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断罪後の悪役令嬢も、私は推している  作者: Manabit
第七章 彼女の名を、王国が呼ぶ

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第44話 北部の道が切れる

 雨は、翌朝になっても止まなかった。


 夜の間に風が出た。


 城館の窓は細かく震え、屋根を打つ雨音は途切れず続いていた。


 日の出の時刻を過ぎても、空は薄暗い。


 遠くの山は見えない。


 灰色の雨の向こうへ、すべて沈んでいる。


 最初の報告は、朝食前に届いた。


「女伯様。上流街道の崩落が広がりました」


 前日、荷車を止めた場所だった。


 巡回兵の報告によれば、夜半に斜面がさらに崩れ、馬一頭が通れる程度に残っていた路肩も落ちた。


 完全通行止め。


「迂回路は」


「東側の林道が使えます。ただし、ぬかるみが深く、荷車は空荷でも難しいとのことです」


「人は」


「徒歩なら通れます」


「薬草袋程度は?」


「背負える量なら」


 私は地図へ印をつけた。


 ヴァルツェンから北西へ抜ける上流街道。


 一本目。


 まだ他の道がある。


 南へ回る道。


 ベルク川沿いの中流街道。


 少し時間はかかるが、完全に孤立したわけではない。


「巡回隊を増やします」


 ユリスが言った。


「中流街道と南回りの橋を優先確認します」


「お願いします。荷車を出す前に」


「はい」


 次の報告は、半刻後だった。


 ベルナ村の下流。


 ベルク川支流に架かる木橋の橋脚が傾いている。


 通行制限。


 軽荷の荷車一台ずつ。


 補修班を出したが、水が強く、川へ入れない。


 三つ目の報告は、さらにその後。


 北側の山道で落石。


 四つ目。


 モラン領との境にある石橋の手前で、路面が沈下。


 五つ目。


 ハルツ領から届くはずだった定期輸送隊が、予定時刻を過ぎても到着していない。


「連絡は」


「ありません」


 オルドが答えた。


「昨日の夕刻にハルツ領を出た記録はございます」


「荷は」


「種籾、乾燥薬草、塩、春用の農具部品」


 種籾。


 乾燥薬草。


 塩。


 どれも、遅れれば困る。


 特に種籾は、蒔く時期を逃せば取り返しがつかない。


「予定路は中流街道ですね」


「はい」


 橋脚が傾いている道。


「最後の確認地点は」


「ハルツ領側の第三中継所」


 そこからベルク川を越え、ベルナ村方面へ入る。


「伝令を二方向から」


 私は言った。


「こちら側から中流街道。もう一隊は南回りへ。輸送隊が止まっているなら、荷の状態と人員を確認してください」


「承知しました」


 命令を出す間にも、雨は強くなる。


 窓から見える中庭に、水が溜まり始めていた。


 排水路は流れている。


 だが、水面が下がらない。


「ベルク川の水位は」


「夜明けから指四本分上がっています」


「危険水位まで」


「まだ腕一本ほど」


「上流の雨量は」


「確認中です」


 まだ。


 まだ大丈夫。


 その言葉が、頭に浮かぶ。


 危険水位ではない。


 堰も壊れていない。


 村も浸水していない。


 でも、道が一つずつ消えている。


 川が溢れるより先に、人と物が動けなくなる。


「北部三領から、昨日の照会への返答は」


 私が尋ねると、ユリスが机の端に積まれた書状を見る。


「リーデン領から、第一報が届いております」


「早いですね」


「ゲオルグ・ハイム氏本人の署名です」


 封を開く。


 内容は簡潔だった。


 領内の備蓄放出、輸送、受入停止に関する各判断は、緊急時において領主から口頭で一任されたもの。


 正式な委任状はない。


 各判断後、領主へ報告を行い、追認を受けた。


 ただし、報告時刻と確認資料は記録していない。


 事故未満記録については、軽微な問題を各部署内で処理しており、中央帳簿へ集約していなかった。


 改変履歴については、書式そのものを変更していないため不要と判断した。


