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断罪後の悪役令嬢も、私は推している  作者: Manabit
第七章 彼女の名を、王国が呼ぶ

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第47話 王が来る

 ベルク川の水位が危険域を下回ったのは、雨が止んでから四日後だった。


 道は、まだ戻っていない。


 中流の木橋は落ちたまま。


 上流街道では、崩れた土砂を人足が少しずつ取り除いている。


 北岸道は馬だけが通れる。


 南高地街道も、荷車を一台ずつ通していた。


 それでも、地図の赤い線は減っていた。


 完全通行止めから、制限通行へ。


 連絡不能から、定時報告ありへ。


 実数不明から、確認済みへ。


 灰色だった場所に、少しずつ文字が入る。


「ハルツ領三村、食料到着」


 ユリスが報告書を読み上げる。


「第三村は残存三日分まで回復。第二村の発熱者は快方へ。第一村では不足なし」


「種籾は」


「すべて別保管を確認」


「モラン領」


「救済用備蓄百五十袋、リーデン東部へ到着。破袋六。使用可能百四十四」


「リーデン西部へは」


「人足輸送で二日かかります」


「届くまでの残存量は」


「四日分」


 間に合う。


 断言はできない。


 でも、間に合う見込みはある。


「王都備蓄は」


「南高地街道の第二中継所。明日、ベルク川支流北岸へ分けます」


 各報告には、決定者名が並んでいる。


 国王。


 領主。


 軍務官。


 教会責任者。


 現地隊長。


 倉庫管理人。


 ヴァルツェン。


 誰か一人の名ではない。


「死者の報告は」


 尋ねる時、声が少し硬くなった。


 ユリスは紙を見た。


「街道崩落により、人足一名が脚を骨折。馬二頭を失いました」


「他には」


「現時点では、救済遅延による死者は確認されておりません」


 息を吐く。


 被害がなかったわけではない。


 畑は流された。


 橋は落ちた。


 薬草も失った。


 種籾十五袋は食用へ回った可能性がある。


 骨折した者もいる。


 それでも、大量の死者は出なかった。


 略奪も。


 疫病の拡大も。


 今のところ。


「まだ終わっていませんね」


「はい」


 ユリスはすぐに答えた。


「復旧が残っております」


「橋。道。畑。倉庫」


「帳簿の作り直しも」


「それも」


 むしろ、これからの方が長い。


 危機の最中は、全員が急ぐ。


 終わりが見え始めると、疲れが出る。


 負担の押しつけ合いも始まる。


 誰が費用を出すか。


 誰の判断が遅れたか。


 誰のせいで種籾が混ざったか。


 失った十二袋の薬草は、どこへ請求するか。


「共同救済表は、復旧表へ移行します」


「名称を変えますか」


「一部だけ」


 緊急時と復旧時では、見る数字が違う。


 食料残存日数。


 病人。


 通行可否。


 それだけでは足りない。


 橋の修復費。


 人足の日数。


 畑の再播種。


 種籾補填。


 領主家負担。


 王都補助。


 教会の寝具返還。


 軍の撤収時期。


「結果欄を消さないでください」


「はい」


「緊急時の決定が、復旧へどうつながったか残します」


「事故も」


「全部」


 共同救済表は、きれいな成功記録にはしない。


 遅れた道。


 誤った備蓄。


 失われた薬草。


 通じなかった狼煙。


 それも残す。


 次に同じ雨が来た時のために。


 昼前、城館へ王都からの先触れが届いた。


 今度の伝令は、緊急王命ではなかった。


 正式な訪問通知。


 国王アルベルト陛下が、北部共同救済の現地確認および今後の統治体制協議のため、ヴァルツェンを訪れる。


 到着予定、五日後。


 私は、文面を二度読んだ。


「陛下が、こちらへ」


 ユリスの声は平静だった。


 オルドは、すぐに実務へ移る。


「受入準備を開始いたします」


「待ってください」


 二人が私を見る。


 身体の奥が、強く反応している。


 胸が冷える。


 指先が固い。


 記憶の中のアルベルト。


 王太子。


 婚約者。


 断罪の場。


 背を向けた人。


 王として、自分の名で命令を出した人。


 ここへ来る。


「随行人数は」


「先触れによれば、近衛十二、文官六、侍従四。リリアナ妃殿下は王都に残られます」


「大人数ではありません」


「北部視察としては、かなり絞られております」


「宿泊は」


「城館を希望。ただし、領政を妨げない範囲でと」


