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断罪後の悪役令嬢も、私は推している  作者: Manabit
第七章 彼女の名を、王国が呼ぶ

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第48話 ベルク辺境伯

 翌朝、城館の窓から見えるベルク川は、まだ濁っていた。


 雨は止んでいる。


 空も明るい。


 けれど、川面には折れた枝や草の塊が流れ、岸辺には水が引いた跡が黒く残っている。


 危機は過ぎつつある。


 だからといって、何もなかったことにはならない。


 橋は落ちたまま。


 崩れた街道も。


 冠水した畑も。


 食用に回された種籾も。


 すべて、これから取り戻していかなければならない。


 机の上には、昨夜書き直した草案がある。


 ヴァルツェン辺境伯。


 そこに線を引き、余白へ記した。


 ベルク辺境伯。


 理由も書いた。


 ベルク川流域を一つの防災、物流、備蓄調整圏とすること。


 周辺領をヴァルツェンへ従属させる制度ではないこと。


 統治中枢はヴァルツェン城館に置くこと。


 王都常駐は行わないこと。


「女伯様」


 ユリスが草案を読み終えた。


「名称変更の理由は、十分かと存じます」


「他領は納得するでしょうか」


「ヴァルツェン辺境伯よりは、反発が少ないでしょう」


「少ないだけ」


「反発がない制度はございません」


 エレノア様が言いそうなことを、ユリスが言う。


「王都側は」


「陛下が受け入れるか、ですね」


 オルドが、机の上の草案を見る。


「名称以上に、王都常駐を行わないという一文をどう受け取られるか」


「必要です」


「はい」


 オルドは反対しなかった。


「曖昧にすれば、いずれ王都へ執務室を置くよう求められます」


「王都との連絡所は必要かもしれません」


「連絡所と、辺境伯本人の常駐は別でございます」


「その通りです」


 私は草案を閉じた。


 午前の会談は、昨日と同じ執務室で行われる。


 謁見室ではない。


 壁には地図がある。


 机には共同救済表。


 現場からの報告も。


 陞爵について話す場所としては、華やかではない。


 でも、この爵位が何のためにあるのかを忘れないためには、ここがよい。


 アルベルト陛下は、定刻より少し早く執務室へ来た。


 クラウス。


 王国法務官。


 軍務局の代表。


 王宮書記官。


 近衛は扉の外。


 ヴァルツェン側は、私、ユリス、オルド。


 儀礼のためではなく、制度を決めるための人数だった。


「考えはまとまったか」


 アルベルト陛下が尋ねる。


「はい」


 私は草案を返した。


 書き込みのあるまま。


 彼は最初から読む。


 線を引いた爵号。


 新しい名称。


 理由。


 権限。


 予算。


 後継者育成。


 王都常駐を行わないという一文。


 最後まで読み終え、顔を上げる。


「ベルク辺境伯」


「はい」


「ヴァルツェンではなく」


「新たに作るのは、ヴァルツェン領の拡大ではありません」


 壁の地図を示す。


「ベルク川の流域を、一つの防災と物流の単位として扱うための制度です。ハルツ、リーデン、モランがヴァルツェンの下へ入るわけではない」


「各領主の統治権は残す」


「はい。各領主は自領の最終決定者です」


「ベルク辺境伯は、各領から情報を集め、共同計画を作り、災害時の優先順位案を示す」


「はい」


「王命が必要な事柄は王へ返す」


「はい」


「ならば、名称も流域に合わせるべきだと」


「その方が実態に合います」


 アルベルト陛下は、もう一度文字を見る。


「ベルク川は、ヴァルツェンだけの川ではない」


「はい」


「誰の発案だ」


 一瞬、答えに迷う。


 正式な場だ。


 遠野玲奈の名は出せない。


 けれど、エレノア様は、私の提案として記録すると言ってくれた。


「私の中から出た案です」


 嘘ではない。


 アルベルト陛下は、少しだけ不思議そうな顔をした。


 それ以上は問わなかった。


「合理的だ」


「ありがとうございます」


「ベルク辺境伯で進めよう」


 王宮書記官が、草案へ訂正を入れる。


 ヴァルツェン辺境伯。


 その文字が消える。


 ベルク辺境伯。


 新しい名が、公文書の上に書かれる。


 胸の奥が、少し痛んだ。


 寂しさ。


 エレノア様のものでもあり、私のものでもある。


 ヴァルツェンの名が消えるわけではない。


 それでも、何かが終わる。


「次に、権限について」


 法務官が口を開いた。