「正直ですね」


 私は言った。


「はい」


 ユリスは複雑そうな顔をした。


「正直だから、問題が小さくなるわけではありませんが」


「でも、直せます」


 少なくとも、分からないことを分からないと書いている。


 責任を隠していない。


 ゲオルグという官吏一人が、実際に判断していた。


 しかも、正式な権限なしで。


「王都へ写しを」


「すでに準備しております」


「リーデン領へは、今後の緊急権限を書面化するよう求めてください。過去の判断を消さずに」


「追認時刻と資料も、可能な範囲で聞き取りを」


「はい」


 次はハルツ領。


 返答はまだない。


 モラン領も。


 昨日は五日の期限を切った。


 だが、雨がこのまま続くなら、五日も待てない。


「最低限の確認項目だけ、再送します」


「どの項目を」


「今、動かせる食用備蓄。今、動かせる種用備蓄。使える道。渡れる橋。荷車数。病人用薬草。受入可能人数」


「事故未満記録は」


「後です」


 必要だ。


 でも今は、目の前の危機を動かす数字が先。


「期限は、本日夕刻」


「厳しいです」


「分かる範囲でよいと書いてください」


「未確認は未確認と」


「はい」


 空欄を埋めるために、適当な数字を書かせてはいけない。


 今、分からないことも重要な情報だ。


 ユリスが再照会文を書き始める。


 私は地図の上へ、雨で通れなくなった道を赤く引いた。


 上流街道。


 完全通行止め。


 中流街道。


 橋梁制限。


 北側山道。


 落石。


 南回り。


 今のところ通行可能。


 一本だけ残っている。


 それも、遠い。


 荷車が集中すれば、道が持たないかもしれない。


 昼前、ハルツ領からの輸送隊が見つかった。


 橋の手前で止まっていた。


 橋脚の傾きを見て、隊長が渡橋を中止した。


 正しい判断だ。


 しかし、荷は雨に晒されている。


 種籾は油布で覆っている。


 乾燥薬草も。


 塩袋の一部に水が入った可能性がある。


 輸送隊の後方では、道のぬかるみに荷車二台がはまっていた。


「荷を分けます」


 現場から戻った伝令が言った。


「軽いものは人足と馬へ。残りは、天候が落ち着くまで第三中継所へ戻します」


「種籾を優先してください」


「はい」


「薬草は、濡れていないものだけ」


「塩は」


「袋を確認。濡れた分は食用配布へ回せるか検査します。種籾や薬草と同じ倉庫へ入れないでください」


 ユリスが追記する。


「受取先を変更しますか」


「ベルナ村の倉庫は避けます」


「なぜです」


「川沿いです」


 まだ浸水していない。


 でも、水位は上がっている。


「高地の旧修道院倉庫へ」


「家畜避難に使った場所ですね」


「空いていますか」


「牧草地は使用中ですが、石造倉庫は空いております」


「そこへ」


 決定者名。


 私。


 エレノア・フォン・ヴァルツェン。


 その名を書いた。


 昼過ぎ、最初の異常が領外から届いた。


 リーデン領。


 西部の共同倉庫で、食用備蓄として記録されていた袋のうち、三分の一が種籾だった。


 用途別に分けた数字は、実物確認ではなく、領全体の総数から算出されていた。


 雨で二本の街道が使えなくなり、食用備蓄を放出しようとして初めて判明した。


「三分の一」


 私は報告書を握った。


「食用として計算していた量の?」


「はい」


「次の収穫までの最低残存量は」


「再計算中です」


「放出した分は」


「昨日までに二百袋」


「種籾を?」


「現在確認中です」


 喉の奥が冷たくなる。


 種籾を食べれば、今は助かる。


 でも、秋に収穫がない。


 来年の冬が来る。


「すぐに止めてください」


「リーデン領へ?」


「西部共同倉庫からの追加放出を。中身の確認が終わるまで」


「食料を待っている村があります」


「分かっています」


 止めれば、今の空腹が続く。


 止めなければ、次の冬を食べる。


「代替は」


