第6話 腐る雪芋
王都へ向かった早馬が、北街道の向こうへ消えてから三日が経った。
返書は出した。
冬葡萄酒も、白銀狐毛皮も、献納金も、どうにか領地が壊れない形に整えた。
もちろん、それで問題が終わるわけではない。
王都がどう受け取るか。
式典局が納得するか。
財務局に写しが届くか。
ロイ・ベルナーとの冬葡萄酒契約をどう調整するか。
献上用の外套が、王都で侮られない出来に仕上がるか。
考えることは山ほどある。
それでも私は、少しだけ息をついてしまっていた。
王都への返書は、出せた。
エレノア様の扉も、ほんの少しだけ開いた。
私は、彼女と一緒に判断できた。
だから次も、同じように一つずつ確かめればいい。
そう思っていた。
甘かった。
「女伯様」
朝の執務室に入ってきたユリス・バルクは、扉の前で足を止めた。
その顔は、紙より白かった。
「以前ご指示のありました、第三区穀倉の換気口再確認の件です。昨日、中央部まで確認が進みました」
私は羽根ペンを置いた。
「報告して」
「換気口の凍結だけではありませんでした。中央部の箱を動かしたところ、雪芋に腐敗が見つかりました」
部屋の空気が、そこで一段冷えた。
「規模は」
「現時点で確認できたのは、貯蔵量のおよそ一割三分です。ただし、下段の確認が終わっておりません」
一割三分。
数字だけなら、まだ取り返せるようにも聞こえる。
でも、ユリスの声の硬さが、それで済まないと告げていた。
「原因は」
「換気口の一部凍結と、床板の歪みによる湿気の滞留と思われます。倉番は、上段の状態がよかったため、発見が遅れたと」
上段の状態がよかった。
その言葉に、胸の奥が冷えた。
以前、エレノア様が言っていた。
第三区の雪芋は、上段を先に動かしてはいけない。
中央部から確認する。
床板の歪みがあるなら、下段はすでに傷みが出ている可能性がある。
あれは、これを見越してのことだったのか。
私は机の上に置かれた地図を見る。
第三区穀倉。
山間部向けの備蓄拠点。
ここが崩れると、山間村への配給計画に響く。
「補填は」
私が尋ねると、ユリスはすぐに別の資料を差し出した。
「中央穀倉から雪芋を回せば、数の上では補填可能です。ただし、中央穀倉分は領都周辺と聖マルタ教会への配給予定が含まれます」
「別の村から回す案は」
「南村は今年の収量が少なく、余剰がありません。北村は防寒具の件もあり、輸送人員を割けません。東側の農村からなら多少は回せますが、北街道沿いの荷馬を王都献上品の準備に使っております」
詰んでいる。
いや、詰んではいない。
でも、簡単ではない。
私は書類を見ながら、内心で頭を抱えた。
雪芋。
ヴァルツェン領の冬を支える根菜。
小麦が育ちにくいこの土地では、黒パン、大麦粥、灰麦、雪芋、豆が冬の食卓を支えている。
その中でも雪芋は、痩せた土でも育つありがたい作物だ。
ただし保存を誤ると腐る。
そして今、腐った。
私は思った。
腐った分を、どこかから持ってくればいいのでは。
足りない分を中央穀倉から補填して、あとで商人から買い戻す。現代日本の感覚なら、在庫の融通と追加発注だ。コンビニの棚が空いたら物流センターから回す、みたいな。
いや、違う。
ここは現代日本じゃない。
雪で道が閉じる。
馬も人も有限。
金を出せば明日届くわけではない。
それは分かっている。
分かっているけれど、目の前の腐敗分を見ていると、どうしても「足せばいい」と思ってしまう。
ユリスが私の返答を待っている。
ミーナが控えている。
オルドは黙っている。
部屋の空気が、じわじわと重くなる。
私は声を整えた。
「中央穀倉から補填する場合の不足見込みを出して」
「はい。領都周辺の配給を減らさずに回すなら、聖マルタ教会への予備分を削る形に……」
「それは駄目」
自分でも驚くくらい、即答だった。
聖マルタ教会。
孤児院を兼ねる場所。
そこには子供がいる。
体力のない老人も、病人も、行き場のない人もいる。
そこを削るのは、嫌だ。
ユリスがびくりと肩を揺らした。
私は慌てて言葉を足した。
「……教会分を削れば、弱い人から影響が出ます。別案を」
「は、はい」
弱い人から影響が出る。
言いながら、私は自分の甘さを感じていた。
削りたくない。
でも、どこかは削らなければならないかもしれない。
その時、私は決められるのか。
前に言った。
私も一緒に、嫌われる判断をします。
でも実際に「どこの配給を削るか」と迫られると、胸が苦しくなる。
エレノア様。
心の中で、扉の向こうへ呼びかけた。
返事はない。
当然だ。
彼女を毎回呼び出すわけにはいかない。
休んでほしいと願ったのは、私なのだから。
「女伯様」
オルドが静かに口を開いた。
「現地確認をなさいますか」
私は顔を上げた。
現地確認。
第三区穀倉へ行く。
寒い。
遠い。
たぶん臭い。
そして、現場を見ることになる。
腐った雪芋。
困っている倉番。
配給を待つ村。
正直、怖い。
でも、書類だけで判断できないのも分かる。
「行きます」
私が言うと、ユリスが慌てた。
「女伯様自らでございますか」
「数字だけでは分かりません。現地を見ます」
言った後で、私は心の中で少し笑った。
数字だけでは分からない。
以前のエレノア様なら、どう言っただろう。
いや、たぶん彼女も現地確認はしたはずだ。
ただし、もっと冷静に、もっと当然のように。
私はまだ、覚悟を固めるために言葉にしている。
「ガルドにも同行を。輸送順の見直しが必要になるかもしれません。ユリスは帳簿を持って。ミーナ、厚い外套を」
「かしこまりました」
ミーナがすぐに動いた。
オルドは静かに礼をした。
ユリスは書類を抱え直し、まだ少し青い顔で頷いた。
第三区穀倉は、領都グラウフェルトの外れから少し山側に入った場所にあった。
石と木で造られた低い建物。
雪を避けるため屋根は急角度で、入口は半地下のように少し低くなっている。周囲には荷車の跡が残り、固まった雪が灰色に汚れていた。
外に立った瞬間、空気が違った。
冷たい。
王都の冬とは違う。
これは、肌に刺さる寒さだ。
息を吸うと肺が痛い。
ミーナが外套の襟元を直してくれた。
「お寒くはありませんか」
「寒いです」
正直に答えると、ミーナは一瞬固まり、それから小さく笑いそうになった。
しまった。
また女伯様らしくなかったか。
でも寒いものは寒い。
エレノア様の身体は細い。体力も落ちている。寒さが骨に来る。
ガルド・ライナーが先に穀倉の入口を確認していた。
「中は臭います。長く入られぬ方がよろしい」
「状態を見ます」
「なら、口元を布で」
ガルドは短く言って、布を差し出した。
私は受け取る。
「ありがとう」
また言ってしまった。
ガルドの眉が少しだけ動いた。
でも、彼は何も言わなかった。
穀倉の中に入ると、すぐに腐った匂いがした。
甘酸っぱく、土っぽく、鼻の奥に残る臭い。
私は思わず眉を寄せた。
でも、身体は背筋を崩さない。
すごい。
推しの貴族根性が強すぎる。
中には木箱が積まれていた。
雪芋は土を軽く落とした状態で、藁と一緒に保管されている。上段のものは確かに見た目が悪くない。けれど、中央部の箱を一つ下ろすと、空気が変わった。
臭いが強くなる。
倉番の男が青ざめた顔で頭を下げた。
「申し訳ございません、女伯様。上の段は問題なく、まさか中がここまでとは」
私は彼を見た。
責める言葉が出そうになった。
いや、違う。
私ではなく、身体の奥にあるエレノア様の癖かもしれない。
報告遅延。
確認不足。
記録不備。
そう判断する冷静な部分がある。
でも、目の前の倉番は怯えている。
ここで責めれば、彼は次から隠すかもしれない。
それはまずい。
「いつ気づいたの」
「昨日です。中央の箱を動かした時に臭いが強く……すぐにユリス様へ」
「報告は早い」
私がそう言うと、倉番が顔を上げた。
「腐敗を出したことは問題です。ただし、気づいた時点で報告したことは正しい。隠さなかったことは評価します」
背後でユリスが息を呑んだ気配がした。
ガルドがこちらを見る。
倉番の目が揺れた。
「は……はい」
「原因確認をします。責任追及はその後」
私はそう言って、箱の中を覗いた。
雪芋の一部が黒ずみ、柔らかく崩れている。
思ったより、きつい。
これが食べ物として数えられていたものだと思うと、胸が痛い。
「ユリス、状態別に分けて記録を」
「はい。完全腐敗、傷み始め、保存可能の三分類でよろしいでしょうか」
私は頷きかけて、胸の奥に違和感を覚えた。
三分類。
足りない。
何か足りない。
エレノア様。
そう呼ぶ前に、頭の奥へ言葉が浮かんだ。
輸送可能。
近隣消費。
加工。
廃棄。
「四分類にして」
私は言った。
「完全腐敗は廃棄。傷み始めのうち、すぐ煮れば使えるものは領都の炊き出しへ。乾燥粉に回せるものは加工。保存可能分は山間村へ優先」
ユリスが素早く書き取る。
「乾燥粉、ですか」
「灰麦と混ぜて団子にできます。保存食には向きませんが、今週中の炊き出しなら使える」
言ってから、自分で驚いた。
そんな知識、私にはない。
これはエレノア様の記憶だ。
でも、声は聞こえない。
扉の向こうから助言されたのではない。
身体の奥に残ったものを、私が引っ張り出した。
少しだけ、共同作業の形が変わった気がした。
ガルドが木箱を見下ろしながら言う。
「山間村への輸送順も変える必要があります」
「どこを先に」
「西寄りの二村です。道が凍るのが早い。東側はまだ数日持ちます」
「ユリス、巡回表と合わせて」
「はい」
私は床を見る。
床板の一部が黒ずんでいた。
踏むと、かすかに沈む。
「ここ、湿気が上がっていますね」
倉番が慌てた。
「昨年までは問題なかったのですが」
「今年、雪解け水が多かった?」
「はい。春先に裏手の水路が一度詰まりまして」
そこか。
私は穀倉の外へ出て、裏手を見た。
細い排水路がある。
雪に半分埋もれている。
その先に、落ち葉と泥が詰まった跡。
床板だけの問題ではない。
換気口だけでもない。
排水路。
床板。
積み方。
確認順。
全部がつながっている。
補填すればいい、ではなかった。
腐った分だけ足すのでは足りない。
腐らせた仕組みを直さなければ、また腐る。
「……そういうことか」
私は小さく呟いた。
ユリスが顔を上げる。
「女伯様?」
「腐敗分の補填だけでは駄目です。穀倉そのものを直さないと、次も同じことが起きます」
「はい」
「排水路の雪と泥を除去。床板は応急補修。換気口は内側から温布で凍結を解く。積み方は中央に空気の道を作る形に変更」
言葉が次々に出る。
半分は私。
半分はエレノア様。
いや、もう少し違う。
エレノア様が残した知識を、私が現場を見ながら拾っている。
「倉番の確認手順も変えます。上段だけでなく、中央部を定期的に抜き取り確認。臭い、湿気、床の沈みを記録。異常があれば即報告」
「記録様式を作ります」
ユリスが言った。
その声には、少し力が戻っていた。
「お願いします」
私が言うと、彼は一瞬だけ目を伏せた。
以前なら「作りなさい」だったのだろう。
でも、もうこれは私の癖だ。
お願いする。
任せる。
それで動けるなら、その方がいい。
倉番は震える声で言った。
「女伯様、私は……」
「処分は後で決めます」
彼の顔が強張る。
私は続けた。
「ただし、今は処分より作業が先です。あなたはこの穀倉を一番知っている。腐敗箇所、湿気の出る場所、去年と違う点をすべてユリスに話して」
「……はい!」
倉番は深く頭を下げた。
その後、作業は一気に動き出した。
ガルドが騎士団から人員を回す。
ユリスが分類表を作る。
倉番たちが箱を運び出す。
ミーナは炊き出しへ回す雪芋の状態を確認し、聖マルタ教会への連絡役を手配した。
私は指示を出しながら、身体の限界を感じていた。
寒い。
臭い。
立っているのがつらい。
でも、目を逸らせなかった。
この腐った雪芋は、エレノア様が守ろうとしていたものの失敗だ。
そして今、私が引き継いだ責任だ。
綺麗な物語ではない。
推しの救済といっても、実際にやるのは腐った芋の分類だ。
でも、ここに人の命がある。
昼過ぎ、ようやく一段落した。
完全腐敗は想定より多く、一割六分。
傷み始めは二割近い。
保存可能分だけを見れば、山間村への配給は予定を組み直さなければならない。
中央穀倉から一部補填。
領都炊き出しで傷み始めを消費。
乾燥粉への加工。
山間村二つを優先。
聖マルタ教会分は維持。
ただし、領都周辺の予備分を一部減らす。
完全な解決ではない。
どこかに負担は出る。
それでも、全体の死者を減らすための線引き。
私はその言葉を頭の中で繰り返した。
全体の死者を減らす。
嫌な言葉だ。
でも、必要な言葉だ。
城館へ戻る馬車の中で、私は目を閉じた。
すぐに、精神世界の廊下へ落ちる。
扉の前。
今日は、扉の隙間からほんの少しだけ暖炉の光が漏れていた。
「エレノア様」
私は声をかけた。
「第三区、見てきました」
返事はない。
でも、向こうに気配はある。
「腐敗は一割六分。傷み始めが二割近くありました。排水路の詰まり、床板の湿気、換気口の凍結、積み方の問題。全部つながっていました」
私は扉の前に座った。
「最初、私は腐った分を補填すればいいと思いました」
言っていて恥ずかしくなった。
「でも、違いました。足せば済む話じゃなかった。腐った理由を直さないと、また腐る。穀倉だけじゃなくて、輸送順も、配給順も、確認手順も変えないといけない」
扉の向こうで、かすかに紙の音がした。
「あなたは、こういうものをずっと見ていたんですね」
私は膝の上で手を握った。
「王都では、冷血伯って呼ばれていたけど。ここでやっていたのは、腐った芋を隠さず数えることだった」
その言い方が、少しおかしくて、少し泣きたくなった。
「すごいです、エレノア様」
沈黙。
いつものように、「不要です」と返ってくるかと思った。
でも、今日は違った。
扉の向こうから、小さな声がした。
「……雪芋は、隠すと増えます」
私は顔を上げた。
「腐敗も、不足も、不正も。見なかったことにすると、必ず増える」
「はい」
「だから、嫌でも数えなければなりません」
声は静かだった。
けれど、その奥に疲労があった。
「泣かれても、恨まれても、倉を開けられない時があります。逆に、倉を開けなければならない時もある。どちらも、数字を見なければ決められません」
「今日、少しだけ分かりました」
「少しだけでよいです」
意外な言葉だった。
「全部分かったと思われる方が、困ります」
私は思わず笑った。
「手厳しいですね」
「事実です」
「はい。事実です」
少しだけ、会話が自然になっている。
扉はまだ閉じている。
でも、隙間は残っている。
私はその隙間を見ないようにしながら、言った。
「倉番の人、すごく怯えていました」
「当然です。備蓄管理の不備です」
「でも、隠さず報告したことは評価しました」
沈黙。
私は少し不安になった。
エレノア様なら違う判断だっただろうか。
すると、扉の向こうから声がした。
「……悪くありません」
胸が跳ねた。
「腐敗を出したことと、報告したことは分けて扱うべきです。報告まで罰すれば、次は隠します」
「ですよね」
「ただし、手順不備は処理してください」
「はい」
「甘くしてはいけません」
「はい」
私は頷いた。
甘くしない。
でも、潰さない。
この線引きが難しい。
「エレノア様」
「何ですか」
「今日、あなたの記憶というか、知識みたいなものが少し浮かびました。乾燥粉に回すとか、積み方を変えるとか」
「……そうですか」
「嫌ではありませんか」
どうしても聞きたかった。
私は彼女の身体を動かしている。
彼女の記憶も使っている。
それは便利だ。
でも、便利で済ませていいのか。
「あなたの中に勝手に入って、勝手に使っているみたいで」
扉の向こうは、しばらく静かだった。
やがて、声がした。
「領地を守るために必要なら、使いなさい」
私は息を呑んだ。
「ただし」
「はい」
「分からないことを、分かったふりはしないでください」
その言葉は重かった。
「はい。約束します」
「あなたは、すぐ感情で動こうとします」
「……はい」
「ですが、隠さず尋ねるところは、悪くありません」
私は目を丸くした。
え。
今、褒められた?
エレノア様に?
「今の、褒めました?」
「評価です」
「褒めですよね?」
「評価です」
声が少しだけ硬くなった。
私は慌てて口を押さえた。
でも、嬉しかった。
推しに評価された。
これはもう、実質ご褒美では。
いや、駄目だ。
精神世界でにやけるな。
「ありがとうございます」
「……なぜ嬉しそうなのですか」
「推しに評価されたので」
「また、その言葉ですか」
呆れたような声。
でも、完全な拒絶ではない。
私は笑いをこらえた。
「はい。今日も推しています」
扉の向こうで、長い沈黙があった。
それから、とても小さく。
「……理解し難い」
そう聞こえた。
でも、扉は閉まらなかった。
城館に戻ると、ユリスがすぐに記録様式の草案を持ってきた。
早い。
この若手文官、有能だ。
ただ、顔にはまだ不安があった。
「女伯様、腐敗分の記録ですが……完全腐敗分を正確に記せば、倉番の責任が重くなります」
「記しなさい」
私は言った。
「ただし、報告時刻も記録します。発見後すぐ報告したことも明記して」
「はい」
「責任は、腐敗を出した管理不備にあります。報告した行為にはありません。そこを混同しないように」
ユリスが、はっとしたように顔を上げた。
「かしこまりました」
「それから、今回の腐敗で削れた配給、補填元、先送りした予備分を一覧にして。王都献上の影響と分けて記録します」
「王都献上の影響も、別記録に?」
「ええ。何がどこを圧迫したか、後で分からなくなるのが一番困ります」
ユリスは少しだけ目を輝かせた。
「承知しました。項目を分けます」
「お願いします」
彼は頭を下げ、足早に出ていった。
昨日より、少し背筋が伸びている気がした。
ミーナが温かい茶を置いてくれる。
「お疲れ様でございました」
「ありがとう。正直、疲れました」
そう言うと、ミーナは今度こそ少し笑った。
「女伯様がそのように仰るのは、珍しゅうございます」
「言わなすぎたのかもしれません」
私が答えると、ミーナは何か言いかけて、やめた。
代わりに、静かに頭を下げる。
「本日は、少しでも早くお休みくださいませ」
「そうします」
即答すると、ミーナは本当に驚いた顔をした。
私は思わず苦笑しそうになった。
エレノア様。
あなた、どれだけ休まない人だったんですか。
その夜。
私的業務記録の新しいページに、私は今日の出来事を記した。
第三区穀倉、雪芋腐敗確認。
完全腐敗、一割六分。
傷み始め、およそ二割。
原因。
排水路詰まり。
床板湿気。
換気口凍結。
積載手順不備。
対応。
完全腐敗分は廃棄。
傷み始めは炊き出しおよび乾燥粉加工。
保存可能分は山間村へ優先輸送。
聖マルタ教会分は維持。
領都周辺予備分を一部調整。
倉番、発見後即報告。
管理不備と報告行為は分けて扱うこと。
そこまで書いて、私はペンを止めた。
エレノア様なら、ここで終えるだろう。
でも、私は少し迷ってから、一行だけ書き足した。
腐ったものは、隠すと増える。
これは、エレノア様の言葉。
そして今日、私が学んだこと。
私はその一文を見つめた。
王都の悪評も、そうなのかもしれない。
誤解も、傷も、腐敗も。
見なかったことにすると、増える。
なら、いつか数えなければならない。
エレノア様が何を背負ってきたのか。
王都が何を見なかったのか。
私が何を知らずに推していたのか。
全部。
すぐには無理でも、少しずつ。
暖炉の火が揺れた。
窓の外では雪が降っている。
ヴァルツェンの冬は、やっぱり静かではない。
風が鳴り、木が軋み、遠くで犬が吠える。
その音の中で、私はそっと胸に手を当てた。
扉の向こうにいる彼女へ、心の中で呼びかける。
エレノア様。
今日は、雪芋が腐りました。
でも、隠しませんでした。
あなたが教えてくれたから。
私はまだ、領主には程遠い。
でも、今日ひとつだけ覚えました。
守るというのは、綺麗なものだけを見ることではない。
腐ったものを、ちゃんと数えることなのだと。