「ベルク辺境伯には、流域諸領へ定期報告を求める権限を付与します。ただし、各領内の徴税、司法、軍事動員には介入しない」


「災害時の救済物資通行は」


「国王の事前布告がある場合に限り、指定経路を通行可能とします」


「情報提出を拒んだ領主は」


「辺境伯が王へ報告し、処分は国王が決定」


「現地隊への限定権限」


「辺境伯府が標準案を作成。各領主が自領用に採用し、責任者を指定する」


 役割は分かれている。


 ベルク辺境伯が何でもできる制度ではない。


 だからこそ、長く使える。


「予算は」


 ユリスが尋ねる。


「王国北部防災費を新設します」


 アルベルト陛下が答える。


「王都、流域諸領、ベルク辺境伯領が分担する」


「割合は」


「人口、税収、保有倉庫、街道距離を基準に毎年見直す」


「王都からの定額補助は」


「設ける。王命による事業である以上、地方だけへ負担を負わせない」


 エレノア様の身体が、わずかに緩む。


 王都が命じ。


 地方が働き。


 費用だけを地方へ押しつける。


 その形ではない。


「後継者育成についても認める」


 アルベルト陛下が続けた。


「ベルク辺境伯府に、流域官吏の研修機能を置く」


「完成した帳簿を持ち帰らせる研修にはしません」


「何を教える」


「自領で何を確認すべきか。数字が合わない時に何を疑うか。分からないことを分からないと書く方法です」


 クラウスが小さく頷いた。


「王都の研修にも必要ですね」


「はい」


「私も受け直すべきでしょうか」


「倉庫から始めます」


「覚悟しております」


 会議室に、ほんの少し笑いが生まれた。


 すぐに、アルベルト陛下が草案の最後を指す。


「王都常駐を行わない」


「はい」


「辺境伯府の本拠はヴァルツェン城館」


「はい」


「王都には連絡所のみ」


「はい」


「これは条件か」


「条件です」


 室内の空気が静まる。


 私はアルベルト陛下を見る。


「ベルク辺境伯位が、私を再び王都へ置くためのものであるなら、受けません」


「そのつもりはない」


 答えは早かった。


「王都にいた方が、各局との調整は容易です」


「分かっている」


「国王陛下との協議も」


「分かっている」


「それでも」


「辺境伯が見るべきものは、王宮の机ではなく、ベルク川だ」


 言葉に詰まった。


 アルベルト陛下は地図を見る。


「倉庫も。橋も。畑も。王都へ移せない」


「はい」


「以前の私なら、あなたを近くへ置こうとしたかもしれない」


 公の場で。


 元婚約者としてではなく。


 王と領主の話として。


「今は、それが制度を弱くすると分かる」


「では」


「本拠はヴァルツェンとする」


 王宮書記官が、その一文を正式な条項へ書き込む。


 ベルク辺境伯府は、ヴァルツェン城館に置く。


 胸の奥で、エレノア様が息を吐いた。


「ありがとうございます」


 私は礼をする。


「礼を言われることではない」


 アルベルト陛下は言った。


「必要な場所に、必要な権限を置くだけだ」


 必要な場所。


 ヴァルツェン。


 追放先ではなく。


 辺境伯府の中枢。


「爵位の継承について」


 法務官が言う。


「現時点で、ヴァルツェン女伯に直系の後継者はおりません」


 分かっていた話だ。


 それでも、言葉にされると室内が硬くなる。


「ベルク辺境伯位は、通常の世襲爵位と異なり、国王裁可を必要とする職掌爵位とする案があります」


「職掌爵位」


「はい。血統のみではなく、流域統治の能力と経験を条件とする」


 私は考える。


 自分の子へ自動的に渡す爵位ではない。


 仕事を担える者へ。


「後継候補は、辺境伯が複数名を育成し、王が一名を裁可する」


「各領から候補を出せますか」


「ベルク辺境伯府での研修修了者に限れば」


「ヴァルツェンだけの爵位ではない」


「はい」


 良いと思う。


 一人しかできない制度にしない。


「受け入れます」


 法務官が頷く。


 草案が、正式文書の形へ近づいていく。


 最後に残ったのは、私自身の名だった。


「陞爵に伴い」


 王宮書記官が慎重に言う。


「正式な貴族名は、エレノア・フォン・ベルクとなります」


 分かっていた。


 それでも、音として聞くと、胸が締まる。


 エレノア・フォン・グランディール。


 生まれた家の名。


 王妃になるために育てられた名。


 エレノア・フォン・ヴァルツェン。


 断罪の後に与えられた名。


 冷たい北方へ追いやられた女の名。


 けれど今は。


 畑。


 薬草。


 備蓄。


