第4話 ヴァルツェンの朝
ヴァルツェンの朝は、静かではなかった。
雪混じりの風が窓を叩く音。
遠くで馬が鼻を鳴らす音。
廊下を行き交う靴音。
扉の向こうで誰かが小声で話し、すぐに黙る気配。
目を覚ました瞬間、私は布団の中で固まった。
ああ、今日も夢じゃない。
天蓋付きの寝台。重いカーテン。暖炉。白く細い手。長い銀髪。起き上がるだけで勝手に整う姿勢。
エレノア・フォン・ヴァルツェンの身体。
そして、その中にいる私。
遠野玲奈。
昨日はなんとか乗り切った。
王都への献上命令について、エレノア様の助言を受けながら、冬葡萄酒、白銀狐毛皮、献納金の処理方針を決めた。
すごかった。
エレノア様はすごかった。
上位樽と中位樽の名目を分けるとか、毛皮不足を「北西辺境の冬を守る品」に変えるとか、献納金を北街道整備協力金にずらすとか、発想が完全に実務の人だった。
推しが有能。
いや、知ってた。
知ってたけど、現場で浴びると威力が違う。
ただし、その代償として私は昨日の夜、寝台に戻った瞬間に意識を失った。
推しの身体、限界すぎる。
過労。
寝不足。
栄養不足。
精神的ダメージ。
全部乗せ。
これで領主業を続けていたエレノア様、どう考えてもおかしい。いや、すごい。すごいけど、おかしい。
「女伯様。お目覚めでいらっしゃいますか」
扉の向こうから、ミーナの声がした。
「起きています」
私が答えると、少し間を置いて扉が開いた。
ミーナ・クラウゼは、湯気の立つ洗面器と衣服を持って入ってきた。今日もきちんとしている。けれど、その目元には薄く疲れが見えた。
私が倒れてから、きっと彼女もまともに休んでいない。
胸が痛い。
「お加減はいかがでしょうか」
「昨日よりは、少し」
そう答えると、ミーナは一瞬だけ驚いた顔をした。
しまった。
また素直に答えすぎたか。
以前のエレノア様なら、たぶん「問題ありません」だった。百歩譲っても「執務に支障はありません」だ。
でも、昨日決めた。
無理に完璧なエレノア様のふりはしない。
間違った芝居をして領地を壊すくらいなら、病後で少し変わったと思われる方がいい。
「それは……ようございました」
ミーナの声が、少しだけ柔らかくなった。
彼女は洗面器を台に置き、私の髪を整え始めた。
鏡に映る顔は、何度見ても心臓に悪い。
冷たいほど整った顔立ち。
薄い灰青の瞳。
血色の悪い唇。
ゲームのスチルで見た「冷血伯エレノア」そのもの。
でも今、その内側で私は、ミーナに髪を梳かれながら、どうやって朝礼を乗り切るかで胃を痛めている。
そう。
朝礼。
ヴァルツェン城館の朝の執務確認。
今日、私は家臣団の前に出る。
オルド、ミーナ、ユリス、ガルド、各部署の責任者たち。
女伯様が倒れた。
目覚めた。
では、領政はどうなるのか。
家臣たちはそれを見に来る。
冷血伯がまだ冷血伯として立てるのか。
領主として判断できるのか。
私はそれを試される。
無理では?
