最終話 もう一人ではない
ベルク辺境伯府の最初の朝は、特別な音では始まらなかった。
城館の鐘。
廊下を歩く使用人の足音。
厨房から運ばれる薪。
中庭で荷車を動かす声。
昨日までと同じ朝だった。
違うのは、執務室の扉に新しい札が掛けられたことだけだ。
ベルク辺境伯執務室。
その下に、小さく、
ヴァルツェン城館。
と書かれている。
私は扉の前で、しばらくその札を見ていた。
「女伯様」
背後からオルドの声がする。
「辺境伯です」
「失礼いたしました」
まったく失礼した顔ではない。
「わざとですよね」
「長年の習慣は、すぐには変わりません」
「昨日まで女伯だっただけです」
「年月ではなく、呼び慣れた重さの問題でございます」
オルドは扉を開けた。
机の上には、すでに書類が積まれている。
陞爵したからといって、仕事が減るわけではない。
むしろ増えた。
リーデン領から、種籾補填後の報告。
モラン領から、私的備蓄移動に関する調査結果。
ハルツ領から、仮橋建設の費用案。
王都から、北部防災費の仮配分。
教会から、救護中継所の縮小予定。
軍務局から、護衛隊撤収の段階案。
そして、辺境伯府の人員編成。
「多いですね」
「おめでとうございます」
「祝い方が違いませんか」
「権限には書類が伴います」
「知っています」
椅子へ座る。
机の向かいには、ユリスがいる。
彼の前にも書類の山。
「辺境伯府の仮組織案です」
「仮なのに厚い」
「必要部署を並べただけです」
「多くないですか」
「流域記録課、備蓄調整課、街道橋梁課、救護連携課、研修課」
「五つ」
「事故記録室も必要です」
「六つ」
「会計監査室」
「七つ」
「人事記録室」
「待ってください」
ユリスの筆が止まる。
「最初から増やしすぎです」
「しかし、必要です」
「必要なのは分かります。でも、部署を増やせば、その部署を管理する部署が必要になります」
「管理局を」
「作りません」
「では、総務課を」
「増えています」
オルドが静かに茶を置く。
「まずは三課でよろしいのでは」
「三課」
「流域調整、記録監査、研修」
私は頷いた。
「それで」
ユリスは不満そうだった。
「街道と備蓄と救護を、一つにまとめるのですか」
「最初は」
「業務が混ざります」
「増やすのは、混ざって困ってからです」
「問題が起きてからでは遅いのでは」
「問題が起きる前に全部増やしたら、人が足りません」
ユリスは黙る。
正しい。
でも、増やしすぎる。
「仮運用三か月。その間の事故未満記録を見て、分けるか決めましょう」
「三か月」
「はい」
「短い」
「半年」
「長い」
「四か月」
「中途半端です」
「では、五か月」
「さらに中途半端です」
「ユリス」
オルドが名を呼ぶ。
「三か月で」
「……承知しました」
不満を残しながら、組織図へ線を引く。
その姿を見て、少し笑いそうになる。
以前のユリスなら、私の決定へここまで露骨に不満を出さなかった。
今は、出す。
私も聞く。
それで仕事が進む。
「次です」
ユリスが別の書類を出す。
「ベルク辺境伯府の紋章案」
机へ三枚の図案が並ぶ。
一つ目は、ヴァルツェンの旧紋章を中心に、周囲へ波線を加えたもの。
二つ目は、ベルク川と三本の支流。
三つ目は、橋と穀物袋と薬草の葉。
「三つ目は多いですね」
「象徴をすべて入れました」
「全部入れなくていいです」
「では、二つ目を」
川と支流。
中心へ一本。
そこへ三本が合流する。
「悪くないです」
「色は」
「後で」
「王都へ届ける期限が」
「いつですか」
「二十日後」
「では、十日考えます」
「長すぎます」
「陞爵した日に紋章を即決する方が怖いです」
オルドが、わずかに頷いた。
「それがよろしいかと」