 帳簿。


 冬。


 領民。


 私たちの居場所。


 その名を手放す。


「ヴァルツェンの名は、領名として残ります」


 王宮書記官が続ける。


「旧ヴァルツェン女伯領は、ベルク辺境伯直轄領ヴァルツェンとなります」


 直轄領ヴァルツェン。


 消えない。


 ただ、私の正式名から外れる。


「異議は」


 アルベルト陛下が尋ねた。


 すぐには答えられなかった。


 身体の奥に問いかける。


「エレノア様」


『はい』


「受けますか」


 少し間がある。


『はい』


「寂しいですか」


『はい』


「私もです」


 現実の室内は、静かに待っている。


 私は顔を上げた。


「異議はございません」


「本当に」


 アルベルト陛下が念を押す。


「はい」


「ヴァルツェンの名を失うことになる」


「失いません」


 自分でも、強い声が出た。


「私の名から外れても、ヴァルツェンは残ります」


 城館。


 領民。


 仕事。


 記録。


 エレノア様と私が守ってきたもの。


「ベルク辺境伯府の本拠として」


「そうか」


「はい」


「では、正式な文書を作成する」


 王宮書記官が立ち上がる。


 清書は午後。


 王璽を押し、陞爵証書とする。


 簡素ではあるが、正式な叙爵式を城館の広間で行う。


「広間は雨漏りします」


 私が言うと、アルベルト陛下が一瞬黙った。


「修繕したのではなかったか」


「一箇所だけです」


「私の頭上だけ」


「はい」


 クラウスが顔を伏せた。


 笑っている。


「十分だ」


 アルベルト陛下も、少しだけ口元を緩めた。


「王が濡れなければ、式はできる」


「出席者が濡れる可能性は」


「短くしよう」


 その日の午後。


 ヴァルツェン城館の広間に、人が集まった。


 豪華な飾りはない。


 壁には雨の跡。


 床には、補修しきれていない傷。


 王国旗。


 ヴァルツェンの旗。


 そして、急いで用意されたベルク川流域図。


 貴族だけの式にはしなかった。


 ユリス。


 オルド。


 セリア。


 倉庫管理人。


 巡回隊長。


 ハンナ。


 アンナ・ベルクも、村の確認役として城館に来ていた。


 彼女は端の方に立っている。


 礼服ではない。


 畑仕事の服。


 それでよい。


 この爵位は、畑と倉庫のためにある。


 アルベルト陛下が、陞爵証書を開いた。


 王宮書記官が読み上げる。


 ベルク川流域における防災、物流、備蓄、救済調整の功績。


 北部諸領間の共同運用を確立したこと。


 ヴァルツェン領を統治し、冬季備蓄、薬草管理、農地復旧に尽力したこと。


 王国の安寧に資する実績を認めること。


 エレノア・フォン・ヴァルツェンを陞爵し。


 ベルク辺境伯位を授け。


 今後、エレノア・フォン・ベルクと称すること。


 名が変わる。


 広間に響く。


 エレノア・フォン・ベルク。


 身体の奥が震えた。


 エレノア様も聞いている。


 私は王の前へ進む。


 片膝をつく。


「エレノア・フォン・ベルク」


 アルベルト陛下が呼ぶ。


 初めての名。


「はい」


「ベルク川流域および王国北部の安寧のため、辺境伯としてその職責を担うか」


「担います」


「王国と領民のため、その権限を用いるか」


「用います」


「判断の記録を残し、権限と責任を一人へ集めず、後継者を育てるか」


 この問いは、通常の叙爵文にはなかっただろう。


 私たちが作った制度の言葉だ。


「誓います」


 アルベルト陛下が、証書を差し出す。


 私は受け取る。


 重くはない。


 紙だ。


 でも、その紙の向こうには、川沿いの村がある。


 倉庫。


 橋。


 街道。


 多くの名。


「ベルク辺境伯エレノア・フォン・ベルク」


 アルベルト陛下が、正式に告げる。


「その任を認める」


「謹んで拝命いたします」


 立ち上がる。


 広間は静かだった。


 歓声はない。


 最初に頭を下げたのは、オルドだった。


 次にユリス。


 セリア。


 家臣たち。


 領民。


 アンナは、少し遅れて頭を下げた。


 深くはない。


 それでよかった。


 式の後、すぐに仕事へ戻る者が多かった。


 橋を直す。


 荷を運ぶ。


 畑を見る。


 辺境伯が生まれても、生活は止まらない。


 私も、証書を執務室へ置き、午後の報告を確認した。


 リーデン西部へ、モラン領からの食料が到着。


 種籾補填完了。


 ハルツ領の仮設渡し綱、運用開始。


 王都備蓄、第三中継所へ到着。


