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断罪後の悪役令嬢も、私は推している  作者: Manabit
第六章 王冠は誰の手を汚す

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幕間 王宮書記官は王の署名を見る

 私は長く、王宮の文書を扱ってきた。


 王太子府に勤めていた頃から数えれば、もう三十年近い。


 命令書。


 予算書。


 領主からの報告。


 教会との取り決め。


 軍務局から上がる動員案。


 慈善事業の配布表。


 王族の名が最後に置かれるまで、どれほど多くの手を通るかを知っている。


 王の署名は、いつも最後にある。


 だが、その署名へ至るまでに、誰が何を決めたのかは、完成した文書だけを見ても分からない。


 それを、私は知っていた。


 知っていて、長い間、深く考えなかった。


 北西部緊急救済令の草案を受け取った時、私はまず、保管方法を尋ねた。


 清書済みの命令書は、王命書庫へ。


 各局への写しは、通達記録へ。


 添付の地図と備蓄表は、北西部救済案件として別綴じにする。


 通常なら、それで終わる。


 草案は破棄する。


 修正前の数字や、途中で消された文言まで残す必要はない。


 王命として効力を持つのは、清書された最終稿だけだからだ。


 だが、陛下は言われた。


「草案も保管せよ」


 私は、思わず顔を上げた。


「清書のみではなく、でございますか」


「そうだ」


 机の上には、訂正だらけの紙があった。


 受入人数、百五十。


 その数字には線が引かれ、百へ直されている。


 南回り荷車隊による輸送。


 その横に、馬輸送を先行させるとの追記。


 救済費用は予備費より支出。


 予備費だけでは足りず、王室祝祭費、王妃巡幸祝賀費、直轄領修繕費の一部を組み替えると書き足されている。


 各領主へ備蓄報告を求める。


 その下へ、用途別内訳、最低残存量、放出可能量、輸送可能量と加えられている。


 さらに、報告を拒む領主への特例停止。


 受入停止を命じた者。


 移送先を変更した者。


 備蓄放出量を変えた者。


 決定者名を記録すること。


 紙は美しくなかった。


 行間に文字が増え、欄外へ矢印が伸びている。


 筆跡にも迷いがある。


 強く書かれた文字。


 一度薄くなり、もう一度書き直された箇所。


 陛下がどこで止まり、どこで考え直したかが、そのまま残っていた。


「この草案も、王命書庫へ?」


 私が尋ねると、陛下は少し考えられた。


「同じ箱へ入れよ」


「清書と、同じ箱へ」


「私が何を決めたかだけでなく、何を迷ったかも残る」


 その言葉に、私はすぐには返事ができなかった。


 王宮文書は、迷いを消して保存する。


 それが普通だった。


 後世へ残すのは、決定された形。


 命令の明確さ。


 王権の一貫性。


 途中の逡巡や対立まで残せば、決断が弱く見えることもある。


 だから、草案は捨てられる。


 少なくとも、これまでは。


「承知いたしました」


 私は深く頭を下げた。


 草案を抱えて書庫へ向かう途中、王太子府時代の文書を思い出した。


 当時のアルベルト殿下も、多くの政策を発案された。


 冬季救貧院支援。


 孤児院への衣料配布。


 地方教会への薪補助。


 施療院への薬草供給。


 凶作地の徴税延期。


 民を思う、優しい政策だった。


 王太子殿下は、人の苦しみを聞けば心を痛めた。


 救いたいと望まれた。


 その気持ちに、偽りはなかった。


 私は、何度もその文書を清書した。


 表紙には、


 王太子アルベルト殿下御発案。


 そう書かれていた。


 そして、中身には別の筆跡があった。


 エレノア・フォン・グランディール侯爵令嬢。


 後のヴァルツェン女伯。


 彼女の文字は細く、迷いが少なかった。


 対象者。


 必要量。


 輸送経路。


 優先順位。


 財源。


 配布責任者。


 例外条件。


 不正防止。


 苦情の戻し先。


 次年度の見直し。


 王太子殿下の言葉は、政策の最初にあった。


 令嬢の文字は、その後のすべてにあった。


 会議で反対が出れば、彼女が答えた。


 教会が条件を嫌えば、彼女が説明した。


 貴族家へ負担を求める時も。


 商会と価格を交渉する時も。


 対象から外れる者へ、なぜ外れるのかを告げる時も。


 王太子殿下は、最後に署名された。