 ユリスが問う。


「他の倉庫から」


「道が切れています」


 そうだった。


 リーデン西部へ通じる橋の一つが、今朝から制限されている。


 モラン領からの道は遠い。


 王都側からも、雨で遅れる。


「ヴァルツェンの備蓄は」


 オルドが静かに言った。


 私はすぐには答えなかった。


 ベルナ村の冠水補填。


 春の種。


 薬草。


 次の冬。


 余裕はない。


 それでも、全く出せないわけではない。


「用途別在庫を」


 備蓄庫管理人へ伝令を出す。


「今日動かせる食用備蓄。最低残存量を割らずに出せる量。輸送路別に」


 ユリスが私を見る。


「リーデン西部へ送りますか」


「まだ決めません」


 エレノア様なら、すぐに数字を出す。


 私はそう思った。


 でも、今はその前に確認する。


「王都へ緊急報告。リーデン領の食用備蓄に種籾混入の可能性。放出停止。代替食料が必要」


「はい」


「モラン領へ、動かせる食用備蓄の即時確認」


「道は」


「南側の高地街道なら、リーデン東部まで行けます。そこから人足で西へ」


「かなり時間がかかります」


「それでも、種籾を食べるよりは」


 私の声が強くなった。


 室内が静まる。


 急いでいる。


 怒っている。


 形だけの帳簿に。


 確認しなかった領主に。


 数字を割り振った官吏に。


 でも、怒っているだけでは食料は届かない。


「すみません」


 私は息を吐いた。


「続けてください」


「はい」


 ユリスは何も言わず、筆を動かした。


 午後になると、モラン領からも第一報が届いた。


 用途別備蓄の算定根拠。


 領都の総数を、前年の割合で振り分けた。


 実地確認は行っていない。


 主要倉庫六箇所のうち、雨で二箇所へ到達不能。


 動かせる食用備蓄量、不明。


 荷車数、四十二台。


 ただし、稼働可能数は確認中。


 橋梁状況。


 ベルク川支流の石橋一本、増水のため閉鎖。


 南高地街道は通行可能。


 今のところ。


「モラン領も、数字は使えません」


 ユリスが言った。


「でも、道は一本ある」


「はい」


「そこへ確認班を出してもらいます」


「本日中の実数確認を」


「食用備蓄だけでいいです。全部は無理です」


「種籾は」


「食用と混ざっていないかだけ」


 完璧を求めない。


 必要なところから。


 ハルツ領からは返答がなかった。


 その代わり、別の伝令が来た。


 中流街道の木橋が落ちた。


 完全に。


 橋桁の中央が流され、対岸との行き来ができない。


 輸送隊は無事。


 橋の手前で止めていたため、巻き込まれた者はいない。


 私は目を閉じた。


 止めていてよかった。


 事故未満記録。


 路肩の沈み。


 橋脚の傾き。


 誰かが見て、止めた。


 もし帳簿に書くだけで、実際には通していたら。


「仮橋は」


「水位が下がらなければ無理です」


「渡し舟は」


「流れが強すぎます」


「対岸の村は」


「三村が中流街道へ依存しています」


「食料備蓄は」


「ハルツ領の帳簿では、各村十日以上」


 帳簿では。


 誰も、その言葉を信じられなかった。


「実数確認を」


「対岸です」


「村長に」


「伝令を渡せません」


 道が切れる。


 連絡も切れる。


 紙の上では三村。


 実際には、人がいる。


 何人。


 どれだけ食べる。


 何が残っている。


 分からない。


「山側から回れませんか」


「北側の山道は落石です」


「南は」


「二日かかります」


 二日。


 雨が続けば、さらに。


「狼煙は」


 オルドが言った。


「村の見張り台が残っていれば、簡単な合図は可能でございます」


「備蓄不足の合図は決まっていますか」


「ヴァルツェン領内にはございますが、ハルツ領では」


 ない。


 制度を写しても、合図までは写していない。


「こちらから合図を送ります」


「意味が伝わらない可能性が」


「それでも」


 見張り台が見えるなら。


