第3話 推しという言葉
冬葡萄酒の在庫表は、思っていたよりもずっと残酷だった。
数字が並んでいる。
樽数。品質。納入予定。王都向け。領内取引用。来年春までの保存分。商人組合との契約分。城館備蓄。
数字。
数字。
数字。
私はその表を前にして、心の中で静かに悲鳴を上げていた。
無理。
いや、読めなくはない。
読める。
文字は分かる。エレノア様の記憶なのか、身体に残っている知識なのか、ヴァルツェンの帳簿形式も理解できる。冬葡萄酒がただの嗜好品ではなく、領の重要な取引品であることも分かる。
分かるのに、判断ができない。
ここから二十樽を王都に出せば、どこがどう困るのか。商人組合との信用がどれほど削れるのか。領内の取引を削った場合、春先の現金収入にどれくらい響くのか。代替案として何を提示すれば、王都に反抗と見なされずに済むのか。
知識はある。
でも、責任の重さに手が止まる。
ゲームなら、選択肢を選べばよかった。
いいえ、ゲームの中のエレノア様は、そんな選択肢すら与えられていなかった。
悪役令嬢として立ち、冷たい台詞を言い、断罪される。
その裏で、こういう数字を見ていたなんて、誰も教えてくれなかった。
「女伯様」
机の向こうで、ユリス・バルクが緊張した顔をしていた。
若い文官。眼鏡の奥の目が真面目で、手元の資料を持つ指先に力が入っている。たぶん、私の沈黙を叱責前の沈黙だと思っている。
違う。
私は単に分からなくて固まっているだけです。
とは言えない。
「この数値で、間違いないのね」
口から出た声は、静かだった。
またしても外側だけは女伯様だった。
「はい。昨日、倉番と再確認いたしました。上位樽は二十六。中位樽は三十四。下位樽は十二です。ただし、上位樽のうち六樽はすでにベルナー商会との契約分に含まれております」
「契約違反にすれば、違約金が発生する」
「はい。金額は、こちらに」
ユリスが紙を差し出す。
私は受け取った。
手が勝手に、紙の上の必要な箇所だけを追った。
違約金。
支払期限。
来年分の優先販売権。
王都相場との差額。
うん。
なるほど。
なるほどじゃない。
これ、どうすればいいの。
上位樽を二十出せば、王都は満足する。けれど商人との契約に穴が開く。中位樽を混ぜれば、王都側に品質不足と見なされる可能性がある。献上品は、ただの物品ではない。忠誠の形だ。下手をすれば「ヴァルツェン伯は新王陛下の御成婚に劣等品を捧げた」と噂される。
その噂が王都でどう広がるか、私は知っている。
冷血伯。
聖女を妬んだ女。
王の祝福に泥を塗る女。
ああ、もう。
噂って本当に面倒くさい。
私は内心で頭を抱えた。
実際には抱えない。女伯様なので。
その代わり、机の上で指を重ねた。
「毛皮の方は」
「ガルド団長から報告が来ております。北村の防寒具分を確保する場合、献上に回せる白銀狐毛皮は最大で四枚です」
「要求は十枚」
「はい」
「羊毛布で代替する案は」
「可能ではあります。ただ、王都式典局が認めるかどうかは……」
ユリスの声が小さくなった。
認めるかどうか。
そう。
問題はそこだ。
こちらにはこちらの事情がある。冬が来る。雪が降る。北村の子供たちには防寒具が必要だ。そんなことは、ヴァルツェンに住む者なら誰でも分かる。
でも王都の式典局には、たぶん分からない。
彼らにとって白銀狐毛皮は、婚礼を飾る美しい献上品だ。
こちらにとっては、冬に人を死なせないための素材だ。
同じ毛皮なのに、見ているものが違う。
「女伯様、いかがいたしましょう」
ユリスの問いに、部屋の空気が重くなった。
オルドが控えている。
ミーナも茶器のそばにいる。
ユリスは返答を待っている。
私は、判断しなければならない。
女伯として。
エレノア様の身体を動かしている者として。
失敗すれば、領地に迷惑がかかる。
エレノア様の名にも傷がつく。
推しの名に。
推しの。
いや、違う。ここで推し活テンションを出すな。今は実務。実務。実務。
でも、分からない。
私は現代日本で、三十七年生きてきた。
離婚もした。仕事もしてきた。理不尽な謝罪も、空気を読まされる場面も、傷つけられた側が黙らされる嫌な感じも知っている。