 危機は、確かに収束へ向かっている。


 夕刻。


 アルベルト陛下から、私的な面会を求める伝言が届いた。


 断ってもよい。


 そう添えられていた。


 私は少し迷った。


 精神世界の執務室へ入る。


 エレノア様は、窓辺に立っていた。


 黒い執務服。


 今日からは、ベルク辺境伯の服ということになる。


「会いますか」


 私が尋ねる。


「はい」


「私が話しますか」


「最初は」


「途中で出ますか」


 エレノア様は、少し考える。


「できるか分かりません」


「無理なら、伝えます」


「いいえ」


 彼女は首を振った。


「私の言葉は、私が言います」


「分かりました」


 面会場所は、城館裏の小さな庭だった。


 雨で土は柔らかい。


 石畳の端には水たまり。


 花はほとんど咲いていない。


 近衛と侍従は、離れた場所にいる。


 完全な二人きりではない。


 それがよかった。


 アルベルト陛下は、先に立っていた。


 王冠はない。


 旅装でもない。


 簡素な正装。


 私が近づくと、彼は礼をした。


 国王が、臣下へする礼としては深かった。


「ベルク辺境伯」


「陛下」


「まず、陞爵を受けてくれたことに感謝する」


「必要な権限であると判断しました」


「あなたらしい答えだ」


 少しだけ、昔の響きがあった。


 でも、そこへ戻らない。


「私的な話をしたい」


「承知しております」


「断らなかったのだな」


「話を聞くことと、受け入れることは別です」


「そうだな」


 アルベルト陛下は、一度目を伏せた。


 何か用意してきた言葉があるのだろう。


 でも、すぐには出ない。


 私は待った。


 エレノア様も、内側で待っている。


「私は」


 アルベルト陛下が、ようやく口を開く。


「あなたへ謝罪しなければならない」


 声は静かだった。


「王太子であった頃、私は理想を語った」


「はい」


「人を救いたい。苦しむ者を減らしたい。誰も切り捨てない国にしたい」


「はい」


「だが、その理想を実行するために必要な厳しい判断を、あなたへ任せた」


 言葉が続く。


「反対を受ける説明も。財源を削る決定も。対象から外れる者へ告げる役目も」


 彼の手が、少し強く握られている。


「私は最後に署名をした。そして、あなたが冷たいと非難された時、その非難からあなたを守らなかった」


 エレノア様の身体が固くなる。


 私は呼吸を整える。


「それだけではない」


 アルベルト陛下は続ける。


「私は、あなたの厳しさを理解しようとするより、自分の理想を傷つけるものとして恐れた」


 庭の葉から、水滴が落ちる。


「あなたが常に正しかったとは思わない」


 その言葉に、少しだけ胸が動いた。


「あなたは説明を急ぎすぎた。人の感情を後へ回した。正しい判断のために傷ついた者を、正しさだけで納得させようとした」


「はい」


「だが、それは、私があなたへ責任を集中させてよい理由にはならなかった」


 単純な被害者として扱わない。


 エレノア様の過ちも見る。


 その上で、自分の責任を言う。


「断罪の場で、私はあなたを切り捨てた」


 アルベルト陛下の声が少し揺れた。


「自分が担うべきだった責任ごと」


 沈黙。


「すまなかった」


 短い言葉だった。


 それだけ。


 許してほしいとは言わない。


 もう一度話したいとも。


 戻ってほしいとも。


「私は、あなたに許されるために来たのではない」


 彼は言った。


「謝罪を受け取ることも、返事をすることも、あなたへ求めるべきではないと思っている」


 以前、書きかけの謝罪文には、その言葉が続かなかった。


 今は、口から出ている。


「それでも、私が誤っていたことは、自分の口で伝えたかった」


 私は目を閉じる。


 精神世界の執務室。


 エレノア様が立っている。


「エレノア様」


「はい」


「話しますか」


 彼女は頷いた。


「はい」


 意識の奥で、何かが重なる。


 身体を奪われる感覚ではない。


 私が消えるわけでも。


 ただ、声を出す場所を譲る。


 姿勢が変わる。


 呼吸が深くなる。


 視線が、アルベルト陛下へ向く。


「陛下」


 口から出た声は、私の声でもあり、エレノア様の声でもあった。


 アルベルト陛下の目が見開かれる。


 何か違いを感じたのだろう。


「謝罪は、受け取ります」


 エレノア様が言う。


 一つずつ。


 確かめるように。


「ですが、過去が変わるとは申しません」


「分かっている」


「許したとも、まだ申し上げられません」


「それでよい」