 以前なら、王を迎えることが最優先になる。


 執務を止め。


 廊下を飾り。


 食事を整え。


 人を並べる。


 今は、そんな余裕はない。


「救済業務を止めません」


「当然でございます」


 オルドが答える。


「謁見室の修繕も不要です」


「雨漏り箇所は」


「桶を置いてください」


「陛下の頭上へ落ちる可能性が」


「そこだけ塞いでください」


 ユリスが口元を押さえた。


「何ですか」


「いえ」


「笑いました?」


「まさか」


「笑いましたね」


「業務を進めます」


 少しだけ空気が緩む。


 でも、身体の緊張は消えない。


「返書は」


 ユリスが尋ねる。


 私は訪問通知を見る。


 断る理由はない。


 公務だ。


 北部共同救済の現地確認。


 今後の統治体制。


 必要な話。


「お迎えします」


「正式に受諾を」


「はい」


「私的な面会については」


 ユリスの言葉が止まる。


 聞くべきか迷っている。


「求められていません」


「はい」


「今は、公務だけです」


「承知しました」


 公務だけ。


 そう決めると、少し呼吸が楽になった。


 その夜、精神世界の執務室へ入る。


 エレノア様は、机の向こう側に座っていた。


 黒い執務服。


 前より、そこにいることが自然に見える。


 机の上には、現実と同じ地図。


 共同救済表。


 椅子は二つ。


「アルベルト陛下が来ます」


「はい」


 驚かない。


 すでに聞いていた。


「五日後です」


「はい」


「公務です」


「そうでしょう」


「会いたくないですか」


 聞いた後で、少し直截すぎたと思った。


 エレノア様は、すぐには答えなかった。


「分かりません」


 やがて、静かに言う。


「会いたいわけではありません」


「はい」


「ですが、会いたくないだけでもありません」


「はい」


「王として来るのであれば、領主として会います」


 声は落ち着いている。


「元婚約者として話したいと言われたら」


「その時に決めます」


「断ってもいいです」


「分かっています」


「私が代わりに断っても」


「それは困ります」


「ですよね」


「私のことです」


「はい」


 以前の私は、エレノア様を守るために先回りしただろう。


 今も、したい。


 でも、彼女はもう扉の外にいる。


 自分で決める。


「怖いですか」


「はい」


「私もです」


「あなたが?」


「推しの元婚約者と会うんですよ」


「その表現はどうかと思います」


「すみません」


 でも、少し笑ってくれた。


「玲奈」


「はい」


「身体の表に出るのは、あなたです」


「はい」


「ですが、今回の会談は」


「一緒に出ますか」


 エレノア様が私を見る。


「できますか」


「分かりません」


「私も分かりません」


 人格が完全に入れ替わるわけではない。


 身体は私が動かしている。


 エレノア様の記憶と反応が重なる。


 声を出せるのか。


 表に立てるのか。


 試したことはない。


「無理にしなくていいです」


 私は言った。


「私が話します。必要なら、内側から止めてください」


「また任せることになります」


「任せるんじゃなくて、役割分担です」


「便利な言葉ですね」


「最近覚えました」


「私もです」


 エレノア様は少し考える。


「まず、あなたが話してください」


「はい」


「必要な時は、私も」


「はい」


「逃げません」


 その一言は、小さかった。


 私は頷く。


「私も逃げません」


 五日間は、早く過ぎた。


 迎えの準備だけをしていたわけではない。


 王都備蓄を各領へ分けた。


 ハルツ領の木橋に仮設の渡し綱を張った。


 リーデン領の種籾補填を確認した。


 モラン領では、私有備蓄から戻した食料を再計量した。


 ヴァルツェンでは、薬草梱包の手順を改めた。


 セリアが、自分の監督不足を記録へ残した。


 薬草庫の若い二人には、罰ではなく再訓練を課した。


 ベルナ村の冠水畑では、春麦を諦め、豆へ切り替える区画が決まった。


 アンナ・ベルクは、再配布される種の受取確認役になった。


「私が見ます」


 彼女は言った。


「今度は、誰が何袋持っていったか」


「お願いします」


「信用したわけじゃありません」


「分かっています」


「でも、見ないで文句を言うのも違うので」


 その言葉に、少しだけ救われた。


 王が来る日の朝。


 空は晴れていた。


 雨の後の青空は、痛いほど明るい。


