気配を探す。
返事はない。
私が答えるしかない。
「倒れたことで、いくつか考え直しました」
「ほう」
「領地を守るのは、命令だけでは足りません。商人が動かなければ、物は届かない。ならば、商人が動く理由もこちらで考えるべきでしょう」
ロイの目が細くなった。
「商人を信用なさると?」
「信用ではありません。必要性です」
これは、かなりエレノア様っぽい言い方だったと思う。
ロイは一瞬黙り、それから笑った。
「なるほど。そこは変わられませんな」
「変えるべきところと、変えてはいけないところがあります」
言いながら、自分の胸にも刺さった。
私はエレノア様の代わりではない。
でも、エレノア様を完全に真似ることもできない。
変わっている。
だからこそ、何を変えて、何を守るかを考えなければならない。
「では、保存菓子の試作品を拝見したい。灰麦と冬葡萄酒粕を使うのであれば、王都の酒場や小劇場にも流せるかもしれません」
「小劇場?」
「ええ。婚礼祝賀で人が集まる場所です。高級貴族向けの冬葡萄酒とは別口で、庶民向けの土産品として売る」
さすが商人。
転んでもただでは起きない。
私は頷いた。
「試作品は三日以内に用意します。厨房とハンナに相談を」
「ハンナの店ですか」
ロイが少し笑った。
「領民向けの黒パンを焼く女に、王都向けの菓子を?」
「王都向けだからこそ、領民の味を知る人に見てもらいます」
言ってから、これは玲奈の言葉だと思った。
エレノア様なら、王都向けの体裁を先に整えただろう。
でも私は、ヴァルツェンらしさを消したくなかった。
ロイはしばらく黙り、それから肩をすくめた。
「面白い。女伯様、やはり少し変わられましたな」
「病後ですので」
「便利な言葉でございます」
その通りすぎて、返す言葉がない。
「では、条件をまとめます」
ロイは指を一本立てた。
「今年の上位樽は三樽納品。残り三樽は来春の上位樽から優先割当、一割引き」
「はい」
「来年分の王都向け優先交渉権。ただし、領内備蓄と既存契約を圧迫しない上限付き」
「はい」
「灰麦と冬葡萄酒粕を使った保存菓子について、ベルナー商会に王都販売権を一季限りで与える。売れ行き次第で再交渉」
「一季限り」
「当然でございましょう。女伯様は、商人に甘くない」
「あなたも、領主に甘くない」
ロイは愉快そうに笑った。
「ええ。商売ですので」
交渉は、その形でまとまった。
完全にこちらの思い通りではない。
違約金を払わずに済んだ代わりに、来春の上位樽と保存菓子の販売権を渡すことになる。
将来の利益を少し削った。
でも、今の冬支出は守った。
これが正しいのか。
私には、まだ分からない。
ただ、ロイが立ち上がる時、彼は先ほどよりも少しだけ柔らかい顔をしていた。
「女伯様」
「何でしょう」
「こちらも、ヴァルツェンを見捨てるつもりはございません」
意外な言葉だった。
「ただし、商人は慈善では動けません。約束と利益があって初めて、雪の中でも馬車を出します」
「承知しています」
「女伯様との取引は、儲けだけ見れば面白くないことも多い」
ユリスがぎょっとした顔をした。
私は黙って聞いた。
「ですが、約束を違えられたことはない。だから、我々は来るのです」
胸の奥が、熱くなった。
それは、エレノア様への評価だ。
王都では冷血伯。
でも、商人にとっては。
怖くて、厳しくて、値切ってきて、甘い利益を出させてくれない。
けれど、約束を違えない相手。
信用できる領主。
「今回も、その約束は守ります」
私は言った。
「形は変えましたが、違えたままにはしません」
ロイは帽子を胸に当て、丁寧に礼をした。
「では、三日後の保存菓子を楽しみにしております」
彼が退室したあと、私は椅子に深く座り込んだ。
疲れた。
商人、怖い。
商人、強い。
でも、面白い。
ユリスが書類を抱えたまま、ぽつりと言った。
「女伯様」
「何?」
「保存菓子の販路という発想は、私にはありませんでした」
「私にも、半分くらいありませんでした」
「半分?」
しまった。
私は咳払いをした。
「……現場と帳簿を両方見る必要がある、という意味です」
無理がある。
でもユリスは真面目に頷いた。
「勉強になります」
ごめん、ユリス。
たぶん今のは勉強にならない。
オルドは何も言わなかった。
ただ、私の前に温かい茶を置いた。
「本日の交渉、お疲れ様でございました」