でも、領地の冬を背負ったことはない。
私の判断で、誰かの薪が減るなんて経験はない。
喉が渇いた。
心臓が速い。
視界の端が少し白い。
まずい。
これ以上黙っていると、怪しまれる。
何か言わないと。
「……少し、考える時間を」
言った瞬間、ユリスが目を見開いた。
オルドの眉がわずかに動く。
あ。
また違和感。
エレノア様なら、その場で裁断したのだろう。
迷いを見せない。
迷っていても見せない。
私は、そこができない。
でも、できないものはできない。
無理に格好つけて間違える方が、ずっと悪い。
「判断を誤るわけにはいきません。ユリス、在庫表と契約書は置いていきなさい。半刻後に再度確認します」
「は、はい」
ユリスは慌てて頭を下げた。
ミーナが心配そうにこちらを見た。
オルドは何も言わない。
けれど、その沈黙が怖かった。
全員が退室したあと、私は机に両手をついた。
肩の力が抜ける。
「無理……」
思わず声が漏れた。
エレノア様の声で「無理」と言うの、ものすごく罪悪感がある。
でも無理。
書類の量も無理。判断の重さも無理。王都の要求も無理。なのに外側の身体だけは冷静に座っていられるのが、さらに無理。
私は目を閉じた。
扉。
精神世界の扉。
昨日、私はあの扉の前でエレノア様に話しかけた。返事は少しだけあった。冬葡萄酒と毛皮と献納金について、必要な助言もくれた。
でも、頼りすぎていいのか。
エレノア様は壊れて、閉じこもっている。
休ませたい。
無理に起こしたくない。
でも、これは領地の問題だ。
ヴァルツェンの冬に関わる。
エレノア様が、たぶん一番反応してしまうもの。
「……すみません」
私は小さく呟いて、目を閉じた。
次の瞬間、足元の感覚が変わった。
また、あの廊下に立っていた。
精神世界の廊下。
壁には見覚えのない絵と、見覚えのある紋章が混ざっている。赤い絨毯の先に、重い木の扉がある。
昨日と同じ扉。
エレノア様がいる場所。
私は扉の前に立った。
叩かない。
開けようとしない。
ただ、少し離れて声をかける。
「エレノア様」
返事はない。
私は息を整えた。
「すみません。休んでほしいと言ったばかりなのに、また仕事の話です」
沈黙。
「冬葡萄酒の在庫表を見ました。上位樽が二十六。うち六樽はベルナー商会との契約分。王都の要求は二十樽です」
扉の向こうで、紙が擦れるような音がした。
聞いている。
たぶん。
「白銀狐毛皮は、北村の防寒具分を確保すると四枚しか出せません。要求は十枚。羊毛布で代替したいですが、式典局が受け入れるか分かりません」
私は言葉を切った。
そして、正直に言った。
「判断が、できません」
恥ずかしかった。
推しの前で、できませんと言うのは。
でも、嘘をつく方が嫌だった。
「私は、あなたの身体を動かしています。でも、あなたみたいに判断できない。数字は読めます。意味も少し分かります。でも、その先にいる人たちの重さを、私はまだ背負えません」
扉の向こうは静かだった。
「ごめんなさい。あなたが一人で背負ってきたものを、私は昨日今日で分かったような顔をしたくありません」
沈黙。
長い。
拒絶されたかと思った。
やっぱり踏み込みすぎたか。
そう思った時、扉の向こうから、微かな声がした。
「……上位樽を、十五」
私は顔を上げた。
エレノア様の声だった。
昨日よりもさらに小さい。寝台の奥から、こちらに背を向けたまま話しているような声。
「中位樽を五。献上目録には、冬葡萄酒二十樽と記せます」
「品質の差は、問題になりませんか」
「式典局は樽数を見る。味を見るのは、宴席に出した後です」
あ、なるほど。
ちょっと黒い。
「ただし、中位樽を混ぜる理由が必要です。上位樽十五は、新王陛下の御成婚を祝う正規献上分。中位樽五は、ヴァルツェン領民より聖女リリアナ妃殿下への祝意として添える、と書きなさい」
「領民より……」
「品質差を、名目差に変えます」
私は思わず感心した。
すごい。
やっぱりすごい。
推しがすごい。
いや、推しがすごいのは知っていたけれど、こういう実務のすごさは画面では分からなかった。
「毛皮は」