 答えは早かった。


「私も、誤りました」


 エレノア様は続ける。


 アルベルト陛下が息を止める。


「必要な判断であることを理由に、傷ついた者への説明を切り上げました」


「エレノア」


 初めて、名前で呼ばれた。


 でも、エレノア様は揺れなかった。


「私が最も分かっているからと、仕事を抱え込みました。陛下が決めるべきことまで、案として完成させた」


「それは、私が」


「陛下が受け取ったことと、私が渡したことは、別の責任です」


 アルベルト陛下は、何も言えなかった。


「私は、あなたを免責したいのではありません」


「分かっている」


「私自身を、完全な被害者にしたくないのです」


 静かな声。


 けれど、強い。


「私は、私の誤りを引き受けます」


「そうか」


「陛下は、陛下のものを」


「ああ」


 二人の間に、長い沈黙が落ちた。


 元婚約者。


 国王。


 辺境伯。


 どの言葉でも、すべてを説明できない。


「北西部救済令を読みました」


 エレノア様が言う。


「あなたが、ご自分の名で決めたことも」


「一度だけだ」


「はい」


「一度で、過去を償ったとは思っていない」


「それでよいと思います」


「次も、決める」


「決めてください」


「間違えるかもしれない」


「記録してください」


 アルベルト陛下が、わずかに笑った。


 寂しそうで。


 でも、以前より穏やかな笑みだった。


「最後まで、あなたらしいな」


「陛下も、ようやく王らしくなられました」


「厳しい評価だ」


「正確です」


 一瞬だけ。


 昔の二人が、そこにいたような気がした。


 でも、戻るための会話ではない。


 別々の場所へ進むための言葉。


「王都へ戻るつもりは」


 アルベルト陛下が尋ねかけ、止まった。


「いや」


 首を振る。


「尋ねるべきではないな」


「答えは決まっています」


「そうか」


「私は、ヴァルツェンにおります」


 ベルク辺境伯となっても。


 名が変わっても。


「ここが、私の居場所です」


 アルベルト陛下は目を閉じた。


 何かを受け止めるように。


「分かった」


 短い返事だった。


「王都から、必要な書類を送る」


「期限を明記してください」


「努力する」


「努力では困ります」


「善処する」


「それも信用できません」


 アルベルト陛下が、少し声を出して笑った。


「分かった。期限を明記する」


「お願いします」


「では」


 彼は一歩下がる。


 国王としての距離へ戻る。


「ベルク辺境伯。王国北部を頼む」


「国王陛下。王都の仕事をお返しします」


「ああ」


 互いに礼をする。


 それで終わった。


 抱擁も。


 握手も。


 懐かしい呼びかけもない。


 必要な言葉だけ。


 それで十分だった。


 アルベルト陛下が去った後、意識が私へ戻る。


 エレノア様は、精神世界の執務室にいる。


 窓の外を見ている。


「大丈夫ですか」


 私が尋ねる。


「分かりません」


「泣きますか」


「今は」


「あとで?」


「分かりません」


「じゃあ、隣にいます」


「はい」


 それ以上は言わなかった。


 現実へ戻り、執務室の机へ座る。


 陞爵証書がある。


 ベルク辺境伯エレノア・フォン・ベルク。


 新しい名。


 私的業務記録を開く。


 ベルク辺境伯位を拝命。


 ベルク川流域を防災、物流、備蓄調整圏として再編。


 各領の統治権は維持。


 辺境伯府は、情報集約、共同計画、事故記録、研修を担う。


 王命、領主判断、現地判断の権限を分離。


 ベルク辺境伯府の本拠は、ヴァルツェン城館。


 王都常駐は行わない。


 正式名を、エレノア・フォン・ベルクへ変更。


 国王アルベルト陛下より謝罪。


 謝罪は受領。


 許しについては未決。


 そこまで書いて、筆を止めた。


 最後の一行を、エレノア様と一緒に考える。


 すぐには出ない。


 新しい名。


 残る場所。


 終わった関係。


 始まる仕事。


 やがて、言葉が浮かぶ。


 名が変わっても、帰る場所は変わらない。


 書き終えた。


 窓の外では、ベルク川が流れている。


 ヴァルツェンを通り。


 複数の領を越え。


 遠くへ続く。


 私は今日、ベルク辺境伯になった。


 けれど、ここを離れない。


 エレノア様も。


 私も。


 明日からまた、ヴァルツェンの机で仕事をする。


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