 火を三度。


 長く一度。


 こちらが確認を求めていると分かるかもしれない。


「対岸の高地に巡回兵を。夜までに」


「承知しました」


 地図の上で、赤い線が増える。


 道が消えるたび、領地の境は意味を失っていく。


 ヴァルツェン領。


 ハルツ領。


 リーデン領。


 モラン領。


 紙の上では分かれている。


 でも、川は同じだ。


 雨雲も。


 崩れた斜面も。


 橋も。


 物資も。


 人の移動も。


 領境で止まらない。


「ベルク川流域図を出してください」


 私が言うと、ユリスが顔を上げた。


「領境図ではなく?」


「はい」


 これまで使っていたのは、各領を色分けした地図だった。


 領主が誰か。


 税がどこへ入るか。


 どこからどこまで命令できるか。


 それを見るための地図。


「川と支流。橋。渡河地点。倉庫。村。高地。街道だけを」


「すぐには」


「古い治水図があります」


 オルドが言った。


「前領主時代のものですが、ベルク川本流と支流は記されております」


「持ってきてください」


 広げられた古い地図は、紙が黄ばんでいた。


 領境は細い線でしか書かれていない。


 代わりに、川が太く描かれている。


 本流。


 支流。


 堰。


 水門。


 湿地。


 高地。


 渡し場。


 村々は、川に沿って並んでいた。


 ベルナ村。


 クライネ村。


 ハルツ領の三村。


 リーデン西部の共同倉庫。


 モラン領の高地街道。


 すべてが、一つの水系にある。


「これで見た方が早い」


 私は呟いた。


「何がでしょう」


「今、どこへ物を動かせるか」


 領境を越える許可は必要だ。


 でも、その前に。


 物理的に動かせるかを見なければならない。


「リーデン西部へは、モラン南高地街道から東へ。ベルク川本流は渡らず、支流沿いに北へ」


「途中で二領を通ります」


「通行許可は王都に求めます」


「ハルツ対岸三村は」


「川の上流側から」


 地図を辿る。


 ヴァルツェン北部の林道を抜け、支流を二つ越える。


 道は細い。


 荷車は無理。


 馬と人足。


「薬草と塩だけでも」


「食料は」


「村の実数が分からない」


 焦りが胸を締める。


「まず連絡です」


 分からないまま大量に送れば、別の村が不足する。


 何も送らなければ、本当に足りないかもしれない。


「現地へ判断を返します」


「現地へ?」


「三村の村長に、備蓄の実数確認と、一日消費量、病人、種籾の保管状況を調べてもらう」


「連絡が届けば」


「はい」


「報告を待つ間に、こちらは馬で運べる範囲を準備します」


 ユリスが地図を見つめた。


「領境ごとに考えるより、流域ごとに考えた方が」


「道が見えます」


「責任者は」


 その問いで、私は止まった。


 ヴァルツェンから他領へ指示はできない。


 助言はできる。


 提案も。


 でも、命令権はない。


「それぞれの領主です」


「では、全体調整は」


 誰がする。


 王都。


 距離がある。


 各領。


 自領しか見えない。


 ヴァルツェン。


 全体を見始めている。


 でも、権限がない。


「王都へ緊急照会を」


 私は言った。


「ベルク川流域の輸送と備蓄を一体で調整する必要があります。領境通行許可、仮設中継所、馬と人足の徴用範囲」


「誰が統括するかも?」


「はい」


 筆が走る。


「女伯様は」


 オルドが静かに尋ねた。


「お引き受けになりますか」


 すぐに、はいと言いかけた。


 エレノア様の身体が答えを知っている。


 地図が読める。


 倉庫の数字も。


 道も。


 人も。


 自分がやった方が早い。


「……権限と責任の範囲が明確なら」


 私は答えた。


 以前とは違う答えを選ぶ。


「すべてをヴァルツェンで決める形にはしません」


「はい」


「各領主が自領の決定をする。王都が領境を越える命令を出す。ヴァルツェンは、流域全体の情報を整理する」