 整えられた文書へ。


 私は、それを王太子殿下の署名として保存した。


 間違いではない。


 最終裁可は殿下のものだった。


 政策は王太子府の名で実施された。


 だが、その署名へ至るまでの迷いは、文書に残っていなかった。


 反発も。


 削った案も。


 誰が嫌われたかも。


 すべて、完成した書類の外にあった。


 私は知っていた。


 会議室から戻ったエレノア令嬢が、無言で草案を書き直す姿を。


 教会代表の抗議を受けた後、説明文を柔らかく修正しながら、条件だけは消さなかったことを。


 王太子殿下から、


 もう少し人を信じてもよいのではないか。


 そう言われた日のことも。


 令嬢は、承知しましたと答えた。


 次に上がってきた文書では、文面が柔らかくなっていた。


 だが、受取責任者欄も、用途別の区分も、余剰品の返還条件も残っていた。


 私は、その清書をした。


 そして、元の草案を処分した。


 王太子殿下の署名は、いつも整った文書の下にあった。


 美しい署名だった。


 迷いも、汚れも見えなかった。


 それを不思議だとは思わなかった。


 王族の署名とは、そういうものだと思っていたからだ。


 北西部緊急救済令の草案は、違った。


 陛下の筆跡が、途中にある。


 財務局の案を消した線。


 軍務局の輸送案へ加えた言葉。


 教会の受入人数を減らした数字。


 祝祭費を削ると決めた追記。


 決定者欄へ書かれた、国王アルベルトの名。


 私は清書済みの救済令と草案を同じ箱へ入れた。


 箱の表に、案件名を書く。


 北西部緊急救済令。


 決裁者、国王アルベルト陛下。


 参考資料、ヴァルツェン女伯提出様式。


 その文字を書いた時、少しだけ手が止まった。


 ヴァルツェン女伯。


 かつてのグランディール侯爵令嬢。


 彼女の名は、今回の命令書本文にはない。


 それでよいのだろう。


 彼女が送ったのは、判断のための欄だった。


 命令を出したのは、国王。


 その区別が、今回は残っている。


 救済令が布告されると、抗議文が届き始めた。


 最初は式典局。


 夏至祭の規模縮小について、再考を求める意見書。


 祝祭は民心を支えるものであり、御成婚後最初の大祭を縮小すれば、王室の威信へ影響する。


 次に、寄付商会。


 すでに発注済みの装飾布と祝宴用食材について、契約変更に伴う損失補填を求める書状。


 教会からは、巡礼宿の受入上限に関する抗議。


 救いを求める者を門前で止めたとして、現地司祭が激しい非難を受けているという。


 そして、貴族院。


 備蓄報告を拒んだ領主への特例停止は、王権による私有財産への過度な介入である。


 抗議文は、日ごとに増えた。


 私は、それらを陛下の机へ運んだ。


 一通目の時、陛下は眉を寄せられた。


 二通目では、長く息を吐かれた。


 三通目では、読む前に目を閉じられた。


 嫌なのだろう。


 当然だ。


 誰も、責められるために王冠を戴くわけではない。


 アルベルト陛下は、特に人から憎まれることを好まれない。


 王太子時代から、そうだった。


 相手の事情を聞く。


 双方に理があると認める。


 強い言葉を避ける。


 妥協点を探す。


 その姿勢によって救われた者も多い。


 だが、妥協できない線まで誰かへ預けることがあった。


 私は、そのことを文書の上で見てきた。


「教会からの抗議でございます」


 ある日の午後、私は新しい書状を差し出した。


 陛下は受け取り、黙って読まれた。


 中央教会巡礼宿の受入上限を撤廃するよう求める内容だった。


 門前で止められた者の中に、幼児を連れた母親がいた。


 その光景が王都で広まり、聖女王妃の慈善に反するとの声が出ている。


 受入上限を命じた者を明らかにし、教会側の責任ではないと公表してほしい。


 陛下は最後まで読み、書状を机に置いた。


「返答を」


「どのようにいたしましょう」


 私は筆を構えた。


「受入上限は維持する」


「はい」


「旧兵舎の受入状況を添える。門前で止めた者は、旧兵舎へ移送している。拒絶ではなく、分散であると」


「はい」


「受入上限の決定者は、国王アルベルト」


 私は筆を止めそうになった。


 だが、止めなかった。


「教会の判断ではないと明記する」


「承知いたしました」


「それから」


 陛下は、少しだけ迷われた。


 私は待った。


「門前で混乱が起きたことについては、王都軍の誘導が不十分だったと認める。次回から案内役を増やす」


