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断罪後の悪役令嬢も、私は推している  作者: Manabit
第一章 冷血伯は、まだ消えていない

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第5話 婚礼献上の処理

 王都への返書草案は、三度書き直された。


 一度目は、ユリスの文章が正直すぎた。


 二度目は、私の修正が少し感情的すぎた。


 三度目は、エレノア様の助言が入った。


 結果として、机の上には、見事なまでに礼儀正しく、見事なまでに本音を隠した文書が置かれている。


 新王陛下と聖女リリアナ妃殿下の御成婚を、ヴァルツェン領一同、心より寿(ことほ)ぐ。


 北西辺境の冬を守る品々を、祝意として献上する。


 冬葡萄酒二十樽。


 白銀狐毛皮四枚。


 羊毛布十二反。


 革裏地付き防寒外套二十着。


 献納金は一部即納、残額は春の雪解け後に納める。また、その一部は北街道整備協力金として、王都と北西を結ぶ道を整えるために用いることを願い出る。


 文章だけ読めば、忠誠と祝意に満ちた献上だった。


 でも、私は知っている。


 これは、領地の冬を削られないための防衛線だ。


 王都に逆らわず、けれど言いなりにもならない。祝福を否定せず、でも祝福のために領民を凍えさせない。


 エレノア様の判断。


 冷静で、現実的で、苦い判断。


 私はその文書を見下ろしながら、どうしても納得しきれずにいた。


 正しい。


 たぶん、これが正しい。


 けれど、胸の奥がざらざらする。


「……出したくない」


 誰もいない執務室で、私は小さく呟いた。


 言ってはいけない言葉だと分かっていた。


 領主として。


 ヴァルツェン女伯として。


 エレノア様の身体を借りている者として。


 でも、どうしても思ってしまう。


 出したくない。


 新王陛下と聖女リリアナ妃殿下の婚礼を祝うために、どうしてエレノア様が献上しなければならないのか。


 王都で悪役にされた。


 冷血伯と呼ばれた。


 王太子殿下を支えてきたのに、王の隣に立つ未来を失った。


 それでも領地へ退いて、冬を越させるために働いてきた。


 その彼女に、御成婚おめでとうございます、と言わせるのか。


 しかも、冬葡萄酒と毛皮と金を添えて。


 ふざけないでほしい。


 私は文書の端を握った。


 エレノア様の白く細い指が、紙を潰しそうになる。


 慌てて力を抜いた。


 だめだ。


 これは公文書だ。


 推しへの怒りで公文書を破るな、私。


 でも怒りは消えない。


 むしろ、日を追うごとに強くなる。


 昨日までは混乱が勝っていた。今日は違う。領地の数字を見た。家臣たちの顔を見た。北村の防寒具も、聖マルタ教会の薪も、第三穀倉の雪芋も知った。


 この献上は、ただの祝賀ではない。


 ヴァルツェンの冬に手を突っ込む命令だ。


 そしてそれを出した王都は、きっと自分たちが何を削っているのか分かっていない。


 祝福。


 愛。


 新しい時代。


 そういう美しい言葉の下に、誰かの薪が消えることを知らない。


 いや、知らないでは済まない。


 知ろうとしていない。


「こんなの、出さなくていいじゃないですか」


 その言葉は、胸の奥へ落ちた。


 次の瞬間、私は精神世界の廊下に立っていた。


 重い木の扉。


 その向こうに、エレノア様がいる。


 私は扉の前まで歩き、立ち止まった。


 今日は、呼ぶ前から気配がした。


 扉の向こうで、誰かが静かに座っている。


「エレノア様」


 返事はない。


 でも、聞いている。


 私はそう感じた。


「返書の草案ができました」


 沈黙。


「あなたの助言通り、冬葡萄酒は二十樽。ただし上位樽十五、中位樽五。毛皮は四枚に抑えて、羊毛布と外套を添えます。献納金は分納。残りは北街道整備協力金として名目変更を願い出る形です」


「……問題ありません」


 扉の向こうから、静かな声がした。


 問題ありません。


 その言葉に、私はかちんと来た。


 この人はまた、それを言う。


 問題ない。


 大丈夫。


 必要な処理。


 そうやって自分の痛みを全部、帳簿の余白に押し込める。


「本当に、問題ありませんか」


 私の声は、思ったより硬かった。


 扉の向こうが静かになる。


「王都への返書としては、妥当です」


「そういう話ではなくて」


 私は一歩、扉へ近づいた。


 触れない。


 でも、近づいた。


「エレノア様は、本当にこれでいいんですか」


「よいも悪いもありません。王家からの命令です」


「命令なら、何でも受けるんですか」


「受け方を調整しています」


「そうじゃなくて!」


 声が廊下に響いた。


 自分でも驚いた。


 私は慌てて口を押さえそうになり、でもやめた。


 ここでは、言わなければいけない。


 現実の執務室では女伯様の顔をしなければならない。


 でも、ここでは。


 この扉の前では。


「どうして、あなたが祝わなきゃいけないんですか」


 扉の向こうから、返事はなかった。


「王太子殿下を支えてきたのは、あなたでしょう。聖女リリアナ様が政治利用されないように見ていたのも、あなたでしょう。嫌われる判断をして、恨まれて、冷血伯って呼ばれて、それでも国と領地を守ってきたのは、あなたでしょう」


 言葉が止まらなかった。


 これは私の怒りだ。


 遠野玲奈の怒り。


 画面越しに断罪イベントを見て、ずっと納得できなかった私の怒り。


 そして今、エレノア様の帳簿と領地を見て、さらに強くなった怒り。


「なのに、その王都が、あなたに婚礼の献上を求めるんですか。新王陛下と聖女リリアナ妃殿下の御成婚を、心より寿げって。そんなの、あんまりじゃないですか」


「……玲奈」


 初めて、名前を呼ばれた。


 私は息を止めた。


 扉の向こうの声は、小さかった。


 けれど、確かに私の名を呼んだ。


「感情で返書を書いてはいけません」


 その一言で、胸が刺されたように痛んだ。


「分かっています」


「分かっていません」


 静かな声。


 けれど、昨日までより少し強い。


「王都への献上を拒めば、ヴァルツェンは反抗の意思ありと見なされます」


「だからって」


「監査が入ります。冬の半ばに。北街道が閉じかけた時期に。監査官の護衛、宿泊、接待、記録提出、倉の確認。すべて人手を取られます」


「……」


「献上拒否の噂が立てば、商人は契約を渋ります。王都向けの販路が細れば、春先の現金収入が落ちます。現金が落ちれば、橋梁補修費も薬草の買い付けも遅れます」


「でも」


「王家と完全に対立すれば、ヴァルツェンは孤立します。ここは北西の要地です。国境があります。西砦があります。王都を憎んで領地を危険に晒すことは、領主の判断ではありません」


 正しい。


 正しい。


 全部、正しい。


 だからこそ、苦しい。


「じゃあ、エレノア様は平気なんですか」


 私の声が震えた。


「あなたを傷つけた人たちの婚礼を祝って、平気なんですか」


 扉の向こうから、長い沈黙が返った。


 私は言い過ぎたと思った。


 でも、撤回できなかった。


 だって聞きたかった。


 エレノア様が本当に平気なはずがない。


 なのにこの人は、平気なふりをして、必要な処理だと言って、また自分だけを切り捨てようとしている。


 しばらくして、扉の向こうから声がした。


「平気である必要はありません」


 思っていた答えと違って、私は黙った。


「平気でなくても、処理はできます」


 私は唇を噛んだ。


 違う。


 そういうことじゃない。


 でも、エレノア様にとっては、たぶんそういうことなのだ。


 感情があっても、仕事は止まらない。


 傷ついていても、冬は来る。


 泣きたくても、薪は数えなければならない。


「私は……」


 扉の向こうの声が、少しだけ掠れた。


「私は、アルベルト陛下を完全に憎んではいません」


 その言葉に、胸がぎゅっと縮んだ。


「聖女リリアナ妃殿下も、悪人ではありません」


「……でも」


「だからこそ、余計に始末が悪いのです」


 静かな声だった。


 怒りよりも深い疲労があった。


「陛下は善良でした。民を救いたいと、本気で思っておられた。聖女リリアナ様も、苦しむ人を放っておけない方でした。お二人の願いは、正しいことが多かった」


「だったら、どうして」


「正しい願いほど、数字を伴わなければ人を殺します」


 私は何も言えなくなった。


 それは、エレノア様の記録にもあった考え方だ。


 優しい理想。


 けれど、それを成立させるためには、財源、人員、責任、順番が必要になる。


 それを見ていたのが、エレノア様だった。


「私は、陛下の理想を否定したかったわけではありません。聖女リリアナ様の善意を踏みにじりたかったわけでもない。ただ、整えなければ、壊れるものがあった」


 扉の向こうで、布がかすかに擦れる音がした。


「ですが、私の言葉は冷たかったのでしょう。私の態度は、厳しすぎたのでしょう。私は、説明をしなかった。信じていただけると思っていたのかもしれません。あるいは、信じられなくても結果が残ればよいと、思っていたのかもしれません」