「白銀狐毛皮四枚。羊毛布十二反。革裏地付きの防寒外套を二十着」
「外套?」
「北村で余剰になる古い型を修繕します。新品ではないと悟られないよう、城館の保管印を押すこと。式典局に出す文面では、北西辺境の冬を守る品として、聖女リリアナ妃殿下の慈愛に相応しい献上、とする」
「……上手いですね」
「上手くありません。苦肉の策です」
淡々と返ってきた。
私は少しだけ笑いそうになった。
こんな状況なのに。
でも、その冷静な返しが、ちゃんとエレノア様で、少し安心した。
「献納金は、どうしましょう」
「満額は出せません。出せば橋が落ちます」
橋が落ちます。
言い方が具体的すぎて、背筋が冷えた。
「三分の一を即納。三分の一を春の雪解け後。残り三分の一は、北街道整備協力金として名目変更を願い出る」
「名目変更?」
「王都から見れば、献納金の一部を街道整備に回す形です。王家の婚礼を祝うため、王都と北西を結ぶ道を整える。そう書けば、完全な拒否には見えません」
「でも実際には、橋梁補修費を守る」
「そうです」
すごい。
本当にすごい。
この人は、冷たいんじゃない。
冷たく見えるくらい、現実を見ている。
誰かの善意や祝福に正面から逆らうのではなく、言葉の形を変え、名目をずらし、必要なものを守る。
でも、こんなことを一人でやっていたら、そりゃ壊れる。
「ありがとうございます」
私は深く頭を下げた。
扉の向こうから、返事はない。
だから、もう一つだけ言った。
「やっぱり、エレノア様はすごいです」
沈黙。
少し長い沈黙。
そして、扉の向こうから低い声がした。
「……そのような言葉は不要です」
「不要ではないです」
思わず即答した。
まずい。
勢いが出た。
でも止まらなかった。
「必要です。だって、誰も言ってこなかったんじゃないですか。あなたが何を守っていたか。どれだけ考えていたか。どれだけすごいことをしていたか」
「私は、必要な処理をしただけです」
「その必要な処理がすごいんです」
「……あなたは」
エレノア様の声が、少しだけ困惑した。
「なぜ、私をそこまで持ち上げるのですか」
「持ち上げてません。推してます」
言ってから、しまったと思った。
また出た。
推し。
昨日も説明したのに、絶対伝わっていない言葉。
扉の向こうで、気配が止まった。
「……また、その言葉ですか」
「はい」
「推し、とは、幸せでいてほしい相手、だと昨日言いましたね」
「はい。かなり簡略化しましたが、方向性としては合っています」
「方向性」
小さく反復された。
その声に、わずかな戸惑いがあった。
私は扉の前に座った。
今回は正座ではなく、壁に背を預ける。少しだけ力を抜く。
「私のいた世界には、物語の登場人物を好きになって、応援する文化がありまして」
「物語の登場人物」
「はい。エレノア様は、その物語の中では悪役として描かれていました」
言った瞬間、扉の向こうの空気が冷えた気がした。
私は慌てて続けた。
「でも、私は納得できなかったんです。あなたが本当にただの悪役なら、あんなに政務に詳しい必要はない。あんなに王太子殿下の政策に口を出す必要もない。聖女リリアナ様を遠ざける理由も、嫉妬だけじゃない気がした」
扉の向こうは静かだった。
「私は勝手に考えました。もしかしてこの人は、誰にも褒められない場所で、必要な仕事をしていたんじゃないかって」
声が少し震えた。
「だから、推しました」
「……理解できません」
「ですよね」
私は素直に頷いた。
すぐに理解されるとは思っていない。
でも、これだけは伝えたかった。
「でも、今ここに来て、やっぱり間違ってなかったと思いました。あなたは本当に、冬を越させる人だった」
長い沈黙があった。
今度の沈黙は、拒絶ではなかった。
たぶん、受け取り方が分からない沈黙。
それもそうだ。
エレノア様は、好意を受け取る練習をしてこなかった人だ。
賞賛も、心配も、感謝も、たぶん全部、仕事の邪魔にならない場所へ押し込めてきた。
扉の向こうから、かすかに声がした。
「……あなたの世界では」
「はい」
「その、推し、というものに対して、何をするのですか」
私は瞬いた。
え。
そこ聞く?
いや、当然か。
エレノア様は真面目なので、概念を聞いたら運用方法を確認するのだ。
私は少し悩んだ。
グッズを買う、イベントを走る、課金する、考察を書く、幸せを祈る、供給で死ぬ。
どれを言っても伝わらない。
「ええと……応援します」
「応援」
「はい。無事でいてほしい、幸せでいてほしい、ちゃんと報われてほしいと思います」
「それで、相手に何の利益が」
「……ない場合もあります」
「ないのですか」
扉の向こうの声が、本気で困惑していた。
私はつい、笑ってしまった。
声に出してではない。
でも少し、息が揺れた。
「ないですね。でも、私にとっては大事なんです」
「不合理です」
「はい。不合理です」
「なぜ、それを続けるのですか」
私は少し考えた。
答えは簡単なようで、難しい。
好きだから。
救われたから。
見捨てたくないから。
画面の向こうで悪役と呼ばれていた彼女を、誰か一人くらい信じていてもいいと思ったから。
「あなたが、私にとって大切だったからです」
扉の向こうで、音が止まった。
言った私も、少し照れた。
でも、恋愛ではない。
そういうものではない。
これは、敬意だ。
憧れで、悔しさで、庇護欲で、親愛で、勝手な救済願望で、でも確かに私を支えてきた感情だ。
「だから私は、あなたを消しません。あなたの代わりにもなりません。今は表に出てしまっているけど、ここはあなたの人生です」
「……私の人生」
エレノア様が、ぽつりと繰り返した。
その声があまりにも遠くて、私は胸が痛くなった。
自分の人生だと、もう思えなくなっている声だった。
「はい」
私は扉の向こうに向かって、はっきり言った。
「あなたの人生です。私は、勝手に入ってしまった同居人みたいなものです。かなり迷惑なやつです」
「迷惑だという自覚はあるのですね」
「あります。ものすごくあります」
また沈黙。
でも今度は、ほんのわずかに空気が柔らかくなった気がした。
「……不思議な方ですね」
エレノア様が言った。
私は少しだけ笑った。
「よく言われます」
「褒めていません」
「はい。分かっています」
初めて、会話らしい会話になった。
扉は閉じたまま。
エレノア様は出てこない。
それでも、昨日より少しだけ近い。
そう思った瞬間、現実の方から音がした。
遠くで、誰かが私を呼んでいる。
ミーナの声。
半刻が過ぎたのかもしれない。
「戻ります」
私は扉に向かって立ち上がった。
「教えてくださって、ありがとうございました。ちゃんと、あなたの判断を壊さないように伝えます」
返事はない。
でも、扉の向こうで小さく紙が動いた。
それだけで十分だった。
私は目を開けた。
執務室。
机。
冬葡萄酒の在庫表。
毛皮の配分表。
献納金の試算。
半刻前より、数字が少しだけ怖くなくなっていた。
いや、怖い。
怖いけれど、道筋はある。
「女伯様、ユリス様がお戻りです」
ミーナが控えめに告げた。
「通して」
私は背筋を伸ばした。
ユリスが入ってくる。オルドも後ろに控える。
若い文官は、緊張で顔色が悪い。
私は書類に目を落とし、エレノア様から聞いた内容を、自分の言葉に直した。
「冬葡萄酒は二十樽を献上します。ただし上位樽は十五。中位樽五は、ヴァルツェン領民より聖女リリアナ妃殿下への祝意として添える形にする」
ユリスが瞬きをした。
「名目を分けるのですね」
「そう。品質差ではなく、献上の性質の差とします」
自分で言いながら、心の中でエレノア様に手を合わせた。
すみません、言い方を借りました。
「白銀狐毛皮は四枚。羊毛布十二反、革裏地付きの防寒外套二十着を添える。北西辺境の冬を守る品として、聖女リリアナ妃殿下の慈愛に相応しい献上だと書きなさい」
ユリスの目が、今度は明らかに輝いた。
「なるほど……毛皮の不足を、地方色のある献上として補うのですね」
「ええ」
「献納金は」
「三分の一を即納。三分の一を春の雪解け後。残り三分の一は北街道整備協力金として名目変更を願い出ます」
オルドが静かに目を伏せた。
たぶん、納得したのだ。
「王家の御成婚を祝う道を整える、という文面にします。橋梁補修費を守りつつ、反抗には見せません」
「ただちに草案を作成いたします」
ユリスの声には、さっきまでの怯えが少しだけ薄れていた。
よかった。
そう思ったところで、つい言葉が出た。
「お願いします。あなたの数字が正確だったので、助かりました」
ユリスが固まった。
あ。
またやった。
でも、もう遅い。
ユリスは紙を抱えたまま、耳まで赤くした。
「そ、そのようなお言葉をいただけるほどのことでは……!」
「いいえ。判断は、正確な数字があって初めてできます」
これは本当にそう思った。
エレノア様の判断もすごい。
でも、その前にユリスが数字を揃えてくれなければ、判断できなかった。
「引き続き、お願いします」
「は、はい!」
ユリスは勢いよく頭を下げた。
その様子を見て、ミーナが少しだけ口元を緩めた。
オルドは何も言わない。
けれど、さっきよりも視線が柔らかい気がした。
違和感は、消えていない。
むしろ増えているかもしれない。
以前のエレノア様なら、こんなふうに褒めなかったのだろう。
でも、私は思う。
必要な言葉なら、言った方がいい。
エレノア様が言えなかった言葉を、勝手にばらまくのは違うかもしれない。
けれど、彼女が本当は誰かを見ていたこと、評価していたことを、少しだけ形にするくらいは許してほしい。
ユリスが退室し、オルドが続き、ミーナが茶を淹れ直す。
私は椅子に深く座り直した。
疲れた。
ものすごく疲れた。
でも、最初の一つは越えた。
精神世界の扉を思い出す。
閉ざされたままの、重い扉。
その向こうから届いた声。
推しとは何ですか、と困惑していたエレノア様。
私は思わず、口元を押さえた。
可愛かった。
いや、違う。そういう場合ではない。
でも、可愛かった。
冷血伯と呼ばれた人が、「推し」という言葉の意味を真面目に確認している。
その事実が、どうしようもなく愛おしい。
もちろん、まだ何も解決していない。
エレノア様は扉の向こうにいる。
私は表にいる。
王都への返書も、献上品の調整も、領地の冬支度も、これからだ。
けれど、一つだけ分かった。
エレノア様は、消えていない。
そして私は、彼女と話せる。
なら、まだ間に合う。
私は茶器を置いたミーナに向かって、できるだけ女伯様らしく頷いた。
「ありがとう」
ミーナがまた一瞬固まり、それから小さく微笑んだ。
「はい、女伯様」
その声が、少しだけ温かかった。
外では、雪混じりの風が窓を鳴らしている。
ヴァルツェンの冬は、まだ始まったばかりだ。
私は胸の奥で、扉の向こうにいる彼女へそっと呼びかけた。
エレノア様。
今日も、あなたを推しています。