「陛下のご判断として?」


「ああ」


 私は書き取った。


 受入上限は撤回しない。


 ただし、誘導の失敗は認める。


 教会へ責任を押しつけない。


 すべてを正しかったことにはしない。


 以前なら、誰かがこの形へ整えてから陛下の前へ出しただろう。


 今回は、陛下が自分で言葉を選ばれた。


 私は、その返答の草案も保管箱へ入れることにした。


 別の日には、貴族院から強い抗議が届いた。


 特例停止の撤回を求めるものだった。


 報告を拒んだ領主の一人は、古い名門家である。


 その家の代理人は、王都でこう語っているという。


 冷血伯の帳簿に惑わされた王が、貴族の権利を踏みにじっている。


 その文言を読み上げた時、陛下の手が止まった。


「ヴァルツェン女伯の名を出したのか」


「はい」


「彼女は、この特例停止を提案していない」


「その通りでございます」


「議事録にもあるな」


「ございます」


 ヴァルツェン女伯が送ったのは、用途別備蓄表と決定者欄。


 報告拒否への特例停止を決めたのは、陛下。


「返答には、それを明記する」


「はい」


「特例停止は国王の判断である。ヴァルツェン女伯へ責任を転嫁する発言は、事実に反すると」


 陛下の声は低かった。


 怒りがあった。


 だが、それだけではない。


 自分がかつてしていたことを、他人の言葉の中に見たのかもしれない。


 決定の結果だけを、厳しい提案をした者へ返す。


 自分は善意の側に残る。


 私は返答を書いた。


 最後に、陛下が言われた。


「名を入れよ」


「どなたの」


「私のだ」


 その一言は、当たり前のことだった。


 だが、私は、当たり前ではなかった年月を知っている。


「国王アルベルトの決定として通知せよ」


「承知いたしました」


 抗議は止まらなかった。


 陛下は疲れていた。


 机の上で指を組み、長く黙ることもあった。


 リリアナ妃殿下と話した後、書類を最初から読み直すことも。


 一度決めた内容のすべてに自信があるわけではないのだろう。


 旧兵舎の発熱者が増えれば、受入上限は厳しすぎたのかと迷う。


 街道修繕が遅れれば、直轄領修繕費を削るべきではなかったかと考える。


 商会の損失額を見れば、祝祭費の組み替え方を変えるべきだったのではないかと思う。


 だが、陛下は命令をヴァルツェンへ戻さなかった。


 女伯へ、次はどうすべきかと尋ねる書状も出さなかった。


 現地から上がる報告を読み、王宮の官吏と議論し、自分で改変を決めた。


 救済令の一部を変えた時には、その理由と決定者名を記録させた。


 旧兵舎の受入上限を、二百から百八十へ下げる。


 発熱者用の隔離区画を拡大するため。


 決定者、王都軍救済統括官。


 裁可者、国王アルベルト。


 南回り荷車隊の後続を一日遅らせる。


 橋の補修を優先するため。


 決定者、街道管理局長。


 裁可者、国王アルベルト。


 帳簿に、名前が残る。


 陛下の名も。


 私はそのたび、文書を読み返した。


 エレノア令嬢の筆跡を探す癖が、まだ残っている。


 だが、今回の書類にはない。


 ヴァルツェン式の様式はある。


 決定者欄も。


 事故未満記録も。


 けれど、判断そのものは王都で書かれている。


 それは、良いことなのだと思う。


 ヴァルツェン女伯の名がないからこそ、彼女の仕事が正しく届いたと分かる。


 ある夜、陛下が書きかけの紙を机に出したまま、別室へ移られたことがあった。


 本来なら、王の私的な書状を読むべきではない。


 私は紙を伏せようとした。


 その時、最初の一行だけが目に入った。


 エレノア。


 すまなかった。


 その下は、空白だった。


 私はすぐに紙を伏せた。


 見なかったことにするべきだった。


 だが、その一行は、しばらく頭から離れなかった。


 陛下が謝りたいと思っていることは、想像できた。


 許されたいとも。


 失ったものを、少しでも取り戻したいと願うこともあるだろう。


 それは、人として不自然ではない。


 だが、その書状は出されていない。


 代わりに出されたのは、救済令。


 抗議への返答。


 特例停止の通知。


 教会の責任ではないとする王命。


 ヴァルツェン女伯へ責任を戻さない議事録。


 それらは謝罪ではない。


 過去を償うものでもない。


 だが、謝罪だけを先に出すより、今は正しい順番なのかもしれない。


 私は書記官であって、裁く者ではない。


 陛下が許されるべきかどうかを決める立場でもない。