いや、やるしかない。
「ミーナ」
「はい」
「今日の朝礼に出る者を、もう一度確認して」
「オルド様、ユリス様、ガルド団長、倉庫管理官、街道補修担当官、商人組合への連絡役、聖マルタ教会への使いを担う者が控えております」
多い。
聞いただけで胃が痛い。
「議題は」
「王都への返書草案、献上品の確保、北村の防寒具、第三穀倉の雪芋点検、聖マルタ教会への薪配分、それから……」
ミーナは少し言い淀んだ。
「それから?」
「女伯様のお倒れになった件について、城館内に不安が広がっております」
ですよね。
当然だ。
領主が倒れたのだ。しかもこの冬前に。王都から重い献上命令が来た直後に。
家臣からすれば、かなりまずい。
いや、私の内心を知ったらもっとまずい。
領主の中身が異世界のオタクです。
領地経営初心者です。
ただし推しへの愛と敬意はあります。
うん。言えない。
「不安を放置すれば、判断が鈍りますね」
私がそう言うと、ミーナはまた少し驚いた。
「……はい。おそらくは」
この驚き方にも、だんだん慣れてきた。
エレノア様は、正しい判断をする。
でも、その判断の前に「人が不安になっている」ことを口に出して扱うタイプではなかったのかもしれない。
たぶん、分かってはいた。
でも、数字や命令として処理していた。
私は違う。
人の不安は見える。
見えすぎる。
だからこそ、つらい。
「分かりました」
私は立ち上がった。
身体が少しふらつく。
ミーナが反射的に手を伸ばした。
私はその手を取っていいのか一瞬迷った。
エレノア様なら、取らない気がする。
でも、倒れたらもっと迷惑だ。
私は素直にミーナの手に指を添えた。
「ありがとう」
ミーナの指が、ぴくりと震えた。
また固まった。
やらかし三回目くらいだろうか。
でも、ミーナはすぐに俯いて、小さく言った。
「……もったいないお言葉でございます」
その声は、少し震えていた。
朝礼の間は、城館の一階にあった。
実務型の部屋だ。
王都のような華美さはない。壁にはヴァルツェン領の地図、街道図、穀倉位置図、冬季巡回路が掛けられている。長机の上には既に書類が並べられていた。
部屋に入った瞬間、全員が一斉に礼をした。
重い。
視線が重い。
心配。
緊張。
不安。
警戒。
それらが一気に肌に触れた。
私は呼吸を止めそうになった。
けれど身体は、勝手に歩いた。
背筋を伸ばし、歩幅を乱さず、上座の椅子まで進む。
すごい。
エレノア様の身体、本当に外面が強い。
内側の私は、今すぐ布団に戻りたいのに。
椅子に座ると、オルドが一歩前に出た。
「女伯様、ご無理はなさらぬよう」
静かな声だった。
だが、部屋全体に聞こえた。
これは牽制だ。
家臣たちへ向けた「女伯様は病後である」という説明であり、私に向けた「無理をするな」という警告でもある。
オルド、有能。
怖いくらい有能。
「承知しています」
私は頷いた。
「本日は、必要事項のみ確認します」
部屋の中に、わずかなざわめきが走った。
必要事項のみ。
たぶん、これもエレノア様らしくないのだろう。
以前なら体調など関係なく、全部処理したのかもしれない。
やめてほしい。
本当にやめてほしい。
推しの過労管理、誰かして。
いや、今は私がするしかない。
「まず、王都への返書草案」
ユリスが紙を差し出した。
緊張しすぎて、顔が白い。
昨日褒めたから、少しは楽になったかと思ったけれど、さすがに家臣団の前では固い。
私は草案に目を通した。
読みやすい。
数字も整っている。
文章は少し硬いが、悪くない。
ただ、王都への言い回しがやや直接的だ。
献納金満額は困難。
これでは、拒否に見える。
私はペンを取った。
身体が、自然に修正箇所へ線を引く。
「ここは『困難』ではなく、『北街道の冬季維持と併せ、より永続的な祝意として整える』に」
ユリスが一瞬目を丸くし、すぐにメモを取った。
「はい」
「献納金を削るのではありません。王都とヴァルツェンを結ぶ道を整える。その名目を前面に出します」
「かしこまりました」
言いながら、私は内心でエレノア様に感謝した。
昨日聞いた助言がなければ、絶対に出てこない。
次に、ガルド・ライナーが進み出た。
ヴァルツェン騎士団長。
大柄で、無骨で、見るからに現場の人だ。
彼は深く礼をしたが、目は鋭かった。
警戒されている。
たぶん私の柔らかさに。
この人は、優しい判断で現場が死ぬことを知っている人だ。
「北村の防寒具について報告します」
「聞きます」
「白銀狐毛皮を十枚抜かれれば、北村の子供と老人用の外套が足りません。羊毛布で代替するにも、輸送が遅れれば間に合わない可能性があります」