 山には崩れた斜面が見える。


 ベルク川はまだ濁っている。


 城館前に、大きな飾りは出さなかった。


 ヴァルツェンの旗。


 王国旗。


 それだけ。


 領民を沿道へ並べることもしない。


 皆、仕事がある。


 畑。


 橋。


 倉庫。


 王を迎えるために、復旧を止める理由はない。


「到着です」


 見張り塔から鐘が鳴る。


 城門の向こうに、騎馬隊が見えた。


 金の装飾は少ない。


 近衛の鎧も、泥がついている。


 王都からの道も、楽ではなかったのだろう。


 先頭近くに、アルベルト陛下。


 記憶の中より、少し痩せて見える。


 王冠はない。


 旅装。


 それでも、姿勢で王だと分かる。


 馬を降りる。


 私たちは城館前で迎えた。


 オルド。


 ユリス。


 セリア。


 各部署の責任者。


 私は、一歩前へ出る。


 身体が固い。


 呼吸を整える。


「国王陛下におかれましては、遠路ヴァルツェンまでお越しいただき、恐悦に存じます」


 礼をする。


 身体は、昔の作法を覚えている。


 完璧な角度。


 完璧な間。


 顔を上げる。


 アルベルト陛下と目が合った。


 彼の目が、わずかに揺れた。


「出迎えに感謝する。ヴァルツェン女伯」


 エレノア。


 とは呼ばなかった。


 公の場だから。


 領主として。


「救済業務の最中です。簡素な迎えとなりましたことをお許しください」


「詫びる必要はない。私を迎えるために、復旧を止めなかったことの方が正しい」


 アルベルト陛下は、そう応えつつ城館ではなく、その向こうの地図板や積まれた物資を見る。


「止めなかったのだな」


「止める理由がございません」


「そうだ」


 短い答え。


 昔なら、少し傷ついたかもしれない。


 今は、それでよい。


「まず、共同救済の現況を見せてほしい」


「謁見室ではなく?」


「執務室へ」


 王が来たからといって、儀礼を先にしない。


 その選択も、以前とは違う。


「承知しました」


 執務室へ案内する。


 壁一面の地図。


 貼り重ねた紙。


 訂正だらけの共同救済表。


 泥のついた現場報告。


 アルベルト陛下は、しばらく黙って見ていた。


 随行のクラウスが、地図の前へ立つ。


「王都で受け取った写しより、更新が多いですね」


「今朝まで動いております」


「モラン領からの百五十袋は」


「百四十四袋が使用可能。六袋は破袋」


「リーデン西部へ」


「人足輸送中です」


「ハルツ三村」


「通常連絡回復。木橋は未復旧」


 クラウスが一つずつ確認する。


 アルベルト陛下は、最後の決定者欄を見る。


「私の名もある」


「王都備蓄放出と、領境通行特例です」


「ああ」


「各領主の名も」


「確認した」


「ヴァルツェンの名は、調整と領内供出のみです」


 あえて言う。


 全責任ではない。


「それでよい」


 アルベルト陛下は、はっきり答えた。


「今回の命令は、そうするために出した」


 ユリスの肩から、少し力が抜ける。


 彼も、その言葉を必要としていたのだと思う。


 会議はすぐに始まった。


 議題は、復旧。


 橋梁。


 街道。


 種籾補填。


 救済費の分担。


 教会施設の復旧。


 軍の撤収。


 そして、共同救済表を一時措置で終わらせるか。


「終わらせるべきではありません」


 私が言うと、アルベルト陛下が頷く。


「私もそう考える」


「ただし、王都で一括管理する形には向きません」


「距離がある」


「はい。それだけでなく、川の上流と下流では、見るものが違います」


 地図を指す。


「今まで、領境ごとに備蓄と道を見ていました。しかし、水害も物流も、ベルク川と支流に沿って動いています」


「流域単位で残すべきだと」


「はい」


「誰が調整する」


 問いは、分かっていた。


 それでも、すぐには答えない。


「ヴァルツェンが担えます」


 室内が静まる。


「ただし」


 続ける。


「恒常的な調整権限が必要です。各領へ命令する権限ではなく、情報提出を求め、矛盾を指摘し、共同計画を作る権限」


「領境通行特例は」


「災害時のみ王命で発動」


「備蓄供出は」


「各領主の決定」


「王都備蓄は」


「国王陛下の決定」


「現場判断は」


「事前に定めた範囲で現地責任者」


 アルベルト陛下は、一つずつ確かめる。


「ヴァルツェンが最終決定者になる項目は」


「流域全体の優先順位案。中継地の調整。報告様式。事故記録の集約。各領間の情報差の提示」


「案であって、命令ではない」