「それで間に合いますか」


 ユリスの問いは厳しかった。


「分かりません」


 正直に言う。


「でも、全部こちらで決めたら、また同じになります」


 誰かが一人で背負う。


 他の者は、印を押すだけになる。


「今は、急ぐための分担を作ります」


 夕刻、王都行きの緊急報告が出た。


 ベルク川流域における複数街道の寸断。


 中流木橋の流失。


 リーデン領における食用備蓄と種籾の混在。


 モラン領の実数未確認。


 ハルツ領三村との連絡途絶。


 領境単位の管理では、物資輸送と受入判断が遅れる可能性。


 流域全体を対象とした一時的な調整命令を求める。


 文書の最後には、私の名を置いた。


 ヴァルツェン女伯エレノア・フォン・ヴァルツェン。


 王都の決定を待つ。


 でも、待っているだけではいられない。


 モラン領へ、食用備蓄の実数確認要請。


 リーデン領へ、種籾放出停止と代替量算出。


 ハルツ領へ、三村の備蓄確認。


 ヴァルツェン領内では、馬輸送隊を仮編成。


 塩。


 乾燥薬草。


 少量の食料。


 毛布。


 縄。


 橋を渡れなくても、人が担げる量に分ける。


 命令ではない。


 要請と準備。


 それでも、できることはある。


 夜になって、対岸の見張り台から狼煙が上がった。


 巡回兵が執務室へ駆け込んでくる。


「女伯様。ハルツ領側より応答です」


「回数は」


「短く二度。長く一度。続けて短く二度」


 意味は分からない。


 ヴァルツェンの合図とは違う。


「繰り返していますか」


「はい」


「火の色は」


「通常です」


 病や襲撃を示す特殊な煙ではない。


 でも、何かを伝えようとしている。


「向こうも、こちらを見ています」


 私は言った。


「はい」


「合図を記録。時刻と回数を」


「承知しました」


 道は切れた。


 橋も。


 でも、完全に途絶えたわけではない。


 火が見える。


 人がいる。


 応答がある。


「明朝、山側の道へ出発します」


「女伯様が?」


 オルドが強い声を出した。


「いいえ」


 私は首を振る。


 エレノア様の身体が、前へ出ようとする。


 自分で見に行けば早い。


 でも、今ここを空けられない。


「巡回隊と薬草担当。現地判断権を持つ隊長を一人」


「誰を」


「候補を出してください」


 自分が行かない。


 任せる。


 その代わり、権限を書く。


 できること。


 できないこと。


 独自に配布してよい量。


 村長と合意できる範囲。


 帰還を優先する条件。


 すべて書く。


「隊長が現地で判断した場合、私の追認を待たなくてよいと」


「記載します」


「ただし、判断理由を残す」


「はい」


「失敗しても、隠さない」


 ユリスが私を見る。


「それも命令書へ?」


「入れてください」


「命令として、失敗を隠すなと」


「おかしいですか」


「いいえ」


 彼は少しだけ笑った。


「必要だと思います」


 深夜近く、ようやく執務室を出た。


 雨はまだ続いている。


 廊下の窓から、城館の外を見る。


 暗闇の向こうで、ベルク川の音がしていた。


 普段より近く、太い。


 私は精神世界へ入った。


 扉は開いていた。


 完全にではない。


 でも、人一人が顔を見せられるほどには。


 エレノア様は、扉の内側に立っていた。


「道が切れました」


 私が言うと、彼女は頷いた。


「聞いていました」


「上流街道。中流の橋。北の山道」


「はい」


「ハルツ領の三村と連絡が取れません。狼煙だけです」


「はい」


「リーデンでは、食用備蓄に種籾が混じっていました」


 エレノア様の表情が硬くなる。


「放出は」


「止めました」


「代替は」


「準備中です」


「王都へは」


「流域全体の調整命令を求めました」


「流域」


「領境ごとに見てたら、道が見えなかったんです」


 古い治水図のことを話す。


 川。


 支流。