「白銀狐毛皮は四枚のみ献上。北村分は確保します」
ガルドの目が一瞬動いた。
「王都が納得しますか」
「納得させる文面を作ります」
「文面で冬は越せません」
部屋の空気が、ぴりっと張った。
ミーナが息を呑む気配がした。
ユリスが固まる。
ガルド、強い。
でも、言っていることは正しい。
文面で冬は越せない。
薪と外套と食料が必要だ。
私は目を伏せずに答えた。
「その通りです。だから物資は抜きません」
ガルドは黙った。
「王都には、白銀狐毛皮四枚、羊毛布十二反、革裏地付き防寒外套二十着を献上します。北村の分は確保。輸送は城館側で優先手配します」
「……それならば、現場は持ちます」
「持たせてください」
言った瞬間、ガルドの眉がわずかに動いた。
命令ではなく、依頼に聞こえたのかもしれない。
でも、今の私にはそう言うしかなかった。
私は現場を知らない。
ガルドは知っている。
なら、持たせてください、と言うしかない。
ガルドは少しだけ頭を下げた。
「承知しました」
次は倉庫管理官だった。
第三穀倉の雪芋点検。
ここで、私はつまずいた。
雪芋。
ヴァルツェン領の冬を支える根菜。
保存を誤ると腐る。
知識としては分かる。
でも、換気、床板、積み方、輸送順、村ごとの配給時期となると、急に分からなくなる。
倉庫管理官が数字を読み上げる。
第三区。
貯蔵量。
湿気。
床板の歪み。
換気口の凍結。
私は聞いているうちに、だんだん頭が白くなった。
まずい。
分からない。
この場で判断できない。
エレノア様。
心の中で呼びかけた。
返事はない。
そりゃそうだ。
精神世界に行っていない。
でも、領地のことなら。
雪芋は、領民の命に関わる。
エレノア様。
すみません。
少しだけ、教えてください。
胸の奥に、冷たい感覚が走った。
声ではない。
記憶でもない。
ただ、身体が机の上の地図へ視線を向けた。
第三区穀倉。
山間部。
北風。
湿気が抜けにくい。
床板。
換気。
輸送順。
言葉が浮かんだ。
「……第三区の雪芋は、上段を先に動かしてはいけません」
自分の口から出た言葉に、私自身が驚いた。
倉庫管理官が顔を上げた。
「下段から、ですか」
「いいえ。中央部から確認します。床板の歪みがあるなら、下段はすでに傷みが出ている可能性がある。上段を動かせば、崩れます」
どこから出てくるの、この知識。
エレノア様だ。
たぶん、扉の向こうからではなく、身体に残った判断の跡。
「換気口の凍結は、外側から叩き落とさないこと。木枠が割れます。内側から温めた布を当ててください。人員は二人一組。腐敗臭がある場合は、長く入らせない」
倉庫管理官が慌ててメモを取る。
ユリスも書いている。
ガルドがこちらをじっと見ていた。
怖い。
でも、今は止まれない。
「第三区の雪芋は、状態別に分けます。傷み始めは領都の炊き出しへ。保存可能分は山間村へ優先。完全に腐ったものは、数をごまかさず記録すること」
「廃棄分も、でございますか」
「当然です。腐敗分を隠せば、配給計画が狂います」
言った瞬間、部屋の空気が少し変わった。
あ。
今のは、エレノア様っぽかったのかもしれない。
冷たいけれど、正しい。
いや、冷たいんじゃない。
命を守るために必要な正確さだ。
倉庫管理官は深く頭を下げた。
「かしこまりました」
その後も、確認は続いた。
聖マルタ教会への薪配分。
孤児院の乳幼児数。
南村の橋梁補修。
商人組合への説明役。
どれも地味だ。
派手な魔法も、華やかな舞踏会も、胸のすく逆転劇もない。
でも、一つ間違えれば誰かが凍える。
一つ遅れれば誰かが飢える。
これが領主の仕事。
これが、エレノア様が背負っていたもの。
朝礼が終わる頃には、私は椅子に座っているだけで精一杯だった。
でも、倒れるわけにはいかない。
「本日の確認は以上です」
私がそう言うと、全員が礼をした。
その中で、ガルドだけが一歩前に出た。
「女伯様」
「何か」
「ご無礼を承知で申し上げます」
来た。
怖い。
「本日は、以前よりも確認が多うございました」
部屋の空気がまた固まった。
ガルドは続ける。
「ですが、判断は鈍っておりませんでした」
私は息を止めた。
「病後であれば、しばらくは確認を増やされるのがよろしいかと存じます。現場としても、その方が動きやすい」
これは。
認められた、のだろうか。
少なくとも、否定ではない。
私は静かに頷いた。
「そうします」
ガルドは礼をして下がった。
ユリスが少しほっとした顔をしている。
ミーナは泣きそうだった。
オルドは、相変わらず表情を動かさない。
けれど、私が立ち上がろうとした時、すっと近づいて椅子を引いてくれた。
「お疲れでございましょう」
「少し」
正直に答えると、オルドがわずかに目を細めた。
呆れたのか。
安心したのか。
分からない。
「執務室へお戻りください。残りの整理は、私とユリスで進めます」
「お願いします」
また言ってしまった。
お願いします。
女伯様らしくない言葉。
でも、オルドは今度は驚かなかった。
ただ、深く礼をした。
「承りました」
執務室へ戻る途中、ミーナがそっと歩調を合わせてくれた。
私は廊下の窓から外を見た。
灰色の空。
雪の気配。
城館の中庭では、使用人たちが薪を運んでいる。騎士が馬具を点検している。文官らしき若者が書類を抱えて走っている。
この領地は動いている。
エレノア様が作った仕組みで。
エレノア様を恐れながら、信じながら。
その重さに、私は少しだけ息苦しくなった。
執務室に入ると、扉が閉まった瞬間に力が抜けた。
机に手をつく。
「女伯様」
ミーナが慌てて近づく。
「大丈夫です」
そう言いかけて、止めた。
大丈夫ではない。
でも、倒れるほどではない。
「……少し、座ります」
「はい」
ミーナが椅子を引いてくれた。
私は腰を下ろし、目を閉じた。
すぐに、あの廊下が浮かんだ。
精神世界の扉。
私は心の中で、その前に立った。
現実のようにはっきりとは行けない。
でも、声だけは届く気がした。
エレノア様。
今日、朝礼をしました。
皆さん、不安そうでした。
でも、あなたの作った仕組みは動いていました。
ガルド団長は厳しいけれど、領民を守ろうとしていました。
ユリスさんは数字を揃えてくれました。
ミーナさんは、ずっと心配していました。
オルドさんは、あなたを守ろうとしています。
扉の向こうから返事はない。
けれど、私は続けた。
あなたが一人で作ったものは、ちゃんと残っています。
壊れていません。
だから、今は少し休んでください。
私も全部はできません。
でも、勝手に壊さないようにします。
その時、胸の奥で、ほんの微かな声がした気がした。
「……第三区の換気口は、夕方に再確認を」
私は思わず笑いそうになった。
休んでくださいと言っているのに、返事がそれ。
エレノア様らしい。
でも、声がした。
また、声が届いた。
「はい」
私は小さく答えた。
「再確認します」
目を開けると、ミーナがこちらを見ていた。
「女伯様?」
「第三区穀倉の換気口、夕方に再確認させてください」
「かしこまりました」
ミーナは少しだけ不思議そうにしながらも頷いた。
それから、迷うように口を開いた。
「女伯様」
「何?」
「本日の女伯様は……」
そこで彼女は言葉を止めた。
私は待った。
ミーナは俯き、指先を重ねた。
「以前より、少しだけ、お声をかけやすくなられたように思います」
心臓が跳ねた。
ばれた。
いや、完全にはばれていない。
でも、違和感は確実にある。
私は慎重に言葉を選んだ。
「倒れたことで、少し考えました」
「……はい」
「私は、説明が足りなかったのかもしれません」
これは、私の言葉であり、エレノア様への言葉でもあった。
ミーナは目を見開いた。
それから、泣きそうな顔で微笑んだ。
「そのように思ってくださるだけで、十分でございます」
十分ではない。
きっと全然足りない。
でも、最初の一歩としては、たぶん悪くない。
私は窓の外を見た。
雪が降り始めていた。
ヴァルツェンの冬。
王都では「辺境の寒村」と呼ばれるかもしれない土地。
でも、ここには人がいる。
帳簿の数字の向こうに、ちゃんと生活がある。
エレノア様は、それを守ってきた。
私はまだ、その全部を分かっていない。
でも、今日一日で少しだけ知った。
領主の仕事は、かっこいい断罪返しではない。
誰かの薪を数えること。
腐った雪芋を隠さず記録すること。
現場の人間に「持たせてください」と頭を下げること。
そして、不安な人たちの前で、倒れないように座っていること。
地味だ。
重い。
でも、ここにエレノア様の本当がある。
私は机の上の冬備え台帳に手を置いた。
扉の向こうにいる彼女へ、心の中でそっと告げる。
エレノア様。
ヴァルツェンの朝は、ちゃんと続いています。
あなたが守ってきた朝です。
だから私は、今日もそれを壊さないようにします。
そしていつか。
あなた自身にも、この朝を見てほしい。
窓硝子を、雪が静かに叩いた。
昨日より少しだけ、部屋の暖炉の火が温かく見えた。