「オルド」
「はい」
「以前のエレノア様は、ロイ・ベルナーにどう対応していましたか」
オルドの手が、ほんの少し止まった。
それから彼は、静かに答えた。
「厳しく、正確に。決して余分な言葉はお与えになりませんでした」
「そうですか」
「ですが、支払いを遅らせたことも、契約を曖昧にしたこともございません」
オルドの声には、誇りがあった。
「商人たちは女伯様を恐れております。ですが同時に、信用もしております」
私は茶器を見つめた。
怖がられている。
でも、信用されている。
それは、きっと簡単に得られるものではない。
エレノア様が二年間、ここで積み上げたものだ。
私が壊してはいけないものだ。
その夜、精神世界の扉の前に立つと、いつもより早く声がした。
「保存菓子とは」
私は思わず瞬いた。
第一声がそこですか。
「灰麦と冬葡萄酒粕を使います。たぶん、素朴だけど香りのある焼き菓子になります」
「王都で売れると?」
「売り方次第です。王都は物語を好むので」
「……あなたの発想ですか」
「半分は。半分は、あなたの知識です」
扉の向こうは静かだった。
私は扉の前に座る。
「ロイさんが言っていました。あなたとの取引は儲けだけ見れば面白くない。でも、約束を違えられたことはない。だから来るんだって」
返事はない。
でも、空気が少し変わった。
「エレノア様」
「何ですか」
「ちゃんと残ってますよ」
私は静かに言った。
「あなたが積み上げた信用。怖がられてはいるけど、それだけじゃないです。商人たちは、あなたを信用しています」
「……商人は、利益で動きます」
「はい」
「信用も、利益の一部です」
「それでも、信用です」
沈黙。
長い沈黙。
それから、扉の向こうで小さく息を吐く音がした。
「あなたは、言葉を柔らかくしすぎます」
「よく言われます」
「危ういです」
「はい。自覚はあります」
「ですが」
声が少しだけ迷った。
「今日の交渉は、悪くありませんでした」
私は口元を押さえた。
また評価された。
いや、ここで騒ぐな。
推しに褒められている場合ではない。
でも、嬉しい。
「ありがとうございます」
「……嬉しそうですね」
「はい。推しに評価されたので」
「理解し難い」
いつもの言葉。
でも、少しだけ響きが柔らかい。
私は笑いをこらえた。
「エレノア様」
「まだ何か」
「保存菓子、試作品ができたら報告します」
「私に菓子の味は分かりません」
「でも、あなたの領地の味です」
扉の向こうが静かになった。
「黒パンや灰麦や雪芋や、そういう地味だけど冬を越すための味を、王都に持っていきます。白パンや砂糖菓子みたいに華やかじゃなくても、ヴァルツェンらしいものとして」
「……王都が喜ぶとは限りません」
「売り方次第です」
「商人のようなことを言いますね」
「今日、少し学びました」
扉の向こうで、かすかに紙が動いた。
「では、学んだことを忘れないように」
「はい」
私は頷いた。
現実に戻ったあと、私的業務記録に今日のことを書いた。
ベルナー商会、冬葡萄酒契約変更。
上位樽六のうち三を納品。
残三は来春上位樽より優先割当、一割引き。
来年分王都向け優先交渉権、ただし領内備蓄を圧迫しない上限付き。
灰麦および冬葡萄酒粕の保存菓子、王都販売権を一季限り付与。
違約金支払いは回避。
春の利益一部を先送り。
城館厨房、ハンナに試作依頼。
そこまで書いて、私は少し迷った。
エレノア様なら、たぶんここで終える。
でも、私は一行だけ書き足した。
信用は、帳簿に載らない備蓄である。
少し気取りすぎかもしれない。
でも、今日の実感だった。
雪芋は腐る。
冬葡萄酒は減る。
献納金は出ていく。
けれど信用は、目に見えないところで領地を支えている。
エレノア様が怖がられながら守ってきたもの。
約束を違えないことで積み上げてきたもの。
私はそれを、少しだけ受け取った。
窓の外では、雪が降っている。
王都ではきっと、婚礼の準備が進んでいるのだろう。
白い菓子。
甘い酒。
美しい音楽。
祝福の物語。
その片隅に、もしかしたら灰麦の保存菓子が並ぶかもしれない。
黒パンと雪芋の土地から来た、地味な祝い菓子として。
私は少しだけ笑った。
エレノア様。
あなたの領地の味を、王都に売り込みます。
たぶん、すごく地味です。
でも、私はそういうところも推しています。