 橋。


 村。


 倉庫。


 領境を薄くした地図。


「ベルク川でつながっていました」


「元から、そうです」


 エレノア様が言った。


「知っていたんですか」


「治水では、領境より流域を見ます」


「じゃあ、なんで今まで」


「統治権は領境で分かれます」


「水は分かれないのに」


「はい」


 不便だ。


 でも、それが今の制度。


「私が全部調整した方が早いと思いました」


 正直に言う。


「はい」


「エレノア様も思いましたか」


「ええ」


「でも、やめました」


「なぜです」


「また一人に集めたら、形だけの帳簿と同じになるからです」


 エレノア様は黙った。


「分かる人が全部やる。上の人は最後に印を押す。それじゃ、リーデン領と同じです」


「今は急を要します」


「だから権限を分けます」


「失敗するかもしれません」


「します」


 言い切る。


「私だって失敗します。エレノア様も」


「……はい」


「でも、失敗しないために一人へ集めたら、その人がいなくなった時に全部壊れます」


 王都がそうだった。


 エレノア様がいなくなって。


 条件だけが残って。


 意味が消えた。


「玲奈」


「はい」


「あなたは、私より他人を信じますね」


「そうでしょうか」


「私は、自分で確認した方が確実だと思います」


「私も思います」


「では」


「でも、自分しか信じない制度って、自分が倒れたら終わりです」


 扉の向こうで、エレノア様が目を伏せた。


「怖いですか」


 私が尋ねる。


「はい」


「任せるのが」


「はい」


「私もです」


 ハルツへ出す隊長。


 その人が判断を誤るかもしれない。


 配布量を間違えるかもしれない。


 帰還条件を見誤るかもしれない。


 怖い。


 それでも、任せる。


「明日、現地隊を出します」


「誰を」


「まだ決めてません」


「候補は」


「三人」


「経験は」


「一人は巡回歴が長い。一人は村との交渉が得意。一人は地形に詳しい」


「三人とも出しては」


「隊長は一人です」


「補佐を二人」


「人員が足りなくなります」


「では」


 エレノア様の言葉が止まる。


 自分で決めようとしている。


 私も。


 二人で顔を見合わせる。


「現場の人に、選んでもらいますか」


 私が言った。


「隊長を?」


「三人の上司に。今の状況で誰が一番合うか」


「私たちより、日頃の働きを知っています」


「はい」


「……そうしましょう」


 エレノア様の答えは、少し遅かった。


 でも、出た。


 扉の隙間は、昨日より広い。


 彼女の肩まで見える。


 まだ外へは出ない。


 それでも、扉の前に立っている。


「玲奈」


「はい」


「ベルク川流域を一つの地図で見るという考えは、記録してください」


「もちろんです」


「今後、必要になります」


「今後?」


「この雨が止んでも」


 エレノア様は言った。


「川は、領境を覚えません」


 私は頷いた。


 現実へ戻り、私的業務記録を開く。


 上流街道、完全通行止め。


 中流木橋、流失。


 北側山道、落石。


 ハルツ領三村と通常連絡途絶。狼煙による応答あり。


 リーデン領西部共同倉庫、食用備蓄と種籾の混在を確認。


 追加放出停止。


 モラン領、用途別備蓄実数未確認。


 ベルク川流域図を用い、領境を越えた輸送経路の再確認を開始。


 王都へ、一時的な流域調整命令を要請。


 現地隊へ限定判断権を付与予定。


 そこまで書き、最後に一行を加えた。


 領境が道を分けても、川と飢えは分かれない。


 雨音は、夜更けまで続いていた。


 道が切れた場所。


 橋を失った村。


 数字の合わない倉庫。


 狼煙だけが届く対岸。


 それらは別々の問題ではない。


 一つの川の上で起きている。


 そして、その川の名は、ベルクだった。


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