 ヴァルツェン女伯が何を思うかも知らない。


 ただ、文書を見る。


 そこに何が書かれ、何が消され、誰の名が残ったかを見る。


 その私の目には、今回の署名は以前とは違って見えた。


 救済の第一報が届いた日、陛下はヴァルツェン女伯への感謝状を作らせた。


 最初の草案には、王太子時代から国政を支えた功績に触れる一文があった。


 起草した若い書記官は、善意で書いたのだろう。


 かつての婚約者でありながら、今なお王国へ貢献する女伯。


 美しい物語になる。


 陛下は、その一文に線を引いた。


「これは要らない」


 若い書記官が、恐る恐る尋ねた。


「過去のご功績へ触れなくても、よろしいのでしょうか」


「今回、助言をしたのはヴァルツェン女伯だ」


「はい」


「元婚約者ではない」


 陛下の声は静かだった。


「王太子府時代の功績を今ここで持ち出せば、彼女の現在を過去の関係へ戻すことになる」


「では、領主としての功績のみを」


「そうしてくれ」


 感謝状は短くなった。


 ヴァルツェン女伯エレノア・フォン・ヴァルツェン。


 北西部救済に際し、提出された報告様式と助言が大きく資したこと。


 国王として感謝を表すること。


 ヴァルツェンの制度運用を、今後の北西部整備へ活用したいこと。


 それだけ。


 余計な美談はない。


 私は清書を終え、陛下の前へ差し出した。


 陛下は最初から最後まで読み、署名された。


 今度の署名には、訂正はなかった。


 迷いがなかったからではないだろう。


 迷うべきところを、草案の段階で自分で決めたからだ。


 国王アルベルト・レオンハルト・アーデル。


 署名の形は、王太子時代と大きく変わっていない。


 筆運びも。


 最後の線の上げ方も。


 それでも、私には別の署名に見えた。


 以前の署名は、整えられた文書の最後にあった。


 今回の署名は、迷い、反発され、削り、選んだ後にあった。


 それだけの違いだった。


 だが、王の署名にとっては、大きな違いだった。


 私は感謝状の写しを文書庫へ運んだ。


 北西部救済令の箱を開ける。


 清書された命令書。


 訂正だらけの草案。


 各局からの抗議文。


 陛下名義の返答。


 受入人数変更の記録。


 街道変更の記録。


 そして、ヴァルツェン女伯への感謝状の写し。


 同じ箱へ収める。


 以前なら、草案は捨てられていた。


 抗議文は別綴じにされた。


 迷いは消され、完成した命令だけが王の名で保存された。


 だが今回は違う。


 王がどこで迷い。


 何を削り。


 誰の反発を引き受け。


 どこで自分の名を書いたのか。


 その跡も、同じ箱にある。


 私は箱の蓋を閉じた。


 一度の署名で、過去は変わらない。


 ヴァルツェン女伯が受けた傷も。


 王都で冷血伯と呼ばれた年月も。


 王太子の理想を整え続けた事実も。


 何一つ消えない。


 陛下が一度嫌われる決定をしたからといって、すべてを理解したことにもならない。


 次には、また決められないかもしれない。


 誰かへ預けたくなるかもしれない。


 王は人である。


 人は、一度変わったからといって、二度と戻らないわけではない。


 それでも。


 今回の署名は、陛下ご自身のものだった。


 私は、長く王宮文書を扱ってきた。


 多くの署名を見た。


 美しい署名。


 急いだ署名。


 病床で震えた署名。


 怒りのまま強く押された王璽。


 だが、王が自分の迷いごと残した署名を見るのは、初めてだった。


 箱の表に、最後の一行を加える。


 草案、抗議、改変記録を含む。


 それは、通常なら不要な注記だ。


 だが、今回は必要だと思った。


 完成した命令だけでは、この署名が何を引き受けたのか分からない。


 私は筆を置いた。


 文書庫は静かだった。


 棚には、過去の王命が並んでいる。


 その多くは、美しく整えられている。


 誰が迷い、誰が嫌われ、誰が条件を書いたのか。


 もう分からないものも多い。


 だが、この箱には残っている。


 王が決めたこと。


 決めるまでに迷ったこと。


 そして、決めなかった時に汚れていた誰かの手を、ようやく自分の名で引き受け始めたこと。


 私は、その箱を棚へ収めた。


 王の署名は、紙の一番下にある。


 けれど、その重さは、そこへ至るまでに残った跡で決まるのだと、今は思っている。

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