「はい」


「それで機能するか」


「国王と各領主が、自分の仕事をするなら」


 少し強い言い方だった。


 でも、アルベルト陛下は目を逸らさなかった。


「耳が痛いな」


「必要な確認です」


「分かっている」


 昔なら、エレノア様が言い方を和らげたかもしれない。


 今の私は、そのまま言った。


 身体の奥から、エレノア様の気配が重なる。


 否定しない。


 一緒に立っている。


 会議の終盤、アルベルト陛下はクラウスへ合図した。


 クラウスが、革筒から別の文書を出す。


 まだ封はされていない。


 草案。


「今後の北部統治体制について、王都で案を作った」


 アルベルト陛下が言う。


「正式決定ではない。現地の意見を聞くために持ってきた」


 文書が机へ置かれる。


 私は読む。


 ベルク川流域における恒常的な防災、物流、備蓄連携体制。


 中枢をヴァルツェンに置く。


 調整権限を持つ上位爵位を新設。


 ヴァルツェン女伯を陞爵させる。


 そこまで読んで、指が止まる。


「辺境伯」


 声に出た。


「そうだ」


 アルベルト陛下は静かに言う。


「北部の国境、防災、物流、救済調整を担う辺境伯位を設ける」


「私に」


「他に適任はいない」


「その言葉は、危険です」


 すぐに答えた。


 室内が少し張り詰める。


「適任が一人しかいない制度は、その一人が倒れれば終わります」


 アルベルト陛下は、しばらく黙った。


 やがて、少しだけ苦く笑う。


「それも、耳が痛い」


「事実です」


「では、言い直そう」


 彼は草案を見る。


「現時点で、この制度を立ち上げる経験と実績を持つ者として、あなたが最も適している」


「後継者と分担者を育てる権限も必要です」


「含める」


「予算」


「専用枠を設ける」


「各領の情報提出義務」


「王命で定める」


「拒否した場合」


「理由を国王へ提出させる」


「ヴァルツェンが処罰するのではなく?」


「国王が決める」


「それなら」


 草案を読み進める。


 ただ、一箇所で引っかかった。


 仮称。


 ヴァルツェン辺境伯。


 私は、その文字を見つめた。


「何か」


 アルベルト陛下が尋ねる。


「名称です」


「ヴァルツェン辺境伯」


「はい」


「不服か」


「不服ではありません」


 ヴァルツェンは大切な名だ。


 追放先だった。


 今は居場所。


 でも。


 地図を見る。


 ベルク川。


 ハルツ。


 リーデン。


 モラン。


 複数の領。


 複数の村。


 それらを、ヴァルツェンの名で括る。


「少し考えさせてください」


「名称を?」


「はい」


「爵位そのものではなく」


「両方です」


 アルベルト陛下の表情がわずかに固くなる。


 当然だ。


 陞爵は大きな話だ。


「即答を求めるつもりはない」


「ありがとうございます」


「明日まで、この草案を預ける」


「よろしいのですか」


「現地の制度を、王都だけで決めるために来たのではない」


 その言葉は、信じたいと思えた。


「明日、改めて協議しよう」


「承知しました」


 公務の会議は終わった。


 アルベルト陛下は、現場を見たいと言った。


 倉庫。


 薬草庫。


 共同救済表の運用室。


 雨漏りする謁見室ではなく。


 最初に向かったのは倉庫だった。


 クラウスが、わずかに笑う。


「王妃殿下の教えでございます」


「倉庫から見よ、と?」


「はい」


 アルベルト陛下も聞こえていた。


「リリアナに何度も言われた」


 倉庫では、出入りする袋の札を確認した。


 食用。


 種用。


 薬草。


 補填分。


 王都から届いた分。


 どこから来たか。


 誰が決めたか。


 どこへ行くか。


 王は、黙って見た。


 白い手袋はしていない。


 袋へ触れ。


 札をめくり。


 泥のついた床を歩く。


 それだけで過去が消えるわけではない。


 でも、今の彼は、現場を見ることを避けていない。


 薬草庫では、セリアが十二袋を失った経緯を説明した。


 言い訳はしなかった。


 アルベルト陛下は処罰を命じなかった。


「再発防止は」


「梱包時の二名確認。雨天輸送時の内袋追加。受取側での発熱確認」


「記録は」


「こちらです」


「なら、続けてくれ」


 セリアは頭を下げた。


 王が去った後、彼女は小さく息を吐いた。


「怖かったですか」


 私が尋ねる。


「王様ですから」


「私もです」


「女伯様でも?」


「はい」


 セリアは少し驚き、それから笑った。


「なら、少し安心しました」


 夕刻。


 アルベルト陛下の一行は、城館の客室へ入った。


 私的な面会の申し入れはなかった。


 私も求めなかった。


 自室へ戻り、預かった草案を机に置く。


 ヴァルツェン辺境伯。


 その文字を、もう一度見る。


 精神世界の執務室へ入る。


 エレノア様は、先に草案を読んでいた。


「辺境伯」


 私が言う。


「はい」


「どう思いますか」


「権限としては必要です」


「爵位も?」


「現在の女伯位では、他領へ恒常的な情報提出を求める根拠が弱い」


「じゃあ、受けるべき」


「実務上は」


 エレノア様の声は冷静だ。


 でも、少し遠い。


「気持ちは?」


「分かりません」


「また名前が変わります」


「はい」


 グランディール。


 ヴァルツェン。


 次は。


「ヴァルツェン辺境伯なら、名前は残ります」


「はい」


「でも、私、少し引っかかります」


「何がですか」


 壁の流域図を見る。


 ベルク川。


 領境を越えて流れる。


「今回作るのは、ヴァルツェンを大きくする制度じゃないですよね」


「はい」


「ハルツも、リーデンも、モランも、ヴァルツェンの下に入るわけじゃない」


「調整圏です」


「なのに、ヴァルツェン辺境伯だと」


「他領がヴァルツェンへ従属したように見える」


 エレノア様が先に言った。


「そうです」


「反発が出ます」


「ですよね」


 地図の上で、一番太い線は領境ではない。


 川だ。


「ベルク、では駄目ですか」


 口に出す。


「ベルク川の?」


「はい」


「ベルク辺境伯」


「流域全体を、一つの防災と物流の単位にするなら」


 エレノア様が地図を見る。


 考えている。


「ヴァルツェンは消えます」


「爵位名からは」


「あなたは、それでよいのですか」


 問いに、少し戸惑った。


「私?」


「ヴァルツェンは、あなたが守ってきた名でもあります」


 胸の奥が熱くなる。


「消えません」


「ですが」


「城館はここです。領地も。人も。帳簿も」


 私は言葉を探す。


「名前が変わっても、ヴァルツェンを捨てるわけじゃないです」


「はい」


「むしろ、ベルク辺境伯がヴァルツェンに住むんです」


 エレノア様が私を見る。


「王都じゃなくて」


「はい」


「ここを本拠にする」


「はい」


 少しずつ、形になる。


「それに」


 私は続ける。


「ヴァルツェンの名前は、なくなりません」


「どうしてですか」


 今は、まだ答えが曖昧だった。


 でも、なぜか確信だけはある。


「大事な名前だからです」


 エレノア様は、長く黙った。


「玲奈」


「はい」


「ベルク辺境伯という名称は、あなたの提案として記録します」


「え」


「なぜ驚くのですか」


「私の名前が残るんですか」


「決定者名を残すのでしょう」


「でも、正式文書に遠野玲奈は書けません」


「では、私的業務記録へ」


「それなら」


 少し照れる。


「お願いします」


「はい」


「エレノア様は、どう思いますか」


「合理的です」


「それだけ?」


「他領の反発を抑え、統治圏の実態を示せます」


「気持ちは」


 今度は、私が聞き返す。


 エレノア様は、しばらく地図を見ていた。


「ヴァルツェンの名を失うことは、寂しいです」


「はい」


「ですが」


 彼女の指が、ベルク川をなぞる。


「ここを失うわけではない」


「はい」


「ならば、受け入れられると思います」


 私は頷く。


「明日、提案しましょう」


「一緒に」


「はい」


 現実へ戻り、草案の余白へ書き込んだ。


 仮称ヴァルツェン辺境伯を、ベルク辺境伯へ変更することを提案。


 理由。


 新たな統治圏は旧ヴァルツェン領の拡大ではなく、ベルク川流域を一体の防災、物流、備蓄調整圏として再編するものであるため。


 他領の従属を意味しない名称が望ましい。


 統治中枢は、引き続きヴァルツェン城館に置く。


 最後の一文だけ、少し強く書いた。


 王都への常駐は行わない。


 筆を置く。


 明日、辺境伯位を受けるかどうかを決める。


 アルベルト陛下と、もう一度向き合う。


 そして、必要なら。


 王と領主ではない言葉も交わす。


 窓の外には、濁ったベルク川が流れていた。


 王がヴァルツェンへ来た。


 けれど、私は王都へ戻らない。


 そのための名を、明日、選ぶ。


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