ユリスは二対一になったことを悟り、書類を引いた。
執務は午前いっぱい続いた。
昼前、セリアが薬草庫から来た。
雨で失った薬草十二袋について、最終報告を持っている。
「廃棄は完了しました」
「代替便は」
「ハルツ領へ到着。発熱者も回復しております」
「再発防止は」
「梱包担当二名。確認担当一名。受取側でも熱を確認」
「記録は」
「こちらに」
私は目を通す。
失敗。
原因。
変更。
責任者。
次回確認日。
きれいな成功報告ではない。
でも、使える記録だ。
「ありがとうございます」
セリアは少し驚いた顔をした。
「叱られないのですか」
「叱る必要がありますか」
「十二袋失いました」
「原因は確認しました」
「はい」
「再発防止も」
「はい」
「なら、同じ失敗をしないでください」
「承知しました」
「次に別の失敗をしたら、それはその時考えます」
セリアが、ほんの少し笑う。
「女伯様は、変わられましたね」
辺境伯です、と訂正しかけて止めた。
「そう見えますか」
「以前なら、まず損失額を聞かれました」
身体の奥で、エレノア様が静かに反応する。
「今も聞きます」
「そうでしょうね」
「損失額は」
「銀貨二十三枚相当です」
「高い」
「やはり叱られました」
「叱ってません」
セリアは笑いながら退出した。
その後、アンナ・ベルクが種の受取記録を持ってきた。
冠水した十二の農家。
春麦へ戻す区画。
豆へ切り替える区画。
飼料作物にする区画。
種の種類。
袋数。
受取人。
確認者。
「全部合っています」
アンナが言う。
「仲介人は」
「今回は入れてません」
「直接受取ですか」
「はい」
「困ったことは」
「字が書けない人の分を、私が読んで確認しました」
「記録へ残してください」
「もう書いてあります」
紙の下に、
読み上げ確認者、アンナ・ベルク。
とある。
「ありがとうございます」
「仕事です」
感謝を拒む言い方。
でも、以前のような棘はない。
「来年もお願いできますか」
「来年も畑を沈めるんですか」
「できれば沈めません」
「なら、種の確認だけなら」
「お願いします」
アンナは帰り際、扉の前で止まった。
「辺境伯様」
初めて、そう呼んだ。
「はい」
「畑を沈めたことは、まだ忘れてません」
「はい」
「夫が南へ行ったことも」
「はい」
「でも」
少しだけ、言葉を探す。
「今年は、次の種が来ました」
「はい」
「それだけです」
「十分です」
アンナは礼をせず、出ていった。
オルドは何も言わない。
ユリスも。
私も、すぐには次の書類へ手を伸ばせなかった。
許されたわけではない。
忘れられたわけでも。
でも、今年は次の種が来た。
それでいい。
午後、王都から正式な通達が届いた。
ベルク辺境伯位の新設。
流域諸領への通知。
各領主の統治権を維持すること。
辺境伯府の情報提出権限。
災害時の共同調整手順。
そして、辺境伯府の本拠がヴァルツェン城館に置かれること。
王都の文書に、その名がある。
ヴァルツェン。
消えていない。
王都へ戻るとも書かれていない。
「各領の反応は」
私が尋ねる。
「リーデン領は受諾」
「早いですね」
「ゲオルグ・ハイム氏を研修候補として送ると」
「本人は」
「希望しています」
責任を集められた官吏。
今度は、正式な権限と記録方法を学びに来る。
「受け入れます」
「モラン領も受諾。監査担当を一名」
「ハルツ領は」
「条件付き」
「何を」
「辺境伯府からの情報照会回数に上限を求めています」
「分かります」
毎日書類を出せと言われたら、現場が止まる。
「平時は月一回。異常時のみ随時。事故未満記録は各領保管、四半期ごとに共有」
「条件として返します」
「承知しました」
反対される。
交渉する。
制度を直す。
それでよい。