「エレノア様……」


「結果は、残りませんでした」


 声が途切れた。


「王都に残ったのは、冷血伯という名だけです」


 私は拳を握った。


 違う。


 違うと言いたかった。


 結果は残っている。


 ヴァルツェンに残っている。


 冬備え台帳に残っている。


 家臣たちの信頼に残っている。


 でも、王都で傷ついたエレノア様には、それが届いていない。


「それでも」


 エレノア様の声が続く。


「ヴァルツェンは、残っています」


 私は目を見開いた。


「ここには、まだ仕事があります。北村の外套も、第三穀倉の雪芋も、聖マルタ教会の薪も、南村の橋も。私情で王都への返書を誤れば、最初に傷つくのは彼らです」


「……分かっています」


「いいえ。あなたは、まだ分かっていません」


 扉の向こうの声は、厳しかった。


 でも、責めているわけではなかった。


「玲奈。領主は、正しい怒りだけでは務まりません」


 その言葉は、重かった。


「怒りが正しくても、その怒りのために領民が飢えるなら、それは領主の判断ではありません。泣く人を見て倉を開けたくなっても、その結果、冬の後半に全村が飢えるなら、開けてはいけない。王都が許せなくても、対立によって街道が止まるなら、言葉を選ばなければならない」


 分かる。


 分かりたくないけれど、分かる。


 私が「出したくない」と言うのは簡単だ。


 推しを傷つけた王都に、何も渡したくない。


 そう叫ぶのは、気持ちがいい。


 でも、その気持ちよさの代金を払うのは、私ではない。


 ヴァルツェンの領民だ。


 王都の悪評ではなく、現実の寒さに晒される人たちだ。


「……嫌です」


 私は小さく言った。


「それでも、嫌です」


「嫌で構いません」


 エレノア様は言った。


「嫌なまま、正しい形を選ぶのです」


 ああ。


 そうか。


 この人は、ずっとそうしてきたのだ。


 嫌だった。


 傷ついた。


 悔しかった。


 それでも、必要な形を選んだ。


 だから冷血伯と呼ばれた。


 感情がないからではない。


 感情を優先しなかったから。


 私はその場に座り込んだ。


 精神世界の廊下の冷たさが、膝に伝わる。


「エレノア様」


「何ですか」


「あなた、一人でこんなのをずっとやってたんですか」


 返事はなかった。


 沈黙が答えだった。


 私は目頭が熱くなった。


「それは、壊れますよ」


 扉の向こうで、空気が揺れた気がした。


「壊れて当然です。こんなの、一人で背負うものじゃないです」


「……領主の責任です」


「責任でも、一人で全部持つ必要はないです」


「綺麗事です」


「綺麗事かもしれません」


 私は扉に向かって顔を上げた。


「でも、私はあなたを一人にしたくありません」


 扉の向こうが静かになった。


 私は続けた。


「王都への返書は、出します。出したくないけど、出します。冬葡萄酒も、毛皮も、献納金も、あなたの案で処理します。領地を守るために」


 喉が痛い。


「でも、これはあなた一人の判断にはしません。私も嫌だと思ったまま、出します。あなたが平気なふりをしなくてもいいように」


「……意味が分かりません」


「私も、うまく言えません」


 本当にうまく言えなかった。


 でも、言いたいことはある。


「あなたが必要な判断をするなら、私もその苦さを一緒に持ちます。私はまだ何も分かってないし、役に立たないことも多いです。でも、あなた一人だけが冷血伯になるのは、嫌です」


 沈黙。


「私も一緒に、嫌われる判断をします」


 言った瞬間、胸の奥が震えた。


 怖い。


 本当は怖い。


 誰かに嫌われるのは怖い。


 間違えるのも怖い。


 推しの名を傷つけるのも、領地を壊すのも怖い。


 でも、それでも。


 扉の向こうの彼女を、もう一人にしたくない。


「だから、教えてください。怒りをどう扱えばいいのか。嫌な判断をどう通せばいいのか。領民を守るために、何を削って、何を残すべきなのか」


 私は深く頭を下げた。


「一緒に、判断してください」


 長い沈黙があった。


 廊下には、風の音もない。


 暖炉の音もない。


 ただ、扉の向こうに誰かがいる気配だけがあった。


 やがて、声がした。


「……返書の最後に」


「はい」


「ヴァルツェン領民一同、御成婚を寿ぐ、と書く必要はありません」


 私は顔を上げた。


「ヴァルツェン伯エレノア・フォン・ヴァルツェン、ならびに領内一同、北西の地より新王陛下と聖女リリアナ妃殿下の御代の安寧を祈る。そう書きなさい」


「寿ぐ、ではなく、安寧を祈る」


「祝福の言葉を減らします。ただし、祈りは残す」


 エレノア様らしい。


 ぎりぎりの線。


 祝いたくない感情を完全には殺さず、でも無礼にはしない。


 私はゆっくり頷いた。


「分かりました」


「冬葡萄酒の目録には、品質区分を内部記録として残すこと。王都提出分には書かない。ロイ・ベルナーには、契約分六樽のうち三樽を来春優先権付きで振り替える案を出します」


「はい」


「毛皮の不足については、ガルドに北村分を確認させてから最終数を確定。外套は古い型を修繕するなら、ミーナに布地の状態を見せなさい。見栄えが悪ければ、式典局に侮られます」


「はい」


「献納金の分納理由には、北街道の雪害予測と西砦の維持費を添えること。単なる資金不足ではなく、王国北西防衛のためと示します」


「はい」


 私は一つずつ覚えた。


 いや、覚えようとした。


 現実に戻ったら、すぐにユリスへ伝えよう。


 そして、ふと思った。


 今の会話は、昨日までより長い。


 エレノア様の声が、少しだけ近い。


 私は扉を見つめた。


「エレノア様」


「まだ何か」


「ありがとうございます」


 返事はない。


「それから、ごめんなさい。感情で怒りました」


「怒ること自体は、悪ではありません」


 意外な返答だった。


「悪いのは、怒りを判断の代わりにすることです」


 私は胸にその言葉を刻んだ。


「はい」


 沈黙。


 そして、扉の向こうから、少しだけ低い声がした。


「あなたは、本当に不思議な方ですね」


「よく言われます」


「褒めていません」


「分かっています」


 前にも似た会話をした。


 私は少し笑った。


 そうしたら、扉の向こうで、かすかに布が動く音がした。


 まるで、エレノア様が顔を上げたような。


 次の瞬間。


 重い木の扉が、ほんの少しだけ軋んだ。


 私は息を止めた。


 開いた。


 ほんの指一本分。


 暗い隙間ができた。


 中はよく見えない。


 でも、閉ざされていた扉が、確かに少しだけ開いた。


 胸がいっぱいになった。


 泣きそうになった。


 でも、泣いたら扉が閉まりそうで、私は必死にこらえた。


「……エレノア様」


「見ないでください」


 扉の向こうから、すぐに声がした。


 少しだけ慌てていた。


 私は全力で視線を下げた。


「見ません。絶対見ません。誓います」


「誓うほどのことではありません」


「いえ、重要です。推しのプライバシーは守ります」


「また、その言葉」


 困惑した声。


 でも、昨日ほど冷たくない。


 私は俯いたまま、笑いそうになるのをこらえた。


「推しですので」


「……理解し難いです」


「ゆっくりで大丈夫です」


 扉は、それ以上開かなかった。


 でも、閉まりもしなかった。


 それだけで十分だった。


 私は現実へ戻った。


 執務室の机の上には、返書草案が置かれている。


 インク壺。


 羽根ペン。


 冬葡萄酒の目録。


 毛皮の配分表。


 献納金の試算。


 全部がさっきと同じ場所にある。


 でも、私は少しだけ違っていた。


 怒りは消えていない。


 出したくない気持ちも、なくなっていない。


 それでも、どうするべきかは分かった。


 嫌なまま、正しい形を選ぶ。


 それが領主の判断。


 私は呼び鈴を鳴らした。


 すぐにミーナが入り、続いてオルドとユリスが呼ばれた。


「返書を最終修正します」


 私が言うと、ユリスが緊張した顔でペンを構えた。


「末尾を変えます。『ヴァルツェン伯エレノア・フォン・ヴァルツェン、ならびに領内一同、北西の地より新王陛下と聖女リリアナ妃殿下の御代の安寧を祈る』」


 ユリスが書き留める。


 オルドが静かに目を伏せた。


 彼には、たぶん分かったのだ。


 寿ぐ、ではない。


 祝福しきれない心を、礼儀の中に収めた文だと。


「冬葡萄酒の品質区分は内部記録にのみ残します。ロイ・ベルナーには契約分六樽のうち三樽を来春優先権付きで振り替える案を」


「はい」


「白銀狐毛皮は四枚で確定。ただしガルドに北村分を再確認させてください。外套はミーナ、布地と見栄えを確認して。王都に侮られる品にはしないこと」


「かしこまりました」


「献納金の分納理由には、北街道の雪害予測と西砦の維持費を添えます。王国北西防衛のためと明記して」


「承知いたしました」


 指示を出しながら、私は思った。


 これは私の判断ではない。


 エレノア様の判断だ。


 でも、もう「借りただけ」ではない。


 私は、嫌だと思った。


 怒った。


 そのうえで、出すと決めた。


 だからこれは、少しだけ私たちの判断だ。


 共同の。


 まだ小さく、頼りないけれど。


「女伯様」


 オルドが静かに声をかけた。


「この内容であれば、王都も容易には反抗と取れますまい」


「ええ」


「領内の冬備えも、最小限の損耗で済みます」


「最小限であって、無傷ではありません」


「はい」


 私は書類に目を落とした。


「だから、損耗分を記録します。今回の献上で削れたもの、先送りしたもの、補填が必要なもの。すべて一覧にして」


 ユリスが顔を上げた。


「すべて、でございますか」


「ええ。祝賀のために何を削ったか、私たちだけは忘れてはいけません」


 部屋が静かになった。


 ミーナが、息を呑んだのが分かった。


 オルドはしばらく私を見て、それから深く礼をした。


「かしこまりました」


 その日の午後、王都への返書は封じられた。


 王家の紋章が押された命令書に対し、ヴァルツェン伯の封蝋をもって返す。


 早馬の準備が整うまで、私は城館の玄関広間でその封書を見ていた。


 出したくない。


 まだ、そう思っている。


 でも、出す。


 ヴァルツェンを守るために。


 エレノア様を、これ以上一人にしないために。


 オルドが封書を使者へ渡した。


 扉が開く。


 冷たい風が入り込む。


 外では雪がちらついていた。


 使者が馬に乗り、北街道へ向けて走り出す。


 その背中が見えなくなるまで、私は見送った。


 心の中で、扉の向こうへ声をかける。


 エレノア様。


 出しました。


 あなたの判断で。


 私の怒りも、一緒に持って。


 返事はなかった。


 けれど、胸の奥で、あの扉の隙間から暖炉の火がほんの少しだけ揺れたような気がした。


 私は小さく息を吐いた。


 第一歩。


 たぶんこれは、本当に小さな一歩だ。


 王都はまだ何も知らない。


 領地の冬はこれから厳しくなる。


 エレノア様はまだ扉の向こうにいる。


 私はまだ、領主として何もかも未熟だ。


 でも。


 もう、完全な一人ではない。


「女伯様」


 ミーナがそっと外套を掛けてくれた。


「お身体が冷えます」


「ありがとう」


 自然に言葉が出た。


 ミーナは少しだけ驚き、それから柔らかく微笑んだ。


 オルドは見ないふりをしていた。


 私は窓の外を見た。


 雪の向こうに、北街道が続いている。


 その先に王都がある。


 アルベルト陛下がいる。


 聖女リリアナ妃殿下がいる。


 そして、冷血伯という物語がある。


 でも、ここには別の物語がある。


 黒パンと麦粥と雪芋の土地。


 薪を数え、橋を直し、腐った芋を記録する土地。


 エレノア様が守ってきた、ヴァルツェン。


 私は外套の前を押さえた。


 この身体は、まだ細くて冷たい。


 でも、確かに立っている。


 扉の向こうの彼女と一緒に。


 私は心の中で、そっと呟いた。


 エレノア様。


 次も、一緒に判断しましょう。


 雪は静かに降っていた。


 ヴァルツェンの冬は、まだ始まったばかりだった。


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