夕刻、ようやく書類の山が低くなった。
完全になくなることはない。
明日には、また増える。
「本日は、ここまでにされては」
オルドが言う。
「まだ」
「辺境伯就任初日に倒れられますと、制度設計に問題があったと判断されます」
「私の体調が制度の評価に」
「当然でございます」
「厳しい」
「休息も職務です」
最近、全員が同じことを言う。
「分かりました」
席を立つ。
執務室の扉を開ける前に、振り返る。
机。
地図。
帳簿。
椅子。
今日から、ここはベルク辺境伯府。
でも、窓の外に見える景色は変わらない。
ヴァルツェン。
私たちが守ってきた場所。
自室へ戻り、精神世界へ入る。
新しい執務室には、灯りがついていた。
エレノア様は、机の向こうに立っている。
黒い執務服。
髪は整えられ。
姿勢も、以前の彼女らしい。
ただ、表情は少し柔らかい。
「お疲れさまです」
私が言う。
「あなたも」
「辺境伯初日、終わりました」
「終わっていません」
「明日があるという意味では?」
「書類が三件残っています」
「見なかったことにしましょう」
「できません」
「精神世界まで持ち込まないでください」
「あなたが持ち込んだのでしょう」
机の上を見る。
確かに、現実と同じ書類が三件ある。
「ここ、便利すぎませんか」
「困りますか」
「休めません」
「では、片づけましょう」
エレノア様が書類を端へ寄せた。
素直だ。
「今日は、仕事ではありません」
彼女が言う。
「違うんですか」
「はい」
机の中央に、一通の紙がある。
見覚えのない文書。
正式な王国文書ではない。
白い紙。
黒い文字。
封蝋もない。
「何ですか、これ」
「こちらへ」
エレノア様が、机の前を示す。
「座ればいいですか」
「立ってください」
「はい」
少し緊張する。
エレノア様は紙を持った。
表情が真剣だ。
「遠野玲奈」
名前を呼ばれる。
この世界へ来る前の私の名。
誰にも呼ばれない名。
エレノア様だけが知っている名。
「前へ」
「この距離で?」
「形式です」
「はい」
一歩進む。
「あなたは」
エレノア様が読み上げる。
「私が心を閉ざしていた間も、ヴァルツェンを離れませんでした」
声が静かに響く。
「私の名を奪わず」
一つ。
「私の過ちを隠さず」
一つ。
「私が残した仕事を捨てず」
一つずつ。
「その続きを引き受けました」
胸が熱くなる。
「待ってください」
「何ですか」
「それ、私だけの功績じゃありません」
「知っています」
「エレノア様の仕事でもあります」
「はい」
「ユリスさんも、オルドさんも、セリアさんも、みんなの」
「はい」
「なら、私だけ叙爵されるのは」
「領主の功績とは、そのようなものです」
私は黙った。
「多くの者が働きます」
エレノア様は言う。
「領主は、その働きを自分だけのものにしてはなりません」
「はい」
「ですが、誰のものでもないことにもしてはならない」
「はい」
「働いた者の名を残し、失敗を引き受け、最後に責任を持つ」
エレノア様の声は、以前より穏やかだった。
「あなたは、それをしました」
「エレノア様と一緒に」
「ええ」
「なら」
「だから、任じます」
逃げ道がない。
エレノア様が紙へ視線を戻す。
「ベルク辺境伯エレノア・フォン・ベルクの名において」
少しだけ間を置く。
「遠野玲奈を、ヴァルツェン女伯に任じます」
言葉が入ってこない。
聞こえている。
意味も分かる。
でも、頭が追いつかない。
「私が」
「はい」
「ヴァルツェン女伯」
「はい」
「そんな権限、精神世界にあるんですか」
「今、作りました」
「横暴だ」
「貴族とは、そのようなものです」
真顔で言う。
ずるい。
少し笑ってしまった。
でも、目の奥が熱い。
「遠野の名は」
「残します」
エレノア様は、すぐに答えた。
「あなたは、遠野玲奈です」
「はい」
「この世界へ来る前のあなたを、失わせるつもりはありません」
涙が出た。
声を上げるほどではない。
でも、頬を落ちる。
「遠野玲奈。ヴァルツェン女伯」
エレノア様が、もう一度呼ぶ。
「不服ですか」
「恐れ多すぎて、現代日本へ帰りたくなってきました」
言ってから、少し後悔した。
エレノア様の表情が止まる。
「帰るのですか」
声が小さい。
「帰りません」
すぐに答える。
「帰りません」
もう一度。
「帰れるかどうかも分かりませんし。帰りたいと思ってないです」
「そうですか」
「はい」
「それは」
エレノア様は、少し息を吐いた。
「安心しました」
私は泣きながら笑った。
「そこ、言ってくれるんですね」
「言わなければ伝わらないのでしょう」
「成長しましたね」
「あなたに言われたくありません」
エレノア様が紙を差し出す。
受け取る。
文字がある。
冬の備蓄。
薬草。
畑。
帳簿。
領民。
私たちがしてきたこと。
最後に、
ヴァルツェンは、遠野玲奈の居場所である。
と書かれていた。
「エレノア様」
「はい」
「これ、反則です」
「何がですか」
「泣かせに来てる」
「そのつもりは」
「絶対あります」
「ありません」
視線が少し逸れた。
ある。
「一つだけ」
私は言った。
「お願いしてもいいですか」
「内容によります」
いつもの返事。
だから、少し安心する。
「叙爵の記念に」
「はい」
「抱きしめても、いいでしょうか」
エレノア様が固まった。
私はすぐに後悔した。
「すみません。今のなしで」
「許可する前に取り消さないでください」
「でも」
「少し待ってください」
「はい」
待つ。
エレノア様は、目を伏せた。
手が、わずかに震えている。
人に触れられること。
近づかれること。
きっと怖い。
「無理なら」
「玲奈」
「はい」
「来てください」
顔を上げる。
エレノア様は、腕を大きく広げてはいない。
ただ、拒まない姿勢で立っている。
「本当に?」
「何度も聞かないでください」
「はい」
恐る恐る近づく。
一歩。
もう一歩。
手を伸ばす。
肩へ触れる。
エレノア様の身体が、一瞬固くなる。
止まる。
「大丈夫ですか」
「はい」
「強くしません」
「はい」
そっと腕を回す。
触れるだけ。
抱きしめるというより、そこにいることを確かめる。
温かい。
精神世界なのに。
エレノア様がいる。
消えていない。
上書きしていない。
ここにいる。
「エレノア様」
「はい」
「私、ずっとあなたの味方です」
「知っています」
「即答ですね」
「扉の外で、あれほど毎日言われましたから」
「迷惑でした?」
「少し」
「少し」
「ですが」
背中に、手が触れた。
エレノア様の腕が、ゆっくり私へ回る。
抱き返された。
強くはない。
でも、確かに。
「扉を開ける理由にもなりました」
涙が止まらなくなる。
「それ、もっと早く言ってください」
「今、言いました」
「遅いです」
「あなたも、待つのが得意なのでしょう」
「待ちながら叩くのが得意なんです」
「知っています」
少しだけ、抱く腕が強くなる。
「玲奈」
「はい」
「私も、あなたの味方です」
息が詰まった。
ずっと欲しかった言葉だと思った。
エレノア様を救いたかった。
理解したかった。
味方でいたかった。
でも、本当は。
私も、エレノア様に認めてほしかった。
ここにいてよいと。
あなたも必要だと。
「ありがとうございます」
「こちらこそ」
「離したくないです」
「困ります」
「もう少しだけ」
「少しだけです」
私たちは、しばらくそのままでいた。
精神世界の執務室。
机の上には、二つの爵位。
ベルク辺境伯。
ヴァルツェン女伯。
現実には、一人。
ここには、二人。
やがて腕を離す。
エレノア様の頬も、少し濡れていた。
「泣いてます?」
「違います」
「精神世界でも涙って出るんですね」
「見ないでください」
「はい」
見ないふりをする。
でも、忘れない。
「仕事があります」
エレノア様が言った。
少し鼻声だ。
「今からですか」
「明日の分です」
「休みましょうよ」
「三件残っています」
「さっき片づけたじゃないですか」
「新しく来ました」
「精神世界にまで?」
「辺境伯府ですから」
「便利すぎる」
二人で机へ向かう。
椅子は二つ。
並んで座る。
エレノア様が一件目を取る。
「ハルツ領から、仮橋の木材費について」
「高いですか」
「高いですね」
「値切ります?」
「必要量を確認します」
「さすがです」
「あなたも見てください」
「はい」
自然に。
当たり前のように。
二人で書類を開く。
完全に一つになるわけではない。
エレノア様はエレノア様。
私は私。
意見が違うこともある。
怒ることも。
迷うことも。
失敗もする。
でも、扉はもう閉じていない。
現実へ戻る前に、エレノア様が私を呼んだ。
「玲奈」
「はい」
「ヴァルツェン女伯」
「慣れません」
「慣れてください」
「エレノア様がベルク辺境伯に慣れたら」
「共同条件ですか」
「はい」
「では、努力します」
「私も」
現実へ戻る。
夜の執務室。
机の上には、私的業務記録が開いたまま。
最後の記録を書く。
ベルク辺境伯府、初日。
流域諸領より制度受諾および条件案を受領。
辺境伯府組織は、流域調整、記録監査、研修の三課で仮運用。
運用期間三か月。
事故未満記録を基に再編を検討。
ヴァルツェン領冠水農家への種配布、完了。
薬草梱包手順、改定。
各領の復旧計画、継続。
そこまで書く。
精神世界の叙爵は、公式記録には書けない。
でも、私的業務記録なら。
少し迷う。
そして、書いた。
遠野玲奈、ヴァルツェン女伯に就任。
法的効力なし。
精神世界における共同統治上の称号。
任命者、ベルク辺境伯エレノア・フォン・ベルク。
備考。
本人は恐れ多いと主張したが、受諾。
さらに一行。
任命後、抱擁あり。
書いた瞬間、内側から声が飛んできた。
『それは記録しなくてよいでしょう』
「大事な記録です」
『削除してください』
「改変履歴が必要です」
『玲奈』
「消しません」
精神世界の執務室で、エレノア様が額を押さえている。
私は笑いながら、最後の一文を書く。
ヴァルツェンは、追放先ではない。
私たちが選んだ、帰る場所である。
筆を置いた。
窓の外では、ベルク川が静かに流れている。
春の水。
泥を含み。
いくつもの領地を通り。
遠くへ続く。
川沿いの村では、明日も橋を直す。
畑へ種を蒔く。
倉庫の袋を数える。
薬草を乾かす。
帳簿へ、失敗と変更を書く。
王都では、アルベルト陛下が自分の名で次の文書へ署名する。
リリアナ妃殿下は、教会と施療院の報告を読む。
クラウスは、また倉庫へ行くだろう。
ユリスは、きっと部署を増やそうとする。
オルドは、それを止める。
セリアは薬草庫で誰かを叱る。
アンナは、配られた種の数を確かめる。
誰も、完全ではない。
エレノア様も。
私も。
だから、記録する。
聞く。
直す。
そして、誰か一人へすべてを背負わせない。
王都では、まだ冷血伯と呼ぶ者もいるだろう。
ベルク辺境伯を、厳しい女だと恐れる者も。
薬草伯と呼ぶ者。
冬を越させる方と呼ぶ者。
畑を沈めた領主と呼ぶ者。
次の種を届けた人と呼ぶ者。
そのすべてが、エレノア様の一部だ。
ただ一つの悪名だけで、彼女を決めることはもうできない。
冷血伯と呼ばれた女性は、明日も灰色の帳簿を開く。
ただし今度は。
もう一人